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レミニセント・エル  作者: 神無木 巴月
1/1

第1話 孤児






「父なる神に祈りましょう…」


父は死んだ。

あなたたちが神を父と呼ぶなら、私の神は死んだのだ。


それはある老人の葬式だった。

雨に濡れた墓地はじめじめしていて、幽霊ですら近づかない陰気な場所である。

濡れた土の匂いが、今では死の匂いと共に空気中を漂っている。

牧師が決まり文句を言い終えると、父の墓穴に兄弟たちが適当な振る舞いで花を投げ込む。

兄弟といっても、彼らは本当の兄弟ではない。

そもそも父以外に、自分に家族と呼べる人間は居なかった。

彼らは自分と同じ“孤児”なのだ。

彼女にとっての父とは、孤児院の院長のことである。

彼女にも昔は親と言うものが居たのだろうが、自分を路上に捨て置いた人でなしとしか覚えていない。

今年16歳という年齢を迎えられたのは彼女の真の父…ミルディン・マーリンが彼女に生きる希望を与えたからだった。

何の恩返しも出来ないまま…彼女の父は死んでしまった。


「帰りましょう、エル」

孤児院の女教師が彼女を呼んだ。

エル・マーリン…それが彼女の名前だった。

リンゴのような紅い髪はいつもより乱れていて、長めの前髪も今日はピンで止めてはいない。

鮮やかな青緑色の目に浮かべる涙が頬に伝うその顔を、誰にも見られたくなかったからだ。

本来の端整で少し大人びた顔立ちも今は痩せこけ、目は赤い…。

エルは女教師が手を引こうとしたことに気付くと、自分の手を上着のポケットに突っ込んで隠した。

「ねえエル…風邪を引いてしまうわよ?」

「ほっといて…もう少しだけ居させて…」

女教師は心配そうな顔をエルに向けていたが、エルは父の墓石の前にうつむき、前髪で顔を隠した。

エルは無愛想な態度を取ったことを教師に謝りたかったが、何の言葉も出ないまま教師はその場を去ってしまった。

静寂と絶望が墓地を支配する中、エルの頭に一滴の水滴が落ちた。


雨だ。

まだ氷のように詰めたい雨は、まるで父の居なくなった寒い世界を彩る死神だ。

…エルは雨の降る空を見上げた。


こうすれば、自分の涙は雨に紛れて見えなくなるだろう。









院長が死んだというのに、次の日から普通に授業が始まった。

ミルディン・マーリンはある程度の資金力を持ち合わせており、孤児院と学校を同時に運営していた。

つまり、この学校の学長が亡くなったということだ。

それなのに簡単な葬式を済ませただけで、理事会は次の学長を決めるために躍起になっている。

エルは、ミルディンと理事会の中が悪いことを知っていた。

いつも彼は理事会は利益しか考えない連中だと愚痴をこぼしていたからだ。

ただエルが何よりも気に入らなかったのは、孤児院の兄弟たちも、学校の生徒たちも、誰一人悲しそうな顔をしていないことだった。


「だって、ミルディン爺さんってあんまり見たことないもんな」

後ろの机に集まっている、男子生徒たちが言った。

「仲良かったのって、エルだけだろ」

「え?」

エルは自分の名前が出たことに反応して、男の子を方へ振り向いた。

金髪の背が高い少年が、その青い目でエルを睨んでいた。

「甘やかされてたよなぁ、君って」

エルはその言い草は気に入らなかったが、彼の威圧的な目に何も言い返せなかった。

だがミルディンは…父は孤児たち皆を平等に愛してた。

「いつも勉強を教えてもらって、食事も一緒だったよな?」

エルは、自分を特別扱いだという彼に反論したかった。

だが言葉が出てこない。

彼のいう事は大体的を射ていたし、それによって彼らの視線が自分に向けられていることも承知していた。

自分は特別に…娘として愛されていた。

だからこそ、周りの皆は自分を睨んでいる。


「エル・マーリン」

突然教室に入ってきた男性教師が、エルの名前を呼んだ。

「学長室へ行きなさい。理事会の人が君を呼んでいるよ」











「エル、あなたはマーリンの養女ですね。その意味が分かりますか?」


丸眼鏡を掛けた、強面な女理事長…メアリー・バーズリーがそう訊いた。

眼鏡を通して見える彼女の緑色の眼は、蛇のようにエルを鋭く睨んでいる。

かつて父の部屋だったこの学長室に居座っているこの女が、エルは嫌いだった。

深く考えもせず、エルは知らないとかぶりを振る。

「意外ですね。もう気付いているかと思っていたのですが」

「何のことです?」

エルは自分の右腕をぎゅっと掴んだ。

それはいつもしている癖だが、こういう不安な時には特に出やすい癖だった。

女理事長は不気味な笑みを浮かべ、エルに座るよう促した。

エルはもう一度首を横に振った。


「結構です、話が済んだら用事があるんで…」

「座りなさい」

女理事長がぴしゃりとそう言うと、エルは彼女の強い口調に反射的に座ってしまった。

「いいですか“マーリン”さん。あなたはミルディン・マーリンの遺産を相続する権利を持っているのです」

エルは驚き、毛が逆立つのを感じた。

「私に…遺産ですか?」

「違います」

女理事長はまたもやぴしゃりと言った。

「あなたにはその権利があるというだけ。彼はあなたに残したわけでは無いでしょう。

彼は遺言書を残しておりましたが、その内容は“しかるべき権利者”がその遺産を相続する、としか書かれていませんでした」

エルは眉をゆがめた。

「それって、私の事じゃないんですか?」

「違います。あくまで、あなたはその一人です。彼が言うしかるべき権利者とは、私たち理事会…ひいては孤児院と学校そのものなのです」

「それって“あなた”ってことですよね」


エルはわざと挑発的に言った。

それは図星だったらしく、女理事長はその白い顔を真っ赤にして突然立ち上がった。

エルは動じまいと座ったままで居たが、彼女の強烈な眼差しに耐えられずうつむく。


「エル・マーリン…あなたは学ばなくてもよいものを彼から教わったようですね。何かわかりますか?」

「いいえ、ミス・バーズリー…」

「少し考えれば分かるでしょう。その傲慢さと無礼さですよ」

女理事長は今度はエルに立つよう身振りで促した。

エルは嫌々立ち上がると、適当なお辞儀をした。

「失礼しました」

「よろしいわ。とにかく、あなたのような子供が彼の残した巨額の遺産を相続するなんて、馬鹿馬鹿しいと思いませんこと?」

「ええ、そうですね」

エルはこれも適当に答えた。

確かに驚きはしたが、一番大切なものを失った後では金など欲しくも何とも無い。

エルは成り行きに任せることにしたのだ。

どうせあの女が父の金を横取りするに違いないが…。










「ではこれにサインをして」


女理事長はペンを差し出して、エルがミルディンの遺産を放棄する署名を求めた。

エルはペンを受け取り、サインする書類にペン先を近づけた。

しかし、すぐに手が震えだし、エルは躊躇した。

こうしてペンを握ってみれば、ふと自分の名前に疑問を覚えたのだ。

どうして、自分はこんな名前で、それをこんな汚い紙に書かなければいけないのか?

どうして、こんなにも大嫌いな女の人に、自分の名前を差し出さなければいけないのか?


「ごめんなさい、先生と相談させてください」

「先生ですって?」

目を丸くする理事長に、エルは言った。

「大事な物事を決める時、少なくとも信頼できる人に相談すべきだと父から教わりました。もう父は居ないので、代わりに先生を…」

「私は学長と共にこの孤児院を築き上げた人間ですよ?」

女理事長は少し焦っているように言った。

「なのに信頼できないと?」

エルはあざけるように言った。

「あなたは皆にそう言うけど、この孤児院はあなたが生まれるずっと昔に父が建てたものですよ?

もしかしてあなたは、前世に父とお会いしたことがあるんですか?

それとも本当はもっと“博学な年嵩”だとか」


「黙りなさい!後悔してももう遅いわよ小娘!」

女理事長は金切り声を上げると、殺意に満ちた顔で机越しにエルを突き飛ばした。

エルが肩の痛みと突然の出来事に愕然とする中、女理事長は追い討ちを掛けるようにエルを部屋から追い出した。

バタンと閉じた扉を前に、エルは洪水のように溢れあがる恐怖と怒りで震えた。

「ここはあなたの部屋じゃないでしょ!」

エルは扉に向かって、自分でも信じられないぐらいの大きな声で怒鳴った。

溢れあがる涙も堪えきれず、足元にぽたぽたと雨が降る。

「ここはミルディンの…父さんの部屋だった!出て行くのはあなたの方でしょ!」


それから1分は過ぎただろうか…。

エルがすすり泣くだけの長い沈黙が続いていたが、突如として勢いよく扉へ向かってくる女理事長の足音が聞こえた。

エルの足は恐怖で無意識に動きだし、気付けばその場から逃げようと走り出していた。

廊下を曲がりきったその時、学長室の扉が開く音と、女理事長の恐ろしいほど冷静な声が聞こえた。


「仕方ないわね…。手際よくやるのよ」











「おい、待てよエル!」

金髪で背の高い…自分を良く思っていない例の少年だ。

エルは息を切らしながら、階段に座り込んでいた。

彼は随分前から追いかけてきていたようだが、自分に何の用だろうか?

エルはそのまま彼を待った。


「足が速いんだなお前…」

エルは急いで涙を拭うと、顔を上げた。

「う、うん…」

「来いよ、話がある」

エルはいきなり彼に腕を掴まれ、強引に階段を上らされ始めた。

「えっ、ちょっと待って!」

屋上にたどり着くと、彼はやっとエルを放した。

エルは混乱していた。

「お前って本当にムカつくよな」

ますます混乱するエル。

「どうして…?」


「いつも爺さんのお気に入りだった。俺だって…あの爺さんは俺の父親でもあったんだ」

エルは自分が妬まれていることには気付いていた。

そして彼が恨んでいるのにも気付いていて、それがとても嫌だった。

それなのに、今聞いたミルディンに対する彼の想いを聞いた途端、エルは何故か安心した。

彼も自分と同じように父を愛していたからこそ、自分の事が妬ましかったのだと思えたからだった。

「ごめん…」

色々な言葉を探したが、エルにはそれしか言えなかった。

「爺さんはいつもお前だけ大事にして、大学にも行かせてもらえるんだろ?」

そうだ…。

エルは静かに頷いた。

「俺は親が居ないし、金もない。おっと、お前も同じだったっけ?」

少年のとぼけた言葉にエルは笑えなかったが、彼自身は満面の笑みだった。

「俺だって…大学に行きたかった!」

突然に怒鳴り声を上げた彼に、エルは飛び上がった。

「何で?何でお前なの?働けるようになったらここを出て行かなきゃいけないのに、何でお前は働かずに大学に行けるんだよ!

他の皆だってここが家なんだよ、父さんがいなくなって悲しいよ…。なのに何でお前だけに爺さんは“遺した”んだよ!」

「ごめん、ごめん!」

エルはほとんど話も理解できず、泣き崩れた。

恥ずかしがる余裕などないほどに声をあげ、エルは言葉にならない言葉で謝り続けた。


「うるさいんだよ!」

エルは少年に突き飛ばされ、落下防止の柵に腕をぶつけた。

そっと、柵の方へ振り向く。

柵はみぞおちの高さまでしかなく、下を覗けば人通りのない大通りが見渡せる。

ここは4階だ…。


思い詰めたエルの脳裏に、悪魔の声が囁いてくる。










エルが少年の方へ振り向いた時、彼は泣き崩れた顔で、エルの首を掴んだ。

エルの手は反射的に抵抗しようともがくが、エルはその手を緩めた。

泣き続けながら、少年はエルを柵に押し付ける。

エルの体は柵に乗り上げ、背中が苦痛に反るのを感じた。

あとの運命は、今やエルの胸ぐらを掴んでいる少年の手に掛かっている。

エルは彼がその手を離そうと、恨む気も呪う気も無かった。

静かに鳴くカラスの声が、見上げる空に響く。

しかし、その姿は見えない。

その声が響いた矢先…少年は死人の顔で、エルを放した。


気付けば、窓に逆さに映った自分の顔を、エルは眺めていた。

自分の涙がふわふわと空へ飛んでいくのに、少年の涙はエルの顔にぽたぽたと落ちてくる。

少年の顔を見ようと、エルは宙に舞う涙を払いのけ、空を見上げた。

しかし、彼の顔が見える前に、視界は突然真っ暗になってしまった。

地上に着いたのだろう。

光も、匂いも、痛みも、全て無感覚になってしまった。


「もう少し、生きていたかったなぁ…出来れば、父さんと」


何故だろう?

もう何も感じないのに、寂しさだけは、胸に残っている気がした。










「エル、いいかい?」

白い髭が、まだ幼いエルの頬にふさふさと被った。

紅茶を飲んだばかりの良い香りが、髭に染み付いている。

ミルディンはエルの頬に優しくキスすると、笑顔で言った。

「君がどんな人生を歩もうと、私は見守っているよ」

「どんな人生でも、ですか?」

エルは訊いた。

「例えば、悪魔の手先になっても?」

「…そうだよ?」

ミルディンは一瞬驚いた顔をしたが、迷いも見せずに微笑んだ。

「君がそうする時には、きっと理由がある。君が悪魔そのものになっても、私は君の事を見守っているよ」

エルは胸いっぱいに溢れる愛に、少し気恥ずかしくなった。

そして冗談交じりに、密かな夢を打ち明けることにした。


「じゃあ…私はミルディンのようになる」

ミルディンは声を上げて笑った。

「残念だが、それだけはだめだよ。私のようにはなってはいけない」

「それは違うよミルディン」

エルは言った。

「自分のようになってはいけないと言う人は大抵、偉大な事に何かを犠牲にしてきた人のことでしょ?」

ミルディンはもう一度、サンタのような笑顔を浮かべた。

「君はまだ若いのに、とても賢い子だね。でもね、君が言ったことのほとんどは、時代と共に変わってしまうものだよ、エル。」

「ミルディン、どういう意味?」

「さあね、私にも分からないよ。さて、私の天使…エル…もう寝なさい」









夢…。

今はもう、ミルディンの姿は見えない。

あの声も、あの紅茶の香りも…。

何も見えない…真っ暗だ。

しかしそこは、不思議と安心感のある、居心地の良い空間である。

まるで使い慣れた毛布の中に、顔を埋めたときのような…。


「血は血に、骨は骨に、膠で着けたように着け…」


姿は見えないが、真っ暗闇で誰かがそう囁いている。

次第に感覚と記憶が体に、水を勢い良く飲み込んだように戻ってくる。

エルは体の中に、自分が戻った気がした。

だが、相変わらず視界は真っ暗だ。

エルは思った。

恐らく自分は、まだ夢の世界にいるのだろう。


「血は血に…膠で着けた様に…」


男の人の声だった。

エルはその声が心地よく感じられたが、その言葉はどこか強引で、ある意味では必死に誰かを呼び戻しているようにも聞こえる。

しかしエルは、恐らくはその意思に反して、もう一度深い眠りに付くことにした。

エルはもう、泣き疲れてしまった。

これ以上何も残されてはいない世界に戻っても、寂しい思いをするだけだ。

もう一度、父の居る夢の世界へ戻りたい…。


「まだ早いよ…戻っておいで…」


エルは自分を呼び戻そうとしている男に、ずるいと思った。

それは…ミルディンのような言い方だ。

なぜ自分はあの世界に戻らなければいけないのか?

それを問おうにも、自分の声は失われている。


「骨は骨に…血は血に…」


エルは心の中でため息を付いた。

少なくとも、自分に戻ってきて欲しい人がそこにいる。

エルは折れた。

彼の顔を、一度見てみたいと思ったのだ。


「…戻れば…いいんでしょう…?」


少女の声に、男は安堵した。


「荒療治ですが上手くいったみたいですよ、ミルディン」









エルは気付いた。

ここはどこだろう?

何も見えない。

しかし、さっきの曖昧な世界とは違って、確かな感覚がある。

匂いも、痛みも…胸の中で暴れる、子馬のような鼓動も…。

だが光だけがまだ失われている。

真っ暗で、何も見えない。

これは…包帯…?


「ミルディン…」

エルは完全に意識を取り戻した。

あの時、彼は確かにその名前を口にしていた。

色々な疑問が残るが、今はここがどこかを確かめる必要がある。

言葉にはし辛いが、誰かが自分を呼び戻した気がする…。

あれはきっと、ただの夢の世界などではない。

エルは鉛のように重たい体を起こした。

その時、後頭部に焼け付くような強烈な痛みが走った。

奥歯を強く噛んで痛みをやり過ごすと、エルは頭から顔まで巻かれた包帯を剥がし取った。

久々に目に入る光に視界が眩む。

最初はにごった水の中に居るように視界は曇っていたが、段々と焦点が整っていく。


エルはここがどこか分からなかった。

誰かの寝室のようだが、かなり埃っぽく、蜘蛛の巣まで部屋中に張り巡らされている。

置物や装飾を見る限り、元々は金持ちか何かが住んでいた部屋だろうが、今は明らかに朽ち果てている。

エルはベッドから這い出て、部屋の様子を見ようとした。

ところが、エルはベッドから出たことであることに気付いた。

着替えた覚えはないというのに、エルは知らない寝巻きを着ていたのだ。

まさに部屋の元の所有者が着ていそうな、小奇麗なレースつきのワンピース状の服だ。

…というか、本当にこれは寝巻きなのだろうか?


エルは様々な推測を頭の中で巡らせた。

夢の世界での出来事は断片的にしか覚えておらず、辛うじて誰かが自分を呼び戻したと直感的に感じるだけだ。

誰かが助けてくれたようだが、その人物は未だに姿をあらわさない。

そこで不安をそそる事実がエルの脳裏に過ぎった。

普通なら、怪我人が目を覚ますのは病院のはずだ。

だとすると、ここはあの世?

いや、生きている実感も、体中に血が通っているのも感じる。

残された不安は…。


「誘拐…?」

エルは一瞬膠着した。

だが自分は縛られてもいないし、半開きの扉も明らかに鍵は掛けられていないだろう。

自分を病院以外の…恐らくは自宅に連れ込み、着替えさせ、さらにエルが逃げだすとは思っていない…。

エルは呟いた。

「危ない人につかまったのかな…?」





10





どこかの貴族が住むような、豪華な装飾。

しかし埃まみれで、蜘蛛の巣もある…。

ここが自分を連れ込んだ人物の家だというのが、そもそもの間違いかも知れない。

こんなところで誰が住めるというのか…。

光が差し込めたきたのに気付き、エルは初めてこの部屋に窓があることを知った。

エルはすぐに窓から外の様子を覗き込んだ。

今居る部屋は地上から離れていて、自分がさっきまでいた町が、遠く小さく見えている。

エルはここがどこか知っている。

ここは人里離れた、昔の貴族が住んでいた屋敷だ。


幽霊屋敷だと有名なこの屋敷は、孤児院の男の子たちの度胸試しの絶好のスポットだった。

エルは実際にここに来た事は無いが、彼らがここで本物の幽霊を見たことがあると話していた。

だがここが幽霊屋敷だとしても、今はまだ夕時だ。

少しでも明るいうちは、幽霊の出番はないだろう。

エルは急いで、この屋敷から逃げ出すことにした。

夜道を帰ることになった時のために、机に置いてあるろうそくと古いマッチを拝借し、準備は万端だ。

エルは半開きの扉を勢い良く開くと、そこが正しい道かも分からずに右へ向かって走り出す。

廊下の先に、下へ通じる階段が見えてくる…。

あそこを下れば、きっと外に出る道が…。


「あ、あなたは…!」


間に合わなかった。

階段を昇ってきた誰かが、全力で走るエルに何かを言った。

だがエルは急に立ち止まることが苦手で、廊下の床にじゅうたんが敷かれていることも不運だった。

滑り難いじゅうたんに足を取られ、エルは飛び込むように誰かと激突し、そのまま階段を団子になって転がり落ちてしまった。


「お怪我はありませんか…?」

メイド服の良く似合う、セミロングの茶色い髪の女性がエルの下敷きになっていた。

二十歳前後の整った顔に、優しげな緑色の眼を覗かせている…。

うっかり見とれていたエルは我に帰ると、急に恥ずかしくなって、メイドの上から飛びのいた。

今のエルは彼女を助け起こすという発想が出てこないほどに混乱していた。

「あの…大丈夫です…あなたは?」

エルはやっとの思いで声を出した。

「大丈夫ですよ、私は体だけは丈夫なんです」

メイドはそう言うと、すっくと立ち上がってお辞儀した。


エルは壁に背をついて、固まったままその様子を眺めていた。

メイドはにっこりと微笑むと、エルが背にする壁のすぐ左脇にある扉を手で指した。

「お茶の準備が出来ています。もうすぐ旦那様がお戻りになりますので、着替えてお待ちください」

「き、着替えて?」

エルは思った。

今時こんなに出来の良いメイドを召抱える例の旦那様こそ、自分を誘拐した変態なのだろうか。

「ええ。あなたが着ていた服は昨日から洗わせてもらっていましたので、すっかり奇麗ですよ」

「昨日から?」

エルは驚いた。

どうやら、自分が気を失っていたのは数時間という訳ではないらしい。

「もう二日も気を失っていたんですよ。旦那様が…おっと、詳しい話はお茶を入れてからにしましょうか」





11





しなやかな体の線を際立たせるグレーのタートルネックシャツ、そして学生服のような黒のプリーツスカート…。

自分の服を着られるということがこんなにも喜ばしいことだとは、今まで思ったこともなかった。

一つ気になるのは、孤児院で自分で洗っていた時よりも、服の汚れが断然に落ちているということ。

本職のメイドには敵わないとはいえ、自分や父の分まで家事をこなしていたエルは、少し悔しい思いをした。


「あの、ありがとうございます」

寝室と同じように誇りっぽいリビングで、変態に仕えるメイドに紅茶を入れてもらっている…。

だが不思議と、ポットやカップは奇麗だった。

エルは今すぐにでも逃げ出すべきだと頭の中で呟いた。

しかしメイドの明るい笑顔を見ると、どうも旦那様もただの変態というわけではないのかも知れないと思える。

「アールグレイです。レモンとミルク、どちらにしますか?」

「あ…レモンで…」

「あら、旦那様とは違って大人なんですね」

エルはカップを受け取りながら、疑問の眼差しを向けた。

「その…旦那様はミルク派なんですか?」

「いいえ」

メイドはクスクスと笑いながら言った。

「そもそも、レモンかミルクかを聞かれるのが気に入らないんです」


旦那様とやらは、少し気難しい人間らしい。

メイドが笑ったのも、恐らくレモンかミルクか、素直に答えてくれる人間に出会ったことが無いからだろう。

エルは少し心配になった。

このまま、優雅に紅茶を飲んでいて良いのだろうか?


「あ、失礼致しました。私はヘザーと申します」

メイドの突然の自己紹介に、エルは慌ててカップをテーブルに置いた。

「私はエル・マーリンと言います。エルと呼んでください」

「存じて居ますよ、エル。ところで、旦那様について少し説明しておかなければいけません」

「どういったことです?」

エルは彼女の…ヘザーの表情を見て確信した。

「その…旦那様は…」

変態…。

「魔術師なのです」


エルは口をぽかんと開けたまま固まった。

魔術師?

最近ではほとんどその名称を聞かなくなっていたし、ミルディン曰く、本当に魔術を扱える人間はもう居ない。

いや、そもそも魔術なんて存在するのだろうか?

エルは真剣に悩んでいる自分がさぞ馬鹿らしく見えただろうと思った。


「あ、錬金術師でもあります」

「錬金術!?」

エルは耐えられず声を上げた。

どうやら幽霊よりも得体の知れないものがこの屋敷に住んでいるらしい。

ヘザーは“驚いているエル”に驚いているようだった。

彼女は気を取り直すと、さっきまでの笑顔で言った。

「昨夜は驚きましたよ。旦那様は、病院は役立たずだから自分の魔術で治すって、血だらけのあなたをここまで連れてきたんです」

「血だらけ…」

エルはもう一度自分の着ている服を見下ろした。

血の染みもすっかり落としているらしい。

エルは恐る恐る、後頭部を触ってみた。

乱れた髪の奥に妙なこぶが出来ている…。

縫い合わせたような跡ではなく、つぶれたニキビが治りかけている時のようなふくらみで、それよりずっと大きい。


「それで、色々と試していらっしゃいました」

「試す?」

エルは後頭部を触る手を引っ込めた。

「ええ」

メイドは少し苦笑い気味に言った。

「それはもう、色々な呪文が屋敷中に響いていましたもの」


エルはどうしようもない、恐怖のような感情に襲われた。

ヘザーは日常の無駄話のような調子で話しているが、その話題はエルの体に得体の知れない治療を施したというものだ。

エルは紅茶を一口飲むと、あまりに心地良いソファから立ち上がった。

いよいよ覚悟が決まったのだ。

ヘザーはきょとんとした顔のままエルを見守っていた。

「ごめんなさい…。あなたのご主人様には、私が感謝していたとお伝えください」

エルはそう言うと、リビングを出ようと目の前にある玄関に向かった。

その時、不幸にも玄関の戸が勝手に開いた。





12






「おやおや、元気になられましたな」

白髪をきっちりと整えた老人が、エルの前に現れた。

有名な探偵を思わせる鷲鼻に、がっしりとした顎骨だ。

テールコート風の黒いスーツを着ているが、彼がヘザーの主人なのだろうか?

エルは混乱する頭を整理しようと勤めた。

「私は執事のロナルドと申します。ヘザーとはもうお会いになっておられるようですな」

「は、はい…エルといいます」

逃げ道を失ったエルは漠然と挨拶するしかなかった。

彼が主人ではないとすれば…。


「ああ、君がエル・マーリンか」

執事の後に、若い男がリビングに入ってきた。

最初にエルの目に入ったのは、執事のロナルドよりも小奇麗な飾りが多い黒のフロックコートだった。

上着のポケットからは懐中時計の金のチェーンが伸び、洒落た青のループタイをつけている。

そしてエルはゆっくりと、ためらいがちに彼の顔を窺った。

彼は…執事の白髪とは違った銀白の髪を束ねていて、瞳はサファイアのように鋭い青…。

そして、男性とは思えないほどの端整な顔立ちだった。

その表情はどこかはっきりしていないが、人間離れした魅惑的な雰囲気をかもし出している。

まさに紳士らしい風貌で、右手には、T字の持ち手に青い宝石がはめ込まれたステッキを持っている。

「あの…」

エルは訊いた。

「私の名前はご存知だったんですか?」

「名前だけはね。ちょっと拝見…」

そう言うと彼は突然、杖の持ち手をエルの首に掛けた。

混乱するエルはそのまま杖で引き寄せられ、彼にじっと顔を覗き込まれる。

驚きと異性に顔を覗き込まれるという慣れない状況に、自分の顔が赤くなるのがエルには分かった。


「君の顔は、それはもうひどいものでね」

「…え?」

それは私の顔が変だということ…?

彼は表情一つ変えず、言葉を続けた。

「顔もだけど、頭や足…背骨…それはもう悲惨だったよ。君の体を元通りにするのに、どんなに苦労したかヘザーに聞くといい」

「もうお伝えしましたよ、ご主人様」

思い違いに一安心するエルの背後でヘザーが補足すると、彼は満足げな顔を見せた。

「じゃあ、本来は馬の足に使う呪文を試したことは言ったかい?」

「馬の足!?」

エルは聞き間違いだと願ったが、彼は眉をぴくりと動かしてその通りだと告げた。

エルは慌てて杖を払うと、彼から一歩離れた。

「あなたは…本当に魔術師で…馬に使う呪文を私に使ったんですか?」

「そうだよ」

魔術師はにやりと笑った。

「おかげで元通りだろう?感謝したまえ」

エルはどうにか彼を罵倒してやろうと思ったが、この状況では何も言葉が出てこなかった。

「まあ掛けなさい」


魔術師は言った。

「私はレイバン・ブラックストーン。まずはお茶でもしよう」





13





「今日はレモンにしておきました」

「ありがとう、ヘザー」


メイドは主人に紅茶を入れると、リビングから出て行ってしまった。

少しとはいえ、ある程度話し慣れていた彼女が居なくなり、エルは心細くなった。

「さて、何から話していいのやら…」

レイバン・ブラックストーンは悩んだ顔をしていたが、エルには彼の浮かべる表情の一つ一つが、何故かぎこちなく見えた。

「あの…私から聞きたいことが…」

エルは勇気を出して、口を開いた。

「何故私を助けてくれたんですか?」

「路上に血まみれで倒れている女の子を見て、誰が放っておくと思うの?」

当然の答えに、エルは言葉を失った。

「付け加えるなら、私は君を探していたんだ」

「私を?」

彼は紅茶を一口飲むと、小さくため息をついた。

「私はミルディン・マーリンの知り合いでね。いや、知り合い以上の仲かな」

「父と…その、ミルディンと知り合いだったんですか?」


エルは驚いたと同時に、不思議に思った。

ミルディンとは物心ついた頃から暮らしているが、レイバン・ブラックストーンの名前は聞いた事がない。


「私はこう見えて、なかなかの年寄りでね。彼と最後に会ったのは、多分君がまだ小さい時なんだ」

「本当なんですか、その話…」

エルの疑いの目に、彼は怪しく微笑んだ。

「命を助けた相手に、何のために嘘をつくと言うんだい?」

「さあ…」

エルは無意識のうちに喧嘩腰になっていた。

ミルディンの名で自分を騙そうとしているのかも知れない。

そう考えただけで、今のエルにはどうしようもない怒りが込みあがってくる。


「ミルディンは死んだとご存知ですか?」

「…知っているとも」

彼のその言葉はとてつもなく重かった。

エルは初めて、彼の感情を読み取ることが出来た気がした。

「ミルディンは…私の友であり、そして私の数少ない同類でもあった」

「同類?」

エルは自分の心臓が一瞬止まった気がした。

ミルディンが…彼と同類?

「そう、君が想像している通りだよ」

彼はエルの頭の中を読み取ったかのように、的確に彼女の求める答えを出した。

「ミルディンは最高の魔術師だった。彼は遠い昔に、魔術は捨ててしまっていたようだけどね」


「信じられない…何か証拠はあるんですか?」

「証拠ならあるよ」




14




「これがその証拠だよ。多分、君なら分かるだろう」

レイバン・ブラックストーンはエルのすぐ後ろにある本棚の前に行くと、昔を懐かしむ老人のようなため息をついた。

そして、彼は真ん中の列の本を数冊引っ張り出すと、本が納まっていたスペースに腕を突っ込んだ。

ただの本棚に見えていたが、実際はかなり奥行きのある作りらしく、腕が壁の中を突き抜けているようにも見える。


「あったあった。こうやって隠しておかないと、“何処かの誰かさん”に盗まれかねないからね」

彼はそうやってぼそぼそと呟くと、奥から一冊の分厚い本を取り出した。

それは真っ黒で、いかにも魔術に関連していそうな見た目だった。

彼はテーブルに並べられた菓子を乱暴に隅へ追いやると、ドスンと本を置く。


「これのどこが、ミルディンに繋がる証拠なんですか?」

エルが不満げにそう言うと、レイバン・ブラックストーンは最初のページを開いて見せた。

かなり古いものらしく、紙は黄ばんでいて、所々に破れたところを補強した跡がある。

今にもバラバラになってしまいそうだった。

「さて、ここをよく見たまえ。少し読みづらいかも知れないけどね」

エルは彼が指差した、ページの一番右下に目を凝らした。

かすんでいて読みづらいが、誰かの名前らしきものがある。


「ミルディン・マーリン…著書…これって…」

「そう、彼が書いた魔術の手引書だよ。世界に一冊だけのね」

エルは眉をゆがめた。

「それを持っているからって、何の証拠にもなりませんよ?」

「君はせっかちだね」

彼は微笑むと、ミルディンの名前の下にある文章を指差した。

「ウォーデン…またの名をレイバン…そして愛しのモルガンに捧ぐ…」

エルは信じられなかった。

この字は明らかにミルディンの筆跡だし、本とインクの腐敗具合から、最近書き足されたものではないのは明白だ。

「君は賢いようだね」

彼はにやりと微笑むと、紅茶を一口飲んだ。

「この文が最近書き足されたものではないと気付いているだろう?」

「そうですけど…」

エルは考えた。

この本が本物だとしても、彼がその名前を名乗っているだけかも知れない。

だがどうして、そこまでして自分を騙そうとしているのか?

動機だけが、エルの頭には何一つ思い浮かばなかった。


「やれやれ、君は賢いね…」

彼は頭を抱えた。

「そうとも、私がレイバンを名乗っているだけかも知れない。私が本物かどうかを証明するのは面倒だから、君がミルディンについて質問したらどうだい?」

「なるほど…」

エルは話に乗ることにした。

ミルディンの事は、自分が一番よく知っている。


「じゃあ…ミルディンは紅茶に何を入れるのが好きですか?」





15





「時と場合によるね。眠る前は必ずミルクだけど」


彼の完璧な回答にエルはただただ驚いた。

何の迷いもなく、父の好みを言い当てた…。

だがエルは、まだ彼の事が信じられなかった。


「じゃ、じゃあ…」

エルは質問する。

「彼が眠る前にしている習慣は?」

「星を眺めること」

即答する彼の自信たっぷりな顔に、エルは嫉妬さえ抱いてしまった。

彼はミルディンの事を…本当によく知っているようだ。

「彼の口癖は?」

「最近のは知らないが、昔はよく“悩んだ時は眠るのが一番”と呟いてたよ」

「あ…今もです…」

エルは得体の知れない敗北感に襲われ、頭が上がらなくなった。


「これで信じてくれるかな?」

「はい…。あの、ごめんなさい…」

彼は笑った。

「謝らなくたっていいさ。知らない男の屋敷で目を覚ましたんだ、変態に拉致されたとでも思っただろう」

まさにその通りです…。

エルはそう心の中で呟いた。

「さて、話を本題に戻そうか」


彼は紅茶を一口飲み、本に視線を移した。

「私が君を探していた理由はね…。ミルディンに、彼に何かあった時は、私が君の面倒を見ると約束したからなんだ」

「私の面倒を?」

「その通り」

彼は切ない表情で本を見つめたまま、話を続ける。

エルはその表情を見ていると、何故か自分まで悲しい気持ちになった。

「ミルディンはああ見えても偉大な魔術師…。とりわけ、予言の力に優れていたんだ。

彼は自分の死を予言していて、君を養女に迎えた夜、私に一報を送ってきた。

内容はさっき言ったとおり、君の面倒を見てくれというものだった」


「予言?でも…私…」

エルは正直な気持ちを言うことにした。

いきなり面倒を見てくれると言われても、彼はたった今出会ったばかりの赤の他人。

確かにミルディンの話を通して、彼の事に興味を抱きつつはある。

だが到底、すんなりと受け入れられる問題ではなかったのだ。

「私はまだ、魔術師がどうとか、消化できてなくて…。

ミルディンの事だって、彼が死んだなんてまだ信じられないくらいなんです…」

「私もだよ」

彼は優しく、哀しげに微笑んだ。

エルはその笑顔が、どこかミルディンに似ている気がした。

「彼の予言は昔から的確でね…。“10年以上”も覚悟しておく時間はあったのに、私もまだ戸惑っている」





16





「10年以上も?結構若く見えるんですけど…」

エルは彼の外見から二十歳前後だと思っていたが、意外にもかなり年上の男性らしい。

「それは嬉しいね」

彼は少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

「でもミルディンも若く見えていたはずだけどね」

エルはミルディンの70後半の老けた顔を思い出した。

彼のほうが若く見えるとはどういう意味なんだろうか?


そのことについて詳しく話を掘り下げたいエルだったが、レイバン・ブラックストーンは話をもう一度本題にもどした。

「さて、君はどうしたい?」

「ブラックストーンさん…私は、まだ決められないです」

エルは躊躇しながら言った。

「考えさせてください…それに、孤児院の皆も心配してると…」

途中で言葉を止める。それは嘘だからだ。

戻っても、誰一人自分の事を待ってなど居ないと、エルは知っていた。

「レイバンと呼んでくれ。その名前は正式なものではなくてね。レイでもいいよ。

あと、そのかしこまった話し方はしなくていい」

突然の言葉に、エルは少し戸惑った。

「は、はい…レイバンさん…」

ぎこちなく答えるエルに、彼は微笑んだ。

「だけどね、エル」

次の瞬間、彼は表情を曇らせると、エルの目をじっと見つめたまま言葉を続けた。

「君に帰るところがあるとは思えないんだよ。君はうっかり屋上から落ちたわけじゃあるまい?」

あまりに率直な指摘に、エルは作り笑いを浮かべて誤魔化すしかなかった。

「私は昔からうっかりで…勝手に落っこちちゃったんです」

「ほう…」


私は昔から嘘つきだ…。

エルは自分の心配をされることがとても嫌いだった。

世話焼きのミルディンに育てられたからかも知れないが、こういう重大な問題ですら、簡単に嘘をついてしまう。

エルはこのことについて、後に後悔するのではないかと不安になったが、今さら本当の事は言い出せなかった。

同級生に突き落とされたなんて、言えるはずがない。


「一度帰って、ゆっくり考えさせてください…」

心の奥では、なぜかこの紳士の事を受け入れ始めている。

だが、どこか拭えない疑問に理性が、エルに時間が必要だと告げていた。

「いいよ、君がそうしたいならね。町まで送ろうか」

レイバンの申し出に、エルは身振りを加えて遠慮した。

「あ、大丈夫です。夜道には慣れてるんで」


彼…レイバンは明日の朝に答えを聞きに来ると言い、エルを玄関まで見送った。

ファーストネームで呼び合う仲になるのは、少し早すぎはしないか?

エルはそのことを少し気に掛けながら、レイバンに手を振った。





17





「どういうおつもりですか?」

ロナルドは時折、自分が執事だという事を忘れてしまう癖がある。

レイバンはそれを黙認していたが、今日は不愉快に感じた。

普段なら、客人をもてなした後に一人でスコッチを一杯やるところだが、今日はその気になれない。

「彼女が決めたことだ。無理強いはしないよ」

レイバンの気の抜けた言葉に、ロナルドは小さくため息をついた。

「ご主人様…時として男はレディーをリードしなくてはなりません」

レイバンは苦笑いした。

「君に紳士のマナーを教わることになるとはね」

ロナルドは小さく微笑むと、レイバンが取り出した例の本を隠し棚に戻した。


「もし、先に“彼女”がミス・マーリンを惑わしてしまえば、あなたの予定は全て台無しですよ」

「分かってるよ」

「いいえ、旦那様は分かってません」

話に割り込んできたヘザーを一睨みすると、レイバンは我が家の召使たちにいよいよしつけをしなくてはならないと実感した。

「どういう意味かな?」

レイバンが極力感情を押さえ込みながら訊くと、ヘザーはティーカップを下げながら横目に彼を睨んだ。

「彼女はとても良い子です。礼儀もそこそこありますし、何より愛らしい。旦那様には勿体無いぐらいですよ」

レイバンはますます苛立ちを感じた。

「だから何が言いたいんだ、ヘザー」

「“彼女”に取られないうちに、ミス・マーリンを我が家の一員にすべきです」


レイバンは言う事を聞かない召使たちに大きなため息を吐くと、深くソファーに沈みこんだ。

確かに、自分の判断は軽率だったかも知れないと痛感してきたのだ。

もし“彼女”が先にエルを手に入れてしまっては、今後の計画は全て白紙に戻る…。

何より、ミルディンの娘が“彼女”の手に落ちるのはとても不愉快だ。


「出発の用意をなさいますか?」

ロナルドがレイバンに、彼の愛用のステッキをちらつかせた。

どうやら用意は既に済んでいるらしい。

「やれやれ…。どっちが主人なのかはっきりさせないといけないな、ロナルド」

レイバンがそう言うと、ロナルドは会釈で詫びを入れた。

相変わらず態度の大きい執事だ…。


レイバンは杖を受け取ると、ソファーから重たい腰を上げた。

約束よりもずっと早く、彼女を迎えに行くことになりそうだ。





18





孤児院は夜19時に閉門し、出入りは困難になる。

エルは急ぎ足で我が家へ向かって歩を進めていた。

人通りが少なくなった夜道を進み、時より通りかかる自動車のライトに照らされながら、エルは思った。

まるで悪い夢を見ていたみたいだ。

今日会ったばかりで、しかも自称魔術師の青年に、面倒を見てくれると言われた。

それは一緒に暮らすという意味に他ならない。

いつもの自分なら迷うこともなく、即答で申し出を断っていたに違いない。

だが、今の自分には帰る場所などない。

それがエルの理性と直感を戦わせる原因となっていた。

今向かっている場所も、父亡き今になっては家と呼べるか難しいところだ。


エルは雨の降った後の湿気に満ちた空気を、思い切り吸い込んだ。

孤児院の前に着いたとき、その門は固く閉じられていたのだ。

エルはよく、一人で夜に孤児院を抜け出していた。

門が閉められた我が家に入る方法はひとつだ。

エルは数歩ほど門から離れると、助走をつけて門に飛びついた。

濡れた鉄製の門は滑りやすいが、力いっぱい体を持ち上げると、なんとか門を飛び越える。

地面に足が付いた時の振動で後頭部に痛みが走るが、目覚めた時よりもずっとマシになっている気がした。

エルは後頭部の髪をなでおろすと、自分の部屋に向かって歩き始めた。

孤児院は古い建築物で、ゆうに四十年は経っていると聞いたことがある。

デザインはミルディンが直接携わっていたらしく、中世を思わせる城のような外観だ。


エルは中庭を抜けると、目の前にそびえ立つ居住区の塔を見上げた。

2階の窓に、明かりがついている…。

あそこは自分の部屋だ。

エルはまだ片付けていない勉強道具や、散らかったベッドを誰かに見られたのだと悟った。

門の時と同じように助走をつけ、エルは一階の窓枠に飛び乗った。

この窓の部屋は明かりがついていないし、部屋の持ち主はおそらく寝ているのだろう。

エルは音を立てないように、さらに上へとよじ登った。

幸い、自分の部屋の窓は鍵が掛けられておらず、簡単に外から開けることが出来た。

カーテンを押しのけ、部屋に入り込む。

目に入ってきた光景に、エルは呆然とした。

クローゼットや本棚は全開で、中身が床中にぶちまけられている。

ベッドはズタズタに引き裂かれ、一部の床も何かで叩き割られていた。

空き巣がこんなことをするわけがない。


エルは全身から力が抜けるのを感じた。

足がもつれ、しりもちをつく。

込み上げてくる感情に、エルは両手で顔を押さえた。

同級生たちによるイジメが、いよいよ本格化したのだろうか。

今まさにエルは、自分の家を本当の意味で失ったのだ。


「君の面倒を見るように、ミルディンに頼まれていたんだ…」


レイバンの声が頭の中で反響している…。

ミルディンの知り合いで、今や唯一自分の事を気に掛けてくれている人の声だ。

昔から知っているはずの同級生や教師たちよりも、今日出会ったばかりの魔術師の方が自分を気に掛けてくれるなんて、不思議な話だ。

エルは涙を拭うと、ある決心を胸に立ち上がった。

もうここにミルディンは居ない。

彼の居ない家は、自分の家ではないのだ。





19





エルは窓に跨ると、身を乗り出した。

レイバンは明日迎えに来ると言っていたが、今すぐにでも彼の屋敷に向かうことにしたのだ。

慎重に下へ降りようと全身を外に出した時、部屋の中で物音がした。

エルは驚いて足を滑らせかけたが、何とか踏ん張った。

身を屈め、部屋の中をそっとのぞきこむ。


「…いい?もっと徹底的に探すのよ」

聞いた事のない、若い女の声だ。

その声は、実際は部屋の中ではなく、部屋の扉の外で響いていた。

扉の外は廊下だ。

「ですけど、そんな物はどこにもありませんでしたわよ」

女理事長の声だ…。

一体誰と話しているのだろう?

「部屋をご自分の目でお確かめになっては?」

女理事長の甲高い声が言った。

「どうぞお入りください」

扉の開く音がすると、二つの足音が部屋の中に入ってきた。

慌てて身を伏せる。

エルは自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。

「どうです?徹底的に探したと証明できますでしょ?」

今やはっきりと聞こえる女理事長の声に、エルは少し不安を覚えた。

あの声には精神に負担を与える効果があるらしい。


「そのようね…。じゃあ、あの女の子が持ち出しちゃったのかしらね」

知らない声の女がそう言うと、女理事長は鼻で笑った。

「エル・マーリンは自殺しましたのよ?どうやってアレを持ち出せるというの?」

私が…自殺したって?

エルは耳を疑った。

今の物言いでは、自分は死んだことになっている。

「へぇ…。彼女が自殺したって、本気で私が信じると思ってるの?バーズリーさん」

女理事長の戸惑った鼻息が聞こえてくる。

「生徒を彼女にけしかけたのは知ってるのよ」

声だけを聞いていても、エルには見知らぬ彼女が楽しんでいるのが分かった。

傲慢な女理事長がいじめられる様が愉快なのは同感だが、それよりもエルは彼女が明かした事実に衝撃を受けていた。

生徒をけしかけた…?

あの少年は…理事長にけしかけられて、自分を突き落としたのか。

考えてみれば動機はいくらでもある。

彼は大学へ行きたがっていたし、最後にミルディンの遺産を臭わせることも叫んでいた。

エルは心が重力に引っ張られて、今にも自分の体から抜け落ちてしまいそうな重たい気持ちになった。


「生徒を殺してまで…」

女が言った。

「ミルディンの遺産が欲しかったわけ?」

「それはあなたも同じでしょ。死んだ彼女の部屋まで探させましたわよね」

「黙りなさいバーズリー!」

突然女が叫んだので、エルは驚いて窓枠に捕まっている手をうっかり離しかけた。

「私があなたを殺さないのは、まだ利用できるから。もし用がなかったら、私はミルディンの娘を殺したあなたを永遠に呪ってやってるから!」


私のために…女理事長を呪う?

エルはこの女の正体が知りたくなった。

理由はどうあれ、今日は赤の他人が二人も自分の事を想ってくれていたようだ。





20





エルは恐る恐る部屋を覗き込んだ。

そこに見えたのは、エルの赤毛とは違う、もっと血のように濃い赤毛の女性だった。

後姿しか見えず、長い髪はポニーテールで一まとめにされているのが分かる。

何処にでもいるような若者の服装をしていて、それはVネックのトレーナーにスリムなジーンズといったものだった。

彼女のような若者が、威厳あるスーツ姿の女理事長を脅かしている様は異様な光景だ。


「早くアレを探し出しなさい。私があなたを呪い殺してしまう前にね、バーズリーさん!」

女理事長はたじろぎつつも、うなずいて見せた。

そしてその時、エルは気付いた。

女理事長は赤毛の女の正面に立っており、窓から覗き込んでいるエルを捉えることの出来る位置だった。

女理事長が頭を上げる瞬間、エルは身を隠すのが間に合わず、しっかりと彼女と目が合ってしまった。

窓の外に浮かぶエルの頭はさぞ不可思議な現象に見えただろうが、女理事長は目を見開くと、ためらいなく叫んだ。

「エル・マーリン!」

エルは逃げようと素早く下へと下った。

だが雨に濡れた窓枠は滑りやすく、まるであの時と同じように、エルは逆さまに落下した。

再び後頭部に信じられないほどの激痛が走り、視界が一瞬にしてぼやけ、気が遠退いていく…。


もうろうとする意識の中、小さな声がエルの耳元で囁かれた。

「大丈夫よ。あら…おかしいわね、あなた…この魔術は誰に…?」

エルは頭の中で鐘が鳴り響いている気がした。

まるで教会で自分の葬式が行われているようだ…。

体は骨抜きにされたように動かず、とても重たい。

視界がはっきりするに連れて、段々と目の前に女の顔が浮かび上がってきた。

人間の物とは思えぬ真っ赤な瞳に、色白な肌…。

エルは気付いた。彼女はさっきまで女理事長と会話していた人だ。

一瞬で下に降りてきたのか?それとも自分が気を失っていたのか…。

どうであれ、この女に馬乗りにされていて、エルは身動きが取れなかった。


「ウォーデンとはもう知り合いのようね、エル…」

エルは思い出した。

あの本に書かれていたミルディンの文字…ウォーデン…またの名をレイバン…。

「レイバンさんのこと…ですか?」

エルが弱々しい口調でそう訊くと、女は少し切なげな顔で微笑んだ。

「へぇ…今はレイバンって名前なのね、彼…」

「あの、あなたは一体誰なんですか?」

エルは頭が混乱していたが、それよりもこの状況を何とか把握しようと賢明に努力していた。

女は言った。

「私はモルガン。彼に聞いてないかしら?それとも昔の女のことは話したがらないのかな」

エルはますます混乱した。

彼の…元恋人?それとも大人の冗談だろうか…。

ただ唯一頭が働いたことは、モルガンと言う名前に聞き覚えがあるということだった。

ミルディンの本に記されていたもう一つの名前…。

愛しのモルガンに捧ぐ…。


「聞いてないようね?」

なかなか言葉を返さないで居ると、女は相変わらずエルの上に跨ったまま話を続けた。

「私はウォーデン…いえ、今はレイバンだったわね。そう、彼と同じくミルディンの知り合いだったの」

「じゃあ、あなたも魔術師なの?」

エルの質問にモルガンは頷いた。

「そういうこと。とりわけ優れた最高の魔女よ。そこであなたに提案があるの…」

モルガンはペットを愛でるような手つきで、エルの赤毛を撫でながら、その顔を近づけた。

エルはジタバタともがく。

「私と取引しない?」

モルガンはエルの唇の数センチところで言った。

「ミルディンの秘密を教えてあげるから、代わりに私の元へ…」





21





エルは顔を真っ赤にさせながら、モルガンから逃れようと必死でもがいた。

こんなやり方をする女に従うなんてありえない!

エルはレイバンの事が頭に浮かんだ。

きっと彼がミルディンの秘密を…いや、彼の事を一緒に想ってくれる。

エルは隙を見て顔を背けた。


「答えはノーってわけね」

ようやくエルから顔を離しながら、モルガンは呟いた。

「それに、お迎えが来たみたいよ」

エルはモルガンが自分の上から退いたことで、やっと息が出来るようになった気がした。

すぐさま体を起こして、エルはモルガンと距離をとった。


「久しぶりだな、モルガン」

レイバンの声だった。

エルは声がした方へ振り返った。

レイバンと召使の二人が、優雅にこちらへ向かってくる。

どうやってこの中庭に入り込んだのだろうかとエルは疑問に思ったが、彼が魔術師だということを思い出した。

「ウォーデン…、相変わらずのようね。最後にあったのは、王が死んだ時かしら?」

レイバンはエルの元へやってくると、彼女には目もくれずモルガンを睨んだ。

「さて、どの時代の王だったかな?」

「とぼけないで。どうせ、またミルディンのためとか言って、その女の子を連れ去るつもりなんでしょう?」

「その通りだよ」

レイバンの冷静な受け答えに、モルガンはますます気を荒げたようだった。

「あの夜と同じってこと?」

エルは話の内容についていけなかった。


「裏切ったのは君の方だろう?それも私だけではなく、マーリンをも裏切ったんだ」

ミルディンを…モルガンが裏切った…?

エルは一言も聞き逃すまいと耳を立てた。

「彼は私の力に弱腰だった!」

モルガンはさっきまでとは打って変わって、まるで思春期の子供のような顔で怒鳴った。

「彼をも凌いで…私は王になるべき力を持っていた!なのに彼はそれを使うなと言ったのよ?抑制しろと、まるで私が子供みたいに!」

「その通り、君は子供同然だった。拳銃を持った赤子さ」

レイバンはあざけるように、まるで見下したような口調で言った。

「マーリンを超えると自負していたくせに、君は私にすら勝てない」

モルガンはその言葉を聞くや否や、目の色が変わった。

「…なら試す?」

間を置く。

「今ここで…」


レイバンは小さくため息を付くと、杖を強く握った。

あまりに強く握ったためか、きしむ音が確かにエルには聞こえた。

「エル」

突然彼に話しかけられたエルは、戸惑いを隠せなかった。

「な、なんですか…?」

「君はどうしたい。私と来るか、ここに残って彼女と行くか」

「あなたと行きたいです」

エルは即答した。

「いいだろう…。下がっていたまえ」

レイバンの言葉で、不安げな面持ちのままロナルドとヘザーは大きく後ろへ下がった。

「君もだよ」

レイバンはエルに向かってそう言ったが、エルは動かなかった。

というよりは、動けなかったのだ。

足が何かに掴まれているかのように、まるで動かない。


「話は済んだかしら、ウォーデン。私はその子の意見なんて聞いてないのよ」

モルガンの手には杭のように荒々しく尖った、小さな杖が握られていた。





22





エルは全身に鳥肌が立ち巡るのを感じた。

自分の足に、蛇が巻き付いている。

蛇の妙に生暖かい感触が素足を這い登っていく…。

しかも地面から這い出してきているらしく、とてつもなく怪力だった。


「た、助けてレイバンさん…!」

エルは慌てて彼の名を呼んだ。

それと同時に、彼は思いがけない行動に出た。

杖の中から…細身の剣を引き抜いたのだ。

ただのファッションと思われていたそれは仕込み杖と呼ばれるもので、昔から貴族が用いていた護身用の武器である。

ミルディンが同じような物を持っていたので、エルはあの武器を見たことがあった。

レイバンは剣を巧みに振り回して、エルの足に絡みついた蛇を幾つにも両断した。

やっと身動きのとれるようになったエルは、慌ててレイバンの背中に隠れた。


「さて、こっちの番だね」

レイバンはそう宣言すると、剣と鞘に分離した杖を元に戻した。

そして一言「燃えろ」と告げ、杖でコツンと地面を叩いた。

次の瞬間、モルガンの体は彼女の絶叫と共に激しく燃え上がった。

まさに自然発火という言葉が相応しく、何もないところから突然火が起きたのだ。

エルは両目を固く閉じ、鼻を右手で塞いだ。

肉の焼ける匂いが…そして煙が周囲を覆っていく…。


「ウォーデン…。あなたって昔から容赦ないわね…」

エルはモルガンの声に驚き、両目を開いた。

髪がまだちりちりと僅かに燃えていて、顔中すすだらけだが、モルガンは無事だった。

エルは今しがた見た信じられない出来事に、ただ唾を飲み込むしか出来なかった。


「切り裂け」

モルガンがそう呟いたのを聞いて、エルはとっさにレイバンの身の危険を感じた。

エルがレイバンを見たとき、彼の左肩は真っ赤に染まっていた。

自分が彼と行きたいと決めたばかりに、彼は怪我を負ってしまった…。

エルの胸の中にある重たい何かが、激しく喉元まで迫る…。


「腕を上げたな、モルガン。だけど、まだまだマーリンには及ばないよ」

「自分が私に及ばないからって、彼の名をいちいち口にしないで!」

モルガンは叫んだ。

「切り裂け!燃えろ!千切れろ!」

レイバンは深くため息をついた。

エルは彼のその様子にひどく動揺した。

さっきと同じように、モルガンが発した言葉と同じ現象が彼に起きるなら…彼は…。


「消えろ」


何も起きなかった。

ただ一言、彼がそう告げただけで…。

モルガンは驚きの表情で固まり、言葉を失っていた。

「私はもう、前とは違うんだよ」

レイバンはそう言って、静かに笑った。

途端にモルガンが息を吹き返したかのように声を上げた。

「ウォーデン…!あなた、なんて事を…」

モルガンの声はさっきまでとは違い、まるで大切な人を心配しているような、今の状況ではとても考えがたい口調だった。

「“目”を差し出したの?」

「ああ」

モルガンは再び言葉を失った。

エルは二人の会話と状況に、再びパニックに陥っていた。


レイバンの目は、月明かりに照らされて宝石のように輝いている。

だが左目だけは、まさしく人の自然な眼球ではなかった。

エルは気付いた。

まるで本物そっくりの…義眼だ…。




23




「私の黒魔術と、あなたの古の魔術…」

モルガンは感情を押し殺したような、強張った口調で言った。

「どちらが上でも、きっと良くないことが起きると分かってるでしょ?」

「そうだね」

レイバンは小さく言った。

「君を殺したくはない」

「私もよ」


二人はにらみ合いを続ける…。

エルはどうしていいかわからなかった。

これから、どちらかが死んでしまうのか?

不安と恐怖が胸に何度も突き刺さってくる。


「どうだろう、ここは一旦休戦するというのは」

レイバンの突然の申し出に、モルガンは少し間を置いてから頷いた。

エルは一気に緊張が解けた気がして、全身の力が抜けた。

「だが、エルは私がもらっていく」

レイバンは言った。

「君はアレを探すといい。彼女は持っていない」

「そうするわ…。ミルディンが彼女に残さなかったのは意外だけど」

アレ…?

エルはそれが指す意味は分からなかった。

ともあれ、この二人が何かを巡って対立していることだけは理解できる。

モルガンは暗い面持ちで、孤児院の中へ消えていった…。


「さて、私たちも帰ろうか」

レイバンは何事も無かったかのような軽い口調でそう言うと、エルの肩を優しく抱いた。

再び緊張が全身を駆け巡る。

「は、はい…」

しかしその時、エルは肩に生暖かい液体が触れるのを感じた。

とっさに離れる。

エルは出てこない言葉の代わりに、身振りであたふたと彼の肩を指した。

「大丈夫だよ、すぐに元通りになるから」

レイバンはそうやって微笑んだが、エルはその表情を見ると罪悪感に押しつぶされそうになった。

彼に理由を告げることも無く、涙が止まらなくなる。


「君はミルディンに似て優しいね」

「ごめんなさい…」

崩れた顔を見られまいと、エルは両手で顔を覆った。

すると暖かい何かが自分を包み込み、優しく髪を愛で始める…。


エルはしばらくの間、レイバンの腕の中で泣いていた。




24




毛布に包まりながら、エルは暖かい紅茶を一気に飲み干した。

少しはマシになったが、まだ体の震えが止まらない。


「落ち着いたかい?」

手をかざしただけ暖炉に火を点けたレイバンは、リビングの戸を閉めながらそう訊いた。

エルは落ち着いてなどいなかったが、首を縦に振った。

「よかった。ところで、訊きたいことが山ほどあるだろう?」

その通りだ。知りたいことが山ほどある。

どの順番で尋ねるべきか迷うほどに…。


「あの女の人は誰ですか?」

エルは直感的にその問いを優先させた。

「モルガンって名乗っていましたけど…」

「そう、彼女の名はモルガン」

レイバンはスライスしたレモンを紅茶の中に入れると、それをスプーンで弄り始める。

まるで好き嫌いをする子供のような顔だ。

だが相変わらず、表情自体は薄い…。

「彼女は昔からの知り合いでね」

言葉を続ける。

「ミルディンと同じくらい、古い仲なんだ」

「彼女は…ミルディンの弟子だったんですか?」

「その通り」


エルは複雑な気持ちになった。

父には自分以外にも子供たちがいた様だ…。

レイバンはともかく、モルガンというあの女性は自分と似た容姿を…赤毛をしていた。

偶然だろうか?

嫌な想像が次々とエルの脳裏に浮かぶ…。


「あることがきっかけで、彼女はミルディンと決別した」

「あること?」

レイバンは紅茶を一口飲むと、頬杖をつく。

「それはまた今度話そう。簡単に説明すると、いわゆる反抗期ってやつさ」

エルはなんとなく理解できた気がしたが、彼の言う“あること”が知りたかった。

だが彼がまた今度と言うのなら、エルはそれに従うつもりでいた。

なぜなら、それを知ったところで気が晴れるかといえば、また別の話だからだ。

「あともう一つ、彼女について訊きたいことが…」

エルはもうひとつだけ彼女について質問することにした。

少し時間を掛けて息を吸い込み、ゆっくりと口を開く。

「彼女は…あなたの元恋人とかですか?」

レイバンは盛大に紅茶を吹いた。

エルは彼の動揺ぶりに驚き、目を丸くした。


「何を言うかと思えば…」

口をハンカチで拭いながら、レイバンは苦笑いした。

「確かに親しい仲だったけど、そういう間柄じゃないんだ。何というか…もっと複雑でね」

「へぇ…」

エルはにやにやと笑った。

「その割には動揺してるように見えますけど…」

「まあいいさ」

レイバンはにっこりと微笑んだ。

その顔は今まで見てきた、薄い表情ではなく、暖かい人柄がにじみ出ているかのような笑顔だった。

「やっと笑ってくれたね?」

エルは口元まで運んでいたカップを止める。

「どういう意味ですか?」


「別に。初めて会った時から、少し暗い顔をしていたからさ」

彼に微笑んだのはこれが初めてと聞かされ、エルは少し気恥ずかしくなった。

たった今、二人は本当の意味で心を許しあうことが出来たようだ。

エルは思った。

これからは、もう少し笑っていける気がすると。




25





この部屋はかび臭く、大量の埃が空気中に漂っている。

エルは目を覚ますと、埃まみれの毛布を払いのけて大きな伸びをした。

昨日もここで目を覚ましたが、気分は今の方がずっと良い。

窓を開けて陽の光を浴び、外の新鮮な空気を吸い込む。

雨上がりの朝は空気が美味しい…。

遠くに見える町を眺め終わると、エルはリビングに向かった。

途中の廊下で掃除をしていたヘザーに朝の挨拶をする。


「おはよう、ヘザー」

「おはようございます、“お嬢様”」

エルはその呼び方がわざとらしく聞こえ、好きになれなかった。

だがヘザーは、エルの名前に慣れない内はそう呼ぶと決めているそうだ。

仕事の邪魔になる前に、エルは階段を降りて先へ進む。

リビングに通じる1階の廊下に着くと、執事のロナルドが大量の封筒を抱えて執務室を目指していた。

執務室はエルが降りてきた階段の上にある。


「おはよう、ロナルド」

「おはようございます、“奥様”」

この呼び方はさすがに変えてもらいたいとエルは思った。

「出来ればもっと別の呼び方をお願いできますか?…ところでその封筒は?」

「ご主人様は最近、仕事をサボりがちでしてね。依頼人からの催促の手紙で一杯なのでございます」

エルは思い出した。

彼は魔術師だというが、具体的にどういった職業なのか聞いていない。

職業と位置づけるのもおかしいかも知れないが、何かしらの仕事で生活費を稼いでいるはずだ。

「さて、私はこの大量の手紙の返事を書かなければいけませんので」

ロナルドは口角を上げて引きつったように微笑むと、エルに道をあけた。


エルは会釈してリビングに入る。

途端に、紅茶の良い香りがエルの嗅覚を優しく刺激した。

続いてトーストの焼けた匂いと、卵の焼けた香ばしい香りも漂ってくる。

「おはよう、エル。今朝はよく眠れたかい?」

リビングのソファーにもたれ掛かり、紅茶を飲むレイバン。

「はい。肩の具合は大丈夫ですか?」

エルはレイバンの前に腰掛けると、いつもの癖で自分の右腕を掴んだ。

彼は肩を動かしてみせる。

「元通りさ。だけど上着はそうもいかなくてね…」

エルは意外に思った。体は元通りに出来るのに?

「それも魔術で直せないんですか?」

「残念だけど私は仕立て屋ではなくてね。上手くはいかないもんさ」

魔術師なら何でも出来るのは当然、てっきりそう思っていた。

レイバンの残念そうな表情を見る限り、魔術師も神様とはいかないようだ。


「とにかく、君を我が家に迎えられてよかったよ。さあ、遠慮なく食べなさい」

「ありがとうございます…ブラックストーンさん」

エルは昨夜から空腹を我慢していたこともあって、遠慮せずにトーストを一つ取ると噛り付いた。

シンプルなトーストだが、バターが効いていてとても美味しい。

「君の空腹が満たされたことで、残った問題は一つになった」

レイバンがそう言うのを聞いて、エルはトーストをくわえたまま固まった。


「レイ、あるいはレイバンと呼んでくれないかい?」




END



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