1. 難破船
「ツカサ!! 難破船の漂流物を見に行こうぜっ!!」
うたたねをしていた僕を叩き起こしたのは、元気いっぱいな男の子の一声だった。ガツンと頭に響く大音量、そしてバンバンとぶっ叩かれる机。いきなりの事態に驚きにもんどりうって机から墜落しなかったのは、夢の世界から無理やり引き戻されたことへの抵抗である。うんざりしたように薄く目を開けて、その襲撃者の姿を視界にとらえた。
「……フィン。まだ夜明けも早々になんだよ」
彼が開けっ放しにしている外の様子から見て、まだ日も上り切っていないような早朝だ。身震いするような肌寒い外気が屋内に入り、作業途中のまま机に突っ伏して寝てしまっていた僕の足元に冷たさを伝える。このままここで二度寝すれば間違いなく風邪を引くだろうし、ベッドで寝なおそうという行為はこの男の子が許しはしないだろう。
「何って、難破船だよ!! 夜中にあんだけ騒がしかったっていうのに、知らなかったのかよ!?」
「……ごめん。昨日は遅くまで仕事してたから、そんな喧騒は全く知らないんだ。それで、その難破船って何のこと?」
机にほっぽり出したままの手紙たちを纏めながら、彼に苦笑いを向ける。彼のはしゃぎようや、それに難破船というキーワードから言って、それなりの大事が起きたということは想像に容易い。
だけど恥ずかしいながら、寝落ちをしてからこの時間に至るまで、決して厚い壁があるとは言えない小さな小屋の外で騒ぎがあったなんて欠片も知らなかった。僅かな月明りを頼りにして紙に文字を書く単純な作業をしていたのが昨夜の最後の記憶で、気が付けばこんな早朝で机に向かってぶっ倒れていた次第である。
「しょうがねーなぁ。じゃあ説明してやるよ――」
彼の話を纏めると、確かに港の方で結構な事態が起きているということだけは分かった。
日もすっかり落ちた昨夜遅くに、付近を航行していた船が沈没をしたらしい。その船とは、夜明けと共に寄港する手筈になっていた輸送船スターランテ号。灯台の見張り番が見たのは、沖合いの離れたところで突如巻き起こる大きな火柱だった。そこから船が真っ二つに折れて、春先の冷たい海に船の残骸が漂流したのはあっという間の出来事だった。海も穏やかで嵐も無く航海には何の問題も無かった気候の最中での沈没騒ぎに、事件の可能性を疑って街の衛兵も動き出す騒ぎになっているそうな。
なるほど、聞けば聞くほど大事に感じるし、確かにてんやわんやな出来事だ。しかし、だからと言ってこのわんぱく坊主が騒ぎ出すのは何かが違うのではないかと思う。
「あのねぇ、僕らが行ったところで賑やかしにしかならないだろう。それに君の話を聞いた限りじゃ、今は衛兵の人たちが動いているんでしょ。下手に港で騒げば彼らの仕事を邪魔することになるよ」
「チッチッチ、ツカサは分かっていないなぁ。確かに港に行けばそうなるけど、オレが行こうって言ってるのは海岸線さ」
現在進行形で漂流者の救出作戦が決行されている港湾地区ではなく、そこから少し離れた海岸線に行こうと提案をされる。そんなとこに行って何を見ようというのか、そう切り出そうとした僕よりも先に、彼はニヤニヤとした笑顔をうかべた。
「オレがやろうとしてるのは野次馬じゃなくて宝さがしさ!! この季節は海岸近くは北向きの海流があるんだ。だから海岸に何か流れ着いてるかもしれないぜ」
「……重要な参考物は全て衛兵に渡すこと。いいね?」
もちろんだぜ、と楽し気に騒ぐ彼を見てため息を吐いた。僕よりもたぶん二回りは小さい歳の子供にここまで振り回されるとは、まったく朝っぱらからひどく疲れるもんだ。だからと言って放っておけば彼は一人で行きかねないし、ならば監視役を兼ねて同行してやるのが吉だろう。一応は年長者であることには間違いは無いんだし、しょうがねえべと息を吐く。
とうとう白息まで出てきた部屋の室温にブルりと体を震わしながら、壁に掛かっていた厚手の羽織を手に取った。
「どんなにたくさんのものが見つかっても、絶対に授業の時間までに切り上げる。それを守ってもらうからな」
「ったりめーよ。じゃあ行こうぜ、ツカサ先生!!」
弾丸のようにはしゃぐ彼に手を引かれ、朝もやの漂う街へと足を踏み出した。
* * *
ここクアルスは、アストランテ王国の北東部に位置する不凍港で有名な港町だ。漁業と海上貿易の要所である上に、全体的な治安の良さも手伝い古くからこの地域の中核としての繁栄が続いている大都市でもある。そんなこの街で暮らす一般市民の僕は、別段漁師や貿易商などではなく、それどころか自分でもうまく説明の出来ない背景を抱えている。
今の僕には、ツカサという名前の他に自分を説明できるものはない。ここ半年以上の記憶が、まったく存在していないからだ。自分が一体何処で生まれ育ったのか、家族はどうしているのか、そしてどうしてこの港町クアルスに流れ着いたのか。そんなことは全てさっぱり分からない。
半年前の秋口に、海岸線近くの浜辺に打ち上げられていたのをフィンの父親に見つけてもらってからずっと、そのまま変わりはないのだ。精々自分について判明しているのは、恐らく10代後半くらいの人間族の若い青年であることだけ。
ただ自分の名前の他に、文字を読み書きできるだけの記憶が残っていたのは幸いだった。そのおかげで、フィンの家族に頼らずとも僕は独立して生計を立てることが出来ていた。街の子供たちに簡単な読み書きや算数を教える傍らで、手紙の代筆も小銭稼ぎに行う。たったのこれだけでも、街の外れの小さなおんぼろ小屋で一人暮らしをするだけの稼ぎは得ている。同年代の若者の多くが漁師や大工という腕っぷしにを必要とする職に就く中で、それほど力仕事が得意じゃない僕にとって今の状況は天職といっても過言じゃない。
クアルスでの生活は悪くはない。むしろこうして生活できている以上かなり良いといって間違いは無いだろう。しかし、記憶を失っているという事実がいつもつきまとっているせいか、日常の中にかすかな違和感を抱き続けている。変わらぬ日々を送る傍らで、本当の自分とは何かを考える毎日。それが、ツカサという人間の日常だ。
海岸線に続くやぶ道を先行するフィンという名前の小柄な少年は、港町クアルスの漁業協同組合長の父親を持つ、漁師の卵だ。そして数少ない僕の生徒でもある。彼は今日みたいに、僕のボロ小屋に転がり込んできては時間を奪っていくわんぱく小僧だ。恐らく懐かれているのだろうけど、同時に心労も蓄積していく。どこか、彼に見つからないような秘密の場所を見つけておいた方が良いだろう。
後ろを振り返れば、石造りの建物が幾重にも続くクアルスの街並みが朝日を浴びている光景が目に映る。王国の東側に突き出た半島の付け根の街を背後にし、湾の北部に位置する海岸線がようやく見えてきた。
「やっぱり!! みろよ、結構流れ着いてるぜ」
「……本当だ。正直また適当なほら話だと思っていたよ、ごめんね」
流石は漁師の息子なだけあるなぁと素直に感心だ。フィンが指し示す海岸線には、確かにスターランテ号に積んであったものと思われる木箱や破損した船体がいくつか打ち上げられていた。まだ水平線の上にようやく太陽が姿を現したような早朝であり、僕たち以外はまだこの場所には訪れていないようだ。つまり、僕たちがこの散乱した現場の第一発見者であるということ。こればっかりは、フィンのお手柄であると言う他はない。
しかし、僕は同時に視線を険しくした。こういう船の漂流物が流れ着いているということは、同時にその船の船員たちもここに漂流してきているに違いない。事実、打ち上げられた木箱のすぐ近くに、海水塗れになった布の塊に包まった何かを見つける。たぶんフィンもそれを見つけたのだろう、楽し気で威勢の良かった彼の表情が、段々と強張っていく。
「フィン。君は大人たちを呼んできて。宝さがしよりも先にやることがある」
「……馬鹿にすんな、オレは漁師の息子だ。海で死んだ奴を引き上げてやるくらい、造作はねぇよ」
明らかに強がっている。声が震えていて、そして目つきも不安げだ。それでも彼は、自分の手でやると言い切って見せた。冷たい風が吹く中で腕をまくり、そして僕の返答も待たずに海岸線へとずんずんと進んでいく。むしろ彼に続いて歩き出そうとした僕がその一歩目を躊躇してしまうような有様なのに、フィンは対照的に年齢を感じさせない芯の強さがあった。
「オッサン達は漂流船本体近くを捜索しているから、ここはオレ達でやるしかない。ツカサはむしろ大丈夫なのかよ」
「……正直回れ右をしたいけれど、子供の君にだけやらせるわけにはいかないだろう」
おどけたように本音を話してみれば、彼はようやくぎこちないながらにも笑顔を見せた。そして示し合わせたわけでも無いけれど、海岸線にたどり着くと同時に二手に分かれて漂流者の捜索活動を開始した。
捜索なんて言ってみたけれど、流れ着いた人間なんてわざわざ探すまでも無かった。打ち上げられた灰色の布の塊は、見るからにそれであるということがわかる。駆け寄って布の中に包まった物を確認すると、血が引いて真っ白になった男の姿があった。
海水でふやけて膨らんだ顔面、表情は血の気を感じない土気色。どう考えても、生きているとは到底思えない変わり果てた姿。思わず、喉の奥から吐き気がこみ上げてくる。それでも僅かばかりの希望をもって手首を握ると、生者とはかけ離れて酷く冷え切っており、脈など当然のように無い。そこでようやく理解を強制される。この人は、死んでいるんだと。
死体に触れているというおぞましさを、たとえ亡くなっているとは言えどもこの人たちを陸に上げなくてはならないという義務感で塗りつぶし、大柄なその体の腕を引く。海水を多量に含んだその遺体は、浜辺を引きずるだけでも相当の重さを感じさせられる。不自然な角度に固まった腕が、今はむしろ運ぶのには助かった。物言わぬ遺体を海水線から離れた場所までもってきて、そこでようやくため息を吐く。今の季節が冬明けでよかった。もう少し温かい季節ならば、彼らの遺骸は埋葬するよりも前に海鳥に食い荒らされ、五体満足で墓に入ることは敵わなかっただろう。
向こう側からは、同じようにしてフィンが漂流者の体を引きずっている。だらんと垂れた腕と足、その状況で何の反応もなく引きずられているということは、あれもまた亡くなった船員なのだろう。
時間にしてそう長くはなかっただろうけど、少なくとも見つけることが出来た全ての船員を浜辺に並べ終えた頃には、僕は手も足もひどく冷えて、そしてとても疲れていた。10に届きそうな漂流者の中に、生存者はゼロ。中にはフィンよりも一回り年上の少年と思わしき遺体もあり、やるせなさが胸を突く。たかが短い間手や足の末端が海水で冷えただけでもここまで体力を消耗するのだから、一晩近く全身が浸かっていた彼らが生きているわけがないと理解をさせられる。
「せめて、宝さがしの一つでもしていこうか」
僕の隣には、水平線を無表情で眺めるフィンの姿があった。彼が今日こうして宝探しに行こうなどと言い出さなければ、彼らの死体はまた海水に絡め捕られて二度と陸地にあがることは無かったかもしれない。せめて船員たちを陸で葬ることが出来ただけでも、フィンはよく働いたんだと思う。だから、もうくたくたの体を引きずってでも、彼の当初の望みをかなえてやりたい。僕は、うなだれた様子の彼の手を取り、そして漂流した木箱の一つを指さした。
「あれの中身を見てみよう。もしかしたら、金銀財宝でもあるかもしれないよ」
「……金貨なんて船が沈んだら真っ先に海の底だよ。ばっかじゃねーの」
憎まれ口を叩きつつ、彼は立ち上がった。別にお宝があろうとなかろうと、どちらでもいい。せめて形だけでも彼と共に宝探しをしてから大人達を呼びにいこう。それで幾らかでも彼の気が晴れるならばそれでいい。
近付いてみると、僕のような大きさの人間でもちょうど入りそうなほど案外大きいサイズの木箱だった。箱の表面に貼ってあるのは、行き先指定のラベルだ。この積み荷は、この国の最北端の街から南部の王都に向けてのものらしい。船が沈没前に炎上していたという話の通り、箱の一部は黒く炭化をしている。しかしとても頑丈な木材で作られているのか、多少焼けたところで脆くなっているようには全くみえない。
試しに小突いてみるけど、くぐもった音が鳴るだけで箱をこじ開けるビジョンは浮かばない。これはあとで斧か何かでも持ってくるしかないな、と諦めようとしたその時、フィンは懐から一つの小さな器具を取り出した。
「釘抜か。用意がいいね」
「ったりめーだろ。そもそも当初の予定じゃ宝さがしだったんだ。むしろその身一つできてるツカサがおかしいぞ」
叩いても蹴っても壊れそうの無い箱でも、流石に蓋を打ち付けている釘を抜けば開くだろう。釘抜をトンカチで叩いて釘頭の下にかませ、そして思いっきり手で引く。かなり力を入れないと動きすらもしないけれど、箱を壊して開けるよりもよほど無駄な労力は使わないはずだ。箱の上面を固定している四本の釘を抜くだけで息が切れるほど疲れたが、これでようやく重厚なこの箱の中身が露わになる。
「……重いな。そっち側を持ち上げてくれる?」
「任せろ。んじゃ、いっせーのっ」
掛け声と共に蓋を持ち上げる。よくもまあ、そのまま海の底に沈まなかったと感心するほどの重さだ。近くの岩に持ち上げていた蓋を放り投げ、そして乱れた呼吸を治しつつ箱の中身に目をやって――
「な、なぁ……ツカサ、これって」
「――フィンッ、脚の方を持って!!」
目に入ったもの、それは人だった。確かに人間が入りそうな大きさとは言っていたものの本当に入っているだなんて予想外だ。容姿がどうとか、性別がどうとか、今はそれよりも先にこの人を箱の外に救出する。掴み上げた露出した肩口から、久方ぶりに感じる人肌の温かさ。無我夢中で箱の中から出したその人を、死体たちとは離れたところに運んで寝かせる。
「……生きてるのか?」
「ああ、息も脈も弱いけどあるよ。やっと、生きている人を見つけることが出来た。フィン、彼女は何物にも代えられない宝だよ」
手首を掴んだり口元に耳を寄せてから、初めてここに横たえた人物の全体像を掴む。肩や胸元、それに太ももまで、随分と肌が出た不思議な恰好の少女だ。身にまとう服や薄い桃色の髪の毛が海水を吸って冷たくなってしまっているが、それでも生きていることに変わりはない。箱の中に居たことで、冷たい海水に体温を奪われ切らずに済んだのだろう。
弱弱しい呼吸を繰り返すその少女に僕の上着を着せて背負う。華奢な見た目に違わず、やはりすごく軽い。冷たい水が背中を濡らしていくが、一刻も早く彼女を診療所に届けるためにはどうってことは無い。
「いったん街に戻ろう。まずはそれからだ」
「……了解!! オレはほかの漂流者たちについて何とかするから、ツカサはその姉ちゃんを頼む」
まずは診療所、その次に衛兵に連絡だ。この子を絶対に死なせやしない。その一心で、僕は早めの足取りでやぶ道を急いだ。