14. 港町での最後の夜
「……ツカサ、ありがとう」
自分が住んでいた小屋に行くことははおろか、表通りすらも大手を振って歩くことは出来ない。そんなことをすれば、たちどころに衛兵たちに捕捉されるだろう。夜が明けるまでの時間を貧民すらも寄り付かない旧市街の片隅で過ごし、日の出と共に最低限の保存食を買ってこの街を発つ。それが、今の段階で考えられる最善の選択だった。
クアルスでの生活が終わりを告げる。旧市街にも残った潮のかおりが、この街での最後の夜の思い出になるのだ。春が明けたばかりでまだまだ肌寒い空気の下で、ナインと寄り添って夜空を見上げる。明るい月だ。これだけ大きな月明りの下では、廃墟の中でこそこそと隠れていなければ巡回しているかもしれない衛兵につかまってしまうかもしれない。
「ツカサにとっては、私はほとんど他人なんだよね。でも、こうして手を握ってくれた」
触れ合っている彼女の肩から感じる体温のおかげで、この寒い夜の中でも辛うじて身を震わせなくともすんでいた。ナインに言われるまで、その手を握り締めたままだったということを失念していた。それほどまでに、ジャンヌさんから逃げて廃墟の一画へ身を隠すまでの間、衛兵に見つかるのではないかとずっと気が立ったままであったのだ。
離そうとした手を、ナインはもう片方の手で小さく押さえつけた。わざわざ振りほどくことも無く、彼女の独白に耳を傾け続ける。
「檻の中から抜け出してから、ずっとあなたを探していた。警邏の人間たちに連れていかれる間際で目にいれたツカサの姿だけが希望だったから」
やはりあの時ナインは僕を見ていたのか。始祖族には立ち向かえないという現実を呑み込み、彼女のことは忘れようとしていたあの時の僕の姿を。
「街中で目にしたあなたの姿を見て、居てもたってもいられなかった。でも警邏の目につく中で姿は晒せない。だからあなたの荷物をとって、それで……ごめんなさい」
結果として僕がいったんは諦めた荷物を追ってフィンが路地裏に向けて走り出し、あの場に居合わせたアリアスによって殺されてしまった。だが、彼の死についてはナインに全ての責があるとは言えない。あくまで彼女の狙いは僕と再び人目のないところで再会をするという一点だけで、そこにアリアスという異物が紛れ込んだせいでこうなってしまった。
「……それを責める気は無いよ。たらればの話さ。そもそも僕がフィンを迎えに行こうと言い出さなければ、少なくともあの場で彼が殺されることは無かった」
過ぎたことはどうしようもない、それよりもこれからどうするかだと続けようとして自嘲した。僕は自分の過去を知るために彼女の手を取った。過ぎたことであるその過去を探し求める人間が、これからの未来の話をしようなんて矛盾もいいところだ。
彼女のせいで今現在この立場にいるだなんて思ってはいけない。矛盾を孕んだこの意志も、取りこぼしてしまったフィンの命も、全ては自分の決断によるものだ。ナインの存在はきっかけに過ぎず、元々自分の中にあった日常への違和感が形となって表れた結果がこれだ。一度決めた行動は、責任を持って最後までやり通す。僕は姿形も知らない自分の過去に決着を付けなければならない。自分の中で過去を知るということは、権利ではなくてもはや義務に近いものなのだろう。
「君は、僕の過去をどれほど知っているんだ?」
「……今のあなたよりも、ずっとずっと知っているよ。でも――」
「ああ、分かってる。これは自分で探さなければ意味は無い。でも僕の人生などたったの十数年の話だ。どこか探せば、いつかは見つかるはずさ」
陰りが見えた彼女の言葉に被せるように、そう言い放つ。それはナインへのフォローというよりも、むしろこれからあてもない旅に出ようとする自分に言い聞かせるようなものだ。いつかは答えが見つかると、最初くらいはそんな楽観的な意識を持っていなければ、いつかは頓挫してしまう気がしたのだ。
「それに最初に向かう場所は、もう決まっている……いや、それしか選択肢が無いってところだけどね」
クアルスから別の街に移るというのが目下一番の目的になる。しかし現状手元にある金銭を全て路銀に回したところで、そんな遠方にまでは到底行けやしない。国中の情報が集まる王都サンクト・ストリツなど高望みも良いところだ。路銀があまりかからず、そして移動手段に徒歩を用いても十分に行ける圏内にある街。それは一か所しか存在しない。
「城塞都市ヴァローナ。山間の盆地に築き上げられた、アストランテ王国北部の中核都市だよ」
まずはヴァローナへと向かい、そこから自由に動けるだけの資金を得ることが目下最大の目的となる。
まだこっちが人となりも知らないというのに、いつの間にかナインは左肩に頭を乗せて目を閉じていた。僅かに聞こえる息の音を耳に入れながら、月明りに照らされる外の光景を見つめる。もう訪れるかも分からないこの街を、せめて目に焼き付けていこう。これまで何度も歩んできた、古びた廃墟の群れから僅かに見えるクアルスの街並みが、とても今はまぶしく感じた。
港町クアルス
アストランテ王国の北東部に存在する、貿易港と漁港の双方で有名な街。
隣国から離れた立地であり、加えて始祖族の安定した統治や健全な衛兵の運用のため、全体的に治安は良い。
街の中心部から少し外れると旧市街が並んでおり、複雑に入り組んだ深層部には全くと言ってもいいほど人けが無い。
クアルスに限った話ではないが、岸を離れすぎて外海に出ると、海神の怒りを買い沈没すると言い伝えられている。
始祖族
この世界には、一般的な人間族の他に、始祖族という種が存在する。
彼らは自身の魂を顕現させた"霊剣"と言われる特殊兵器を各人が保有し、その上炎を巻き起こすなど強力な能力を持つ。
どちらか一つとっても人間族にとっては脅威であり、彼らをアストランテにおいて支配階級たらしめる要素である。
しかし霊剣が魂の具現化である以上、何らかの要因でその霊剣が破壊されれば彼らの命も崩壊してしまう。