03.ざわめき
放課後になり、私はまっすぐ家に帰ろうと支度をしていた。
部活には興味がなく、放課後は図書室で本を読んでいることが多い。
しかし、その図書室も五時にはしまってしまう。
空調の効いている図書室にずっといたいと思っても、ままならないものだ。
外へ出ると、むっとした湿気と熱気を感じて、私は思わず顔をしかめた。
運動場からは部活動に勤しむ生徒たちの声が聞こえる。
この暑いのにご苦労さまです。
(バスケも室内だから暑そうだ)
ふと、汗びっしょりになってボールを追いかける功一の姿を思い浮かべる。
だけど、バスケをやっているところを見たことがないからか、うまく想像できない。
想像の中の功一は、まるで犬のようにボールを追いかけ回している。
犬のようだと思うと、功一に耳や尻尾が生えてきて、息を切らせて野原を駆け巡る姿に変わっていく。
(かわいい……)
ふふ、と笑みがこぼれて、慌てて誰かに見られていないか周囲を見回した。
よかった、誰もいない。
私は胸をなでおろして、体育館の方を見た。
(一度くらい、見に行ってやってもいいかな)
そう言えば、試合を見に来て欲しそうだったことを思い出す。
功一は昔から冗談で言っているのか真剣に言っているのかわからない時がある。
私はスマホを取り出して功一にメッセージを送った。
『日曜日、試合見に行ってもいいよ』
もう来なくていいと言われたらそれまでだけど、打診はしておこう。
そして帰ったら、バスケのルールを調べよう。
と言うのも、私はスポーツのルールがほとんどわからないからだ。
ボールをゴールに入れて点数を取ればいいのはわかるけど、試合人数や時間はスポーツによってばらつきがあって、それぞれ覚えられるほどの興味もない。
それでもルールくらいは知っておかないと、試合の見方もわからないはずだ。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、お姉ちゃんのクツが無造作に散らばっている。
それを、私は綺麗に並べて、そのとなりに自分のローファーを脱いだ。
「おー、おかえり」
制服を無造作に脱いで、だらしない格好でソファに寝転がるお姉ちゃんが、スマホから目を離して私にひらひらと手を振る。
四つ上のお姉ちゃんは、今年高校三年生で、受験やらなにやらで大変忙しいらしい。
「お姉ちゃん、帰ってたんだ」
「なによ、いけない?」
「勉強はいいの?」
「あんた、母さんみたいなこと言うわね」
お姉ちゃんはしかめ面をして言う。
色々と大変でだらけたい気持ちはわかるけど、正直自分の部屋でやってほしい。
「あ、そうだ。美玲もうすぐ誕生日でしょ。プレゼント何がいい?」
「……あ、そういえばそうだった。すっかり忘れてた」
「自分の誕生日忘れるやついる?」
「気にしてないからね」
そう言うと、お姉ちゃんは肩をすくめた。
「で、プレゼントは?」
「なんでもいいよ。って言うか、無理して渡さなくてもいいし」
「可愛くないやつ! そんなんじゃ功一くんにもフラれるよ」
「なんで功一が関係あるの?」
「え? だってあんたたち付き合ってんでしょ?」
一瞬、思考が停止した。
「……? おーい、美玲さーん?」
私が、功一と、付き合ってる?
「ダメだこりゃ。ショートしてる」
まるで分厚いガラスの板を通したかのように、すべての音が遠く聞こえる。
頭の中をぐるぐると功一の姿が回る。
どういうことなのだろう。
私と功一が付き合ってる?
付き合ってないよ。
付き合ってないよね?
「お姉ちゃん?」
「お、帰ってきた」
「何を勘違いしてるのか知らないけど、功一とは付き合ってないよ。だいたい、あいつモテるんだから、私なんかと付き合うわけないじゃん」
「おお、言うね。だったらそのモテる功一くんはどうして誰とも付き合わないのかな」
「それは……好きな人がいるからじゃないの?」
「ほう、それは?」
「……同じクラスの、円野万智さんとか」
「どんな人なの?」
「え? 明るくて、友達も多くて、人気もあって……」
「美玲と正反対ってこと?」
「失礼なこと言わないで」
そんなことはよくわかっている。
「美玲は人の明るさを魅力としてるんだ」
「……だったら、何なの」
「怒らないでよ。美玲は自分の暗さがコンプレックスなんでしょ? 他の人とわいわい楽しめないこととか、気にしてる?」
気にしないわけがない。
年相応のことを楽しめないことは、学校生活でもつらいことだ。
「お姉ちゃんから見れば、美玲は冷静で賢くて、とても魅力的に見えるよ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないって。お姉ちゃんでもそういうふうに見えるんだから、他にもそう感じる人がいてもおかしくないでしょ」
「それはお姉ちゃんが家族だからでしょう?」
「疑り深いなあ。少なくとも、功一くんは美玲のことを根暗だとか協調性のないやつだとかは思っていないはずよ。そうじゃなかったら、中学生にもなって、毎日家まで迎えにきたりしない」
「慣習から抜け出せないだけじゃない?」
「関わることが慣習になるのって、もう家族じゃん」
ああ言えばこう言う。
あれだけガサツなところが多いのに、口の達者なところは血のつながった姉だと認めるしかない。
「まあ、付き合えとは言わないよ。美玲の好みだってあるだろうし。でもさ、功一くんの気持ちも一回考えてみなよ」
そうは言っても超能力者じゃあるまいし、自分に好意を持っているかどうかなんてわからない。
それに、あれだけ冷たい対応をしているのだから、内心嫌っていたとしても、何も不思議じゃない。
「配点は五点です」
「誰が採点するの」
お姉ちゃんの冗談をあしらって、私は自室へと入った。
水玉のベッドへ倒れ込んで、枕に顔をうずめる。
功一と付き合うなんてこと、考えたこともなかった。
頬が熱い。
きっと、ひどい顔をしてる。
ありもしないことをあれこれ想像して、勝手に興奮して、こんなのは不埒だ。
「そうだ、返事あるかな」
気持ちを切り替えるようにして、スマホをカバンから取り出す。
『ほんと!? ありがとう!』
どうやら、思っていた以上に喜んでいるみたいだ。
自然と緩む頬をこらえながら、私は返事を書いた。
『かっこいいところを見せてね』
そう送ろうとして、ハッと我に返った。
何を浮かれているんだ。
これじゃまるで本当に付き合ってるみたいだ。
慌てて文字を消して、代わりの返事を書こうとするも、何も思いつかない。
「まあ、いいか……」
適当なスタンプを選んで、会話をそこで打ち切った。
功一もすぐにスタンプを送ってきた。
普段は部活が終わるまで返事はないんだけど、今は休憩時間なのかな。
私は制服から部屋着に着替えて、何かお菓子でも食べようかとリビングへ向かった。
お姉ちゃんは相変わらずソファを占領してスマホを忙しくめくっている。
何をそんなに見るものがあるのか、私にはわからない。
SNSとかいうやつだろうか。
「……あ、美玲。あのさ」
今度は何を言い出すのか、と私は身構えてお姉ちゃんを見る。
「あはは、違う違う。お使い頼まれてくれない?」
「自分で行きなよ」
「私これから勉強があるから……」
「それが仮に本当だとしてもだよ」
「厳しいなあ。あのね、商店街の近くにある靴屋さんに修理出してたやつがあって、取りに行ってくれないかなー?」
「面倒くさい」
「そこをなんとか! 御駄賃出すから!」
「別にお金に困ってないし」
「ええと、じゃあ、万華堂のシュークリーム!」
万華堂のシュークリームは、ずるい。
硬めのシューを切り開いて、カスタードクリームが詰め込んであるシュークリームだ。
すごくおいしいけど、並ばないと買えないことと、電車で駅を五つほど行った少し遠いところにあるのが難点だった。
「……ふたつね」
「了解!」
お姉ちゃんは人に甘えるのがうまくて、いつも乗せられてる気がする。
そういうところもずるいと思う。
私はまた部屋に戻って服を着替えて、商店街へ向かって出発した。
時間はまだ五時前で、これなら商店街に行って帰ってきても六時にはならない。
夏だから日の沈みは遅いけど、涼しい風が吹いて、ヒグラシが鳴いている。
カナカナカナ、と物悲しいヒグラシの鳴き声がする並木通りを歩いて行く。
商店街は夕飯の買い物をする人たちでにぎわっていた。
立ち並ぶ八百屋や魚屋を過ぎて、私は目的の靴屋についた。
お姉ちゃんのこげ茶色のブーツはまるで新品のようになっていた。
このブーツはお姉ちゃんがもう引っ越してしまった友達から誕生日プレゼントにもらったものだ。
スマホを持つ前の話だったから、連絡先の交換もできていないらしくて、お姉ちゃんは思い出のそのブーツを、とても大切に使っている。
靴屋の紙袋をさげて、私はなんとなく商店街をぶらぶらと歩いた。
あまり来る機会のない場所だけど、知っている店がなくなったり、新しい店ができていたりすると、少しテンションが上がる。
全国的には減少傾向にある商店街だけど、この町はまだ大型ショッピングモールの襲撃を受けていないからか、出店するならここというような雰囲気がある。
たしか、若者に人気のある古着屋や雑貨屋もこの辺りに固まっている。
(せっかく来たことだし、雑貨屋に行ってみようかな)
雑貨屋そのものはけっこう好きだ。
見ているだけで面白いし、店内の雰囲気も良い。
Refuという名の雑貨屋の前で、まだ開いているか確認して、中へ入った。
埃っぽい匂いがして、視界の中いっぱいに様々な小物が見える。
(とりあえず、一周してみよう)
商品を見ながら、私はうろうろと店内をさまよった。
すると、不意に聞き覚えのある声が聞こえた。
「ここの中から選ぶのか?」
「そうだよ。かわいいでしょ」
私はさっと商品棚に隠れて、その声の方を見た。
(功一!? なんでここに……)
それに、となりにいるのは円野万智だ。
「ちなみにおすすめは?」
「うーん、シンプルなやつがいいかな」
どうやらふたりでブレスレットを選んでいるようだ。
(やっぱり、付き合ってたんだ……)
胸の中がざわつく。
ふたりに見つからないように店を出て、少し歩くと、途端に凄まじい吐気が襲ってきて、立てなくなった。
人目も気にせず、私は道の端にうずくまって、しばらく休んだ。
おかしい、変だ。
ふたりが付き合っているかもしれないことはわかっていたのに、いざ目にすると、ぐるぐると視界が回る。
(消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ)
さっきの映像が頭に焼きついて離れない。
震える手でスマホを取り出して、お姉ちゃんに電話をかけた。
『どうしたの?』
「お姉ちゃん……」
『……今どこ?』
「わかんない……」
『じっとしてて』
それだけ言って、電話は切れた。
私はお姉ちゃんを信じて、その場から動かなかった。
いや、動けなかった、の方が正しい。
どれだけ経ったころだろうか、お姉ちゃんがやってきて、私の肩に触れた。
「ごめん、遅くなった」
「お姉ちゃんは悪くないよ……」
「立てる?」
お姉ちゃんの肩を借りて、私はふらふらと立ち上がる。
まるで貧血になった時のように、目の前が白黒として、真っ直ぐ立てない。
ほとんど何もわからないまま、いつの間にか家につき、中へ入ると足の力が抜けた。
「大丈夫? いったいどうしたの?」
「雑貨屋に行ったら、功一がいた……。円野万智と一緒に……」
「……話したの?」
私は首を振った。
話しかける勇気なんて、なかった。
「とりあえず、部屋に行こう。お母さんにはお姉ちゃんが上手に言っておくから」
「……うん」
私は自分の部屋に帰って、ベッドに倒れ込んだ。
お姉ちゃんはそっと部屋から出ていって、それから訪ねてくることもなかった。
(もう、嫌だ……)
気持ちがまとまらず、ずっとぐちゃぐちゃと蠢いている。
功一が女の子と一緒に買い物に来ていることが、こんなにショックだったなんて。
それも、少し意識し始めた途端の出来事だ。
こんなことなら、考えなければよかった。
身の丈に合わないことを考えるから、こんなに辛い気持ちになるんだ。
(やっぱり、私に恋愛なんて無理だったんだ)
ベッドで唸っているうちに、私は眠ってしまった。