12. 崩壊の日
「――ツカサ、なのか」
「ジャンヌ、さん……?」
廃墟の奥の暗闇からわずかに聞こえたその声は、明らかに動揺していた。その人影は姿勢を低くして警戒心を隠そうともせずに近づき、にわかに差し込む月の灯りの下に金色の髪の毛が小さく煌めく。衛兵の制式装備である長剣を構える手は小刻みに震えていて、彼女が身にまとう軽鎧もカタカタと音をならす。
「お前が……何故その女といるんだっ!? それに……フィンはどうして倒れて――」
つい数時間前にフィンと僕に護身術の練習と称した会に無理矢理参加させた、親切でお節介な衛兵のジャンヌさんが、その顔を険しく歪めて剣先を構えた。例え彼女が新入りの衛兵であっても、仮にも街の治安を維持する立場なのだから、倒れ伏すフィンの体の周囲にできた赤い色の水溜まりを見て何が起きているのか理解できないわけがない。
「ふ、フィンは始祖族の男に――」
「質問に答えろ。何故お前は、手配中の人間と共にいる?」
たとえ剣先が震えていようと、彼女は本気だ。今までに聞いたことが無いくらい、声が硬くそして険しい。
「その女は、難破船事件と衛兵殺害の容疑で指名手配となった!!」
「誤解です!! あなたたちの中に紛れていたアリアスという男、その正体は始祖族の殺人鬼で一連の黒幕だ!! フィンも、奴にやられたっ」
間違いなく、ジャンヌさんは僕たちに疑念を抱いている。片や難破船事件の犯人として指名手配となった少女と、片や血まみれで横たわる子供の脇で少女と共に路地裏にいる自分。たとえジャンヌさんが僕自身と面識があろうと、見過ごすことなんて出来やしないだろう。
アリアスが新入りの衛兵に紛れ込んだ異物であることなんて、詳しく調べれば絶対にわかるはずだ。その一心で彼女に訴えかける。しかし、ジャンヌさんは剣を下ろそうとはしなかった。
「……ツカサ、こっちへ来い。どのみちその女は衛兵が確保することになる。お前とどのような関係なのかはこの際どうでも良い」
「彼女は誰も殺していません!! 少なくともアリアスが始祖族だった証拠ならば、あいつの残骸のところまで案内したっていい!!」
さっきまで拒絶しようとしていたはずのナインをかばう言葉が自然と口をつく。一度知り合った人間があらぬ疑いをかけられているのを無視するだなんて僕には出来ない。それに、もうこの世から消滅したアリアスという存在に引き起こされた罪を被せられるなんて、真っ平御免だった。
「ツカサ、お願いだ戻ってきてくれ。私もお前が黒幕なんかだなんて思っていない!! だが、たとえどんな事情でも……その女だけは確保しなければならない」
「……何故ですか。アリアスも衛兵も、どうしてそこまでこの子を求めるんですか?」
そしてようやく違和感に気がつく。ジャンヌさん自身は、多分僕たちが犯人とは思っていない。しかしナインの身柄だけは何としてでも確保しようとしている。もはや事件の容疑者だとかは関係なく、ただ彼女の存在だけが目的かのよう。まるでアリアスと一緒だ。彼も、ナインに関してはその命ではなく身柄の確保だけを目的としていた。
「それは……私だって知らされていない。だが我々の目的はそいつで、ツカサじゃないのは確かだ」
やはりだ。アリアスのときだって、あくまでナインに関与したという一点だけで命を狙われたのであって、僕自身に何かがあったわけではない。衛兵たちの目的はナインの存在、ただそれだけだ。
仮にこのままジャンヌさんの方へと歩みより、そして後ろにいるナインを見捨てれば、全ては解決するのだろう。衛兵がアリアスと同じように僕を排除する可能性は捨てきれないが、無関係だと声高に叫べばきっとクアルスの日常に戻れるはずだ。全ては元通りに、ただフィンを喪ったという事実のみが残るだろう。
「……ツカサは、失った記憶の中身を、そしてあなた自身の意味を知りたくないの?」
いつの間にかすぐ後ろに佇んでいたナインが小さな声で囁いた。熱っぽい吐息と共に耳へと伝わるそれは、僕の背筋を容易にゾクリとさせる、まるで悪魔の言葉だ。クアルスでの日常という選択に傾きかけた選択が、強引に押しとどめられる様を幻視する。
今まで過ごしてきた変哲のない日常の中で抱き続けてきた違和感。自分は一体何なのか、そして一体どこから来たのか。それはふとした瞬間に表れ、そしていつの間にか消え失せるような淡いものだった。でもアリアスの凶刃が迫るその刹那に、違和感はその一瞬だけ渇望に変わった。一度その変化を容認してしまえば、もう今まで通り違和感を見てみぬ振りなんかは出来ないだろう。その事実を、ナインの言葉によって僕は強く認識させられた。
彼女の手を取る。それはつまり、日常の崩壊を意味する。数日前の自分が今の状況に直面したら、何も考えることもせずに彼女を否定するのだろう。でも、今の僕は自分でも訳が分からないくらいに心が揺れ動いている。
「直接答えを教えることは出来ない。でも私は、ツカサと一緒に探すよ。あなたの過去と、そしてあなた自身を。だからツカサ――」
首元に、ひんやりとした腕が回された。それは僕という存在と思考を絡め捕るようなものなのか、それともただひたすらに懇願をするためのものなのだろうか。僅かに震えが伝わるそれを拒絶することもできないままに、彼女は耳元に口を寄せた。
「――もう、私を一人にしないで」
心当たりもくそもない、まったく身に覚えがない彼女のその言葉が、どうしようもないくらいに頭の中を塗りつぶした。