水底のあしあと
終業チャイムが鳴った。
慌しく生徒たちが立ち上がり、机や椅子を引きずる音が教室内に響く。
中学3年生の日暮叶香にとって、最も苦痛な時間がようやく終わったのだ。
頭の中は放課後の遊びのことでいっぱいだ。
特に今は釣りに夢中で、ほぼ毎日のように近所の川に行っては、長閑に岩魚釣りを楽しんでいる。
(早く家に帰って、釣りざおを磨いて、餌食を用意して……っ)
使い古した学生かばんに無理やり教科書を押し込み、帰宅してからの予定を頭の中で熱心に組み立てながら乱暴に椅子を蹴った。
「耀介、早く行こう!」
教壇前に立つ幼なじみ友畑耀介の名を呼ぶ。
すると、彼は面倒くさそうに振り向いて大仰なため息をついた。
手にした黒板消しを振り子のように揺らし、とんと背後の黒板を叩いて顔をしかめた。
「悪い。俺、今日当番なんだよ。先に行っててくれる?」
当番というのは清掃班のことだ。
教室と廊下、昇降口と科学室、図書室とランチルームを幾つかのグループに分けて担当する。
当番は1週間ごとにローテーションで回ってきて、今週は耀介の班となっていた。
「分かった。じゃあ川で待っているから早く来てね」
「おぅ」
教室から飛び出していく叶香に向かって、耀介が手を振った。
学生服の袖口がチョークの粉で汚れていることに目を細めながら、叶香は片手を上げて廊下へと走り出していた。
叶香は急いでいた。
早く川に行きたくて仕方がなかった。
風を切る竿の音や、細い糸の張り具合、獲物がかかった時に手首にかかる重さ。
足を浸した時の冷たい感触を思い出すだけで胸が躍った。
最初に釣りの素晴らしさを教えてくれたのは祖父だった。
釣りなんて地味で年寄り臭い趣味でしかないと考えていたのだが、すぐにそれは大間違いだと分かった。獲物を待つ間の一時や、じっくりと一人になれる時間、そして孤独を楽しむという行為。楽しいのは釣り上げた瞬間だけではないということを指南してくれた祖父には感謝して余りある。
もっとも、近ごろは持病の腰痛が痛み、自力で歩くこともままならないが、大はしゃぎで釣果を報告する叶香がいる時だけは、子供のように顔を皺くちゃにして共に喜んでくれた。
だが、優しい祖父とは裏腹に、家族の反応はいつも冷ややかだ。
じきに高校生になるというのに一向にしとやかさが伴わない叶香のことを心配してか、母親は特に口うるさい。
幼稚さが残る容姿と、ざんばらにカットした短い髪。
華奢な体躯がいっそう彼女を女らしさから遠ざけていると考えて嘆いている。
「男の子と釣りばっかりしてないで、たまには女の子と遊びなさい!」
母親が小言を繰り返すたび、叶香はいつも適当な返事を返して逃げ回っているのだ。
決して友達がいないわけではない。
学校に行けば親しい友人がいて、それなりに楽しい時間を過ごしている。
しかしさすがに15ともなれば女の子たちの興味は自然とおしゃれや異性へと移っていき、叶香と釣りに興じる輩は皆無になる。
そんな中で唯一、彼女の趣味に賛同してくれるのが耀介だった。
もともと幼なじみで叶香の祖父とも親しかったせいもあるだろう。
叶香と同様、釣りの楽しさを理解している彼は、高校受験の忙しい時間を割いて相手をしてくれる数少ない友人でもあった。
学校の正門を出るなり、叶香はガードレールを飛び越えた。
学生かばんを小脇に抱え、左右を確認して横断歩道を渡った。
(母や姉に見つからないように早く倉庫に行かなければ)
そう考えて足早になった。
家の離れにある小さな倉庫には、祖父愛用の釣竿が保管されている。
病状が悪化している祖父は、近ごろめっきり塞ぎこんでいて外に出ない。
そのため大切な竿はずっと埃をかぶったまま、手にする者のいない状況を嘆いているようにも見える。
叶香はその竿を拝借して出かけようと考えていた。
しかし持ち出すところを家族に見つかったら、うるさく叱責されるのは必至。どうやって持ち出そうかと思案し、頭の中はその作戦を考えるのでいっぱいになっていた。
左折してきた自動車がブレーキ音を唸らせたのは、その時だ。
ぎょっとした叶香は、突進してきた車の音に驚いて棒立ちになった。
悲鳴さえ出せず、口を半開きにしたまま動けないでいると、直前でブレーキをかけた車は、彼女のすぐ手前で停車した。
「こら! 危ないじゃないか、ちゃんと横断歩道を渡らないか!」
運転席から顔を覗かせた中年の髭面の男が怒声を響かせ、叶香は
「ご、ごめんなさい」
と掠れた声を搾り出して反対側の歩道へと渡った。
ふらつきながらガードレールを超えたと同時に車が通り過ぎていく。
額に噴出した冷や汗を拭い、彼女は擦り切れた学生かばんを握り締めて帰宅の路を辿った。
自宅に戻るなり、まっすぐ離れに向かった。
足音を忍ばせて裏手の倉庫に近づき、扉を開いて一本の釣り竿を掴んだ。かつて祖父が愛用していた釣り竿は、握るとしっくりと手に馴染む。
敬愛する祖父はともかく、うるさい母親に見つかれば大目玉を食らうと承知の上で、叶香は周囲に誰もいないことを確認して素早く外に出た。
縁側を横切り、庭の前まで来てはたと足を止めた。
上体を傾けてこっそり奥を覗くと、和室の奥に蔦子の横顔が見えて、身を竦めた。
いつも部活で忙しい姉の蔦子が珍しく早く帰宅している。
今日母親は学校の保護者会で留守なのだと、その時になってようやく気がついた。
姉は忙しい母親を手伝って洗濯物をたたんでいるらしい。
乱雑に散らかった靴下を合わせるのに苦労しながら、真剣な眼差しで洗濯物と格闘している彼女にふふと微笑し、叶香は見つからないように足音をしのばせた。
ほとんど四つん這いの状態になりながら、息をひそめて一歩一歩慎重に歩を進めていく。
そして、もうじき玄関に辿りつくと思えた刹那――。
肩に掛けた釣竿の先が縁台の端に当たり、かつんと軽快な音が響いた。
しまったと思う間もなく、姉が顔を上げてこちらに視線を投げかける。
「誰? ……叶香なの?」
畳の縁が軋む。
立ち上がって縁側を覗いた蔦子が、左右を確認して叶香の姿を探している。しかし庭に誰もいないことを確認して、彼女はほうっと息をついた。
安堵したのは叶香も同様だった。
姉の気配に神経を集中させ、手のひらで口を押さえた。
今、口を開けば呼吸音さえ聞かれてしまいそうで心臓が高鳴る。小首を傾げた蔦子がゆっくりと和室に戻っていくのを覗き見ながら、叶香は回れ右をしてもと来た道を引き返していった。
――あんなところに姉がいたのでは、まともに玄関から出るのは不可能だ。残る道は一つ、と考えて、離れに続く垣根にしゃがみ込んだ。
そして、地面に頬がつくほど這いつくばって外の様子を伺った。
(よし、誰もいない)
釣竿と荷物を先に向こう側の道路に放り、続いて垣根の下に自分の体を滑り込ませた。
小さな顔がひょこりと覗く。
道路に面した道端に飛び出した彼女は、そこでやっと一息つくことができた。
受験生である自分を気遣う家族の気持ちは分からないでもない。
が、だからこそ多少の気晴らしは必要だ。
日暮れになれば机に向かう時間はたっぷりある、と自分に言い聞かせ、瞳を輝かせて川へと走った。
なだらかに広がる山間に、細い川が流れている。
彼女の家のすぐ裏手に、その通い慣れた釣り場はあった。
水が澄んでいるため遠浅だと錯覚しやすいが、靴を脱いで中央辺りまで歩くと、水面は徐々に膝まで上がってくる。
川原に立ち、素早く餌と針の準備を整えた叶香が、勢いよく釣り糸を放った。ぽちゃんと小気味良い音が響き、生まれたばかりの波紋が水面に広がって空気を震わせる。
(耀介、まだ来ないなぁ……)
掃除の片付けに手間取っているのだろうか。
終了後は担任のチェックが入るため、ゴミ捨てが終わったからといってすぐ帰れるものではない。先生の許可なくして勝手に下校することもままならず、彼がここに来るのはもうしばらく先になりそうだと思えて唇を尖らせた。
ゆるりと水面を臨む。
しかし浮きは一向に動く気配がない。
緩やかに移動する川面を見つめてぼうっとしていると、ふいに彼女の背後で足音がした。
「!」
雑草を踏み分け、川原の砂利を鳴らして誰かが近づいてくる。
てっきり耀介が来たのかと思い、満面の笑みで振り返ると、その表情をからかうように低い声が届いた。
「女の子が1人で釣りなんて危ないなぁ。こんなところにいると、変なおじさんにさらわれるちゃうよ」
叶香は呆気に取られて目を開いた。
大学生ぐらいだろうか。
彼女より少し年上に見える男性は、おじさんというよりお兄さんに見える。
からかい口調とは裏腹に真摯な表情を浮かべた彼は、陽光に反射する水面のまぶしさに目を細めて叶香へと視線を落とした。
人好きのする屈託のない笑顔が注がれる。
「それに、ここでは魚は釣れないよ。川が汚すぎる」
「まぁ、お兄さんは何も知らないのね。ここの川水はとても澄んでいて綺麗なのよ。ヤマメやイワナ、たまにアユだって釣れるんだから」
「ほぅ、それはすごいね」
いかにも本気にしていないような素振りで男が答え、彼女はむっとして眉を寄せた。
「それに1人じゃありません。私、ここで友達と待ち合わせをしているんです」
「待ち合わせ? 相手は男の子かい。その年齢でデートとはませているね」
「余計なお世話だわ!」
馴れ馴れしい態度で接近してくる男を避けるように素早く立ち上がった。
釣竿を足元に固定し、ばしゃばしゃと音を立てて川に入ると<冷たい水が瞬く間に足元を取り巻いた。
小石だらけの川底の感触が、歩いている途中から柔らかい砂に変わった。漂う砂塵の中に、叶香の小さな足跡が点々と浮かび上がる。
なおも奥へと進んで川の中央で振り返ると、その足跡は川底に幾つもの穴を生み出しては、すぐに水流にさらわれて見えなくなった。
――男は、まだこちらを見ていた。
こんな場所には似合わないきちんとしたスーツ姿で立った彼は、両手をポケットに突っ込んで興味深そうに叶香を見つめている。
(おかしな人ね)
どう見てもこの町の人間ではない。
不審者という雰囲気は醸しておらず、危険はないだろうと判断してとりあえず安心しているものの、都会から来たよそ者という空気は否めない。
いったい何者だろうと思いながら、水中に手を入れて逃げる小魚を追った。
(もうじき耀介が来る。そうしたら、この人もどこかに行ってくれるはずだわ)
釣竿を片手に息せき切って駆けてくる幼なじみの姿を想像しつつ、男の興味津々な視線に気まずい思いを抱えて、手のひらで水面を弾いた。
「お転婆さんだな」
熱心に魚を追う叶香に呆れたのか、男が苦笑した。
「服を濡らしたらお母さんに怒られるぞ」
知ったかぶりで言い放たれ、弾かれたように顔を上げた。
振り返ると、男は楽しげにハミングしながら川原に座っていた。
叶香の釣竿を握り、たゆたう浮きの動きを見つめる双眸は、とてもふざけているようには見えない。
彼女の代りに釣りを堪能する気なのだと察し、意外な気がして川から声を張り上げた。
「あなた、私を知っているの? もしかしてお姉ちゃんの友だち?」
近所の女子高に通う蔦子に、最近恋人ができたと聞いたばかりだ。
もしかしたらこの人がそうなのかと思って「お姉ちゃんに会いに来たの?」
と尋ねた。
岸辺で頬杖をついた男が、そうだと言わんばかりに小さく微笑した。
「僕はN市に住んでいるんだけど、今日は彼女にプロポーズしようと思ってやって来たんだ」
「本気? お姉ちゃんはまだ高校生よ」
「……そのうちって意味だよ。今すぐってわけじゃない」
男は静かな物言いで答えた。
(なるほどそういうことか)
叶香はひとりで納得した。
彼は、姉が高校を卒業したら結婚する気でいるのだろう。
そしてついでとばかりに川を訪れ、家族のご機嫌伺いを兼ねて叶香を見に来たのかもしれない。
新しく妹になる子がどんな性格なのか、と好奇心が疼いたのか。
姉にしてはずいぶん律儀な男を捕まえたものだと感心し、そして不愉快げに頬を膨らませた。
「お父さん達はきっと結婚に反対だと思うわ」
「……なぜ?」
「お姉ちゃんはとても頭が良いから、卒業後は就職せずに進学させたいと両親が話していたもの」
「君も反対かい?」
質問の矛先が急に自分に向いたことに戸惑い、しばらく考えて首を振った。
「私は、お姉ちゃんを大切にしてくれる人なら誰でも構わないわ」
「実に物分かりの良い妹だね」
「だって、私もあと何年かしたらすてきな恋愛をするかもしれないでしょう? その時に反対されたらやっぱり悲しいわ」
「おや、君は恋愛に興味がないと思っていたよ」
ひゅーと口笛を鳴らした男が、驚いたとばかりに声を上げた。
どうせ姉が余計なことを話して聞かせたのに違いない。
お転婆で釣りばかりしている妹が、髪の毛を振り乱して遊ぶ姿を面白おかしく語ったのだと想像し、叶香は立腹して男から顔をそむけた。
水中を泳ぐ小魚を狙って静かに手のひらを浸す。
一瞬届きそうになった尾ひれは、危険を察知するが早いか、大きく揺れて彼女の指先をすり抜けていく。
やはり素手で捕まえるのは難しい。
魚を諦めた彼女は水面に突き出た岩に腰を下ろすと、服が濡れるのも構わずに両足を大きく振った。
「もうじき日が暮れるね。君のお友達は来ないようだね」
「……彼はいろいろと忙しいの。でも約束はきちんと守る人だから必ず来ると思うわ」
言い訳じみた説明を繰り返し、いまだ姿を見せない耀介を思った。
そろそろ掃除は終わっただろうか。
学校の門を出た彼は、今ごろ家に帰って着替えているのかもしれない。
そして急いでこちらに向かっているだろうと想像した後、ふと表情を曇らせた。
――嫌な予感が、胸中に芽生えた。
叶香と同様、耀介もまた釣りに行くことを家族から非難されている。
しかしそれは叶香とは違う理由であり、高校受験が近いせいだということも承知していた。
同じ受験生とはいえ、地元進学を志望して気楽に構えている叶香と比べて、頭の良い耀介は学校でも塾でもトップクラスの成績を誇っている。
親の期待を背負って勉学に力が入るのは当然だ。
隣町の有名校を受けるという話も聞いているだけに、
(もしかしたら、勉強しろと怒られているかもしれないわ)
そんな不安がよぎった。
うつろな双眸で水流に転がされる小石を眺め、彼は来ないかもしれないと考えて、かすかなため息が水面に吐き出された。
「さて、と」
男が立ち上がった。
てっきり家に帰るのかと思って安堵した瞬間。彼は、手にした釣竿を足元に置くと、叶香を追うように靴を脱いで川に入ってきた。
飛沫を上げて近づく男に驚き、硬直した面持ちで彼を見つめた。
「ひとつ聞きたいんだけど」
「な、なに?」
男がおもむろに両腕を伸ばしてきたことに狼狽し、叶香は声を震わせた。
彼の手が静かに伸ばされ、彼女の両手を掴んだ。そのまま腰を落とし、スーツが濡れるのも構わずに跪く。
水底から伝う冷たさが足に巻きつき、こちらを見上げた彼の表情がまるで愛しい人を見るように優しく瞬いたことに戸惑った。
「君は、僕がお姉さんと結婚することに賛成なんだね」
「……えぇ」
意外なことを尋ねられ、きょとんと目を開いた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
家族の承諾を得てプロボーズしたいという気持ちは分かるが、要は本人同士の問題だ。
姉がどうしてもと押し切れば、両親も認めざるを得ないことは想像に易い。
頭の中で漠然とした恋愛価値観を抱いていた叶香は、思いがけない問いに首を傾げた。
「それなら、もし、お姉さんの恋人が耀介ならどうする? それでも君は許せるかい?」
男はさらに難しい問題を投げかけ、叶香を悩ませた。
「分からないわ」
と呟き、俯いた頬が朱に染まったことを彼は瞬時に見抜いた。
「あぁ。君は耀介が好きなんだね」
そう直感して微笑した。
まだ高校生にもならない15歳の少女にとって、恋はどんな意味を持つのだろう。
そんな時期をとうに過ぎてしまった彼には思い出すことも出来ないが、隣にいるだけで胸が高鳴るような、くすぐったい感覚は何となく覚えている、などと年齢に似合わず大人臭いことを考えて自嘲した。
叶香を見ていると、自分がどれだけ大人になってしまったのか突きつけられる。
はるか遠くなったはずの少年時代が、まざまざと眼前に蘇るごとく懐かしさと寂しさが混合する。
「叶香」
彼は、ことさら穏やかな声音で少女の名を呼んだ。
「叶香。……これは、夢だ」
「え?」
「ここではもう魚は釣れない。この川はとっくの昔に埋め立てられてなくなってしまった。……そして耀介も、ずいぶん前にこの町を離れて遠くに行ってしまった。彼はもう、ここには来ないんだ」
「――」
なにを言われているのか、理解できなかった。
水面に突出した岩に座した叶香は、ぽかんと間抜けな色を醸して男を凝視した。
彼女を見つめる男の双眸が、悲しげな色を伴って揺れる。
「――僕が、誰だか分かるかい?」
男の声が幻聴のように掠れ、遠く木霊するごとく耳に届いた。
「昔、ここで会おうと決めていたね。一緒に魚を釣ろうと約束したね。だけど君は来なかった」
「そんなはずないわ! 私、約束はちゃんと守るわ!」
「いや、来なかったよ。だから僕は諦めた。君のいないこの町が嫌で逃げ出したんだ」
「……なんの話?」
「君がいなくなって5年が過ぎた。あの時15だった僕は、今年20歳になったよ」
さぁ僕の名前を答えてごらん、と男が問い掛けた。
叶香を待っていた人?
この川で?
あとで会おうと笑いあい、互いに手を振って別れた相手――それが目の前にいるこの男だと言うのか……?!
自分の手を握る彼を食い入るように見つめ、叶香の両手が震えた。
この人は自分よりもずっと身長が高い。
大人びた表情を見せる男を前にして、己がとてつもなく幼い子供のように思えて恐ろしくなる。
相手の反応を確かめつつ、探るように言葉を選んだ。
「……あなたは、来ると言っていたわ。掃除が終わったらすぐに行くからと、私に向かって笑ってくれたわ」
「そうだね。でも先に約束を破ったのは君の方だ。下校途中で車に轢かれてたことを覚えているかい? 家に帰る途中、車と衝突しただろう」
彼の言葉のすべてが幻聴に聞こえた。
確かにあの時車に轢かれかけたが、ぎりぎりのところで無事だったはずだ。
歩道に渡った叶香に向かって運転手が叫んだことすら妄想だったのか。
彼の言うとおり、自分が体験した事柄は、本当に夢なのかと考えて眩暈がした。
「……耀介。嘘でしょう、本当に――あなたは」
「この川では、もう魚は釣れない」
そう呟いた直後。
彼の姿と共に、視界が傾いだ。
山間を流れる細い川や透き通る水が瞬く間に消え失せて土色に変わる。
生い茂っていた山の緑は灰色がかった空にかすみ、足先に伝わる冷たい水の感触までも遠ざかっていく。
水底に刻まれたはずの足跡が水流にさらわれるごとく消失し、彼女に悲しい現実を突きつけた。
「……景色が君から去っていくんじゃない。君が、現実から離れているんだ。ここはもう君がいた頃の町じゃないから」
「耀介!」
15歳のまま、永遠に時が止まる。
自分だけが取り残されているという恐怖を実感して、必至に彼にしがみついた。
――あの日、叶香は死んだのだ。
川に行こうとして、
途中で車に轢かれて、
救急車で運ばれた。
ほとんど即死の状態で、処置を施している途中で呼吸が止まり、治療をする医師すら匙を投げた。
あの川に辿りつけないまま、彼女の命はそこで永遠に途切れたのだ。
そして、耀介もまたあの川には行かなかった。
向かったのは病院だ。
連絡を受けて彼女の遺体と体面し、その後すべての記憶を放棄するかのように勉強に没頭して、別の町で大学へと進学した。
――しかし、叶香はずっとこの川に《いた》のだ。
長い時を過ごしながら、1人で彼を待ち続けていた。
永遠という時をさすらい、川の煌きだけを友としていた15歳の叶香。
かみ合わない時間が二人をすれ違わせていることを、耀介ですら知らなかった。
「ごめんな」
大人になった耀介が、泣きそうな顔で彼女を見つめた。
「お前は、ちゃんと約束を守ってくれていたんだな。叶香がいると知っていたら、こんなに待たせたりしなかったのに、もっと早くここに来たのに。本当にごめん、そして約束を守ってくれて、ありがとう」
「耀介?」
その声に応えるように、長身を屈めて叶香を抱きしめた。
その体は儚く消え入りそうに細い。
中学生のままの彼女を胸に抱き、なだめるように震える声を絞り出した。
「お前は、ずっと受験生のままなんだな。僕がいくつになっても、年を取って爺さんになっても、お前はきっと当たり前のようにその声で僕を呼ぶんだな」
それがとても切ないのだと、彼は訴えた。
ひとりで大人になってしまった。
ずんと背が伸びて、勝手に歳を重ねてしまった。
本当は同じ年月を一緒に経ていきたかったのに……、
それが叶わず、叶香だけを1人取り残したことに悲しみが溢れた。
現実を知った瞬間、叶香の心が悲鳴を上げた。
寂しさだけが胸中を支配し、堪えきれずに慟哭した。
「さぁ、もうお帰り。ここは君のいる場所ではないのだから」
「……私、ここにいてはいけないの?」
「君のお爺さんが心配している」
耀介が、耳元で静かにささやいた。
「この川には叶香の幽霊が出るって。君が、お爺さんの釣竿を盗んでここに来るたび、家族はいつも嘆いている」
だからちゃんとお別れをしよう、と精一杯の想いを伝えて不安げな面持ちの叶香を見下ろした。
耀介は、今年21になる。
受験を乗り越え、大学に進学して、いくつかの恋愛を経験して今に至る。
そうして叶香の存在が心の端に残るばかりになった頃、叶香の姉と再会して交際が始まり、幽霊の話を聞いたのだった。
「あなたと結婚すると知ったら、きっと叶香が怒るわ」
叶香の幽霊――?
にわかには信じられなかった。
もしかしたらプロポーズを断る口実なのかと考えて疑心が募った。
しかし話は瞬く間に真実味を増し、祖父までもが心労で倒れたと耳にして状況が変わった。
叶香と《会おう》と決心がついたのは、つい先日のことだ。
彼女の姉を大切に想っているのだと、その気持ちを叶香にどう伝えようかと迷っていた。
「お姉ちゃんと結婚するのね」
記憶から薄れかけていた彼女の声がすぐ近くで届き、耀介ははっと我に返った。
「でも、あなたならいいわ。耀介ならきっとお姉ちゃんを幸せにしてくれるでしょう?」
「――叶香」
彼女は優しく微笑した。
今の2人には、もうあの頃のような親密さはない。
耀介はどんどん成長していき、これから先にある未来へと進んでいくのだ。
……彼には追いつけない。
伸びない身長も、幼さの残る表情も、恋愛の苦手な性格も、ずっと変わらないまま、時の流れに逆らって留まるしかない。
今、2人を隔てるものは、あまりにも大きい。
共に過ごして来なかった時間が、互いの想いを置き去りにして、5年という月日を分けてしまったのだ。
どんなに望んでも叶わないことはあるのだと――、酷な現実を突きつけられた。
「そんな顔で見ないでよ」
「……ごめん」
強がってみせる叶香とは反対に、むしろ耀介の方が悲壮に思える。
彼女に対する憐憫の色を目の当たりにするのは、あまりにも辛かった。
「私たち、もう会えないのかな」
「会えるよ。ただし、それはずっと先の話だ。あと60年ぐらいしたら、きっと」
「――そんなに先」
「僕は、叶香の分も生きなきゃならない。たくさんたくさん……これから多くの時間を過ごして、もう十分だと思った時に、君が僕を迎えに来てくれたら、もう言うことはない」
「――いつか」
「そう、いつか」
ぼろぼろと涙が溢れた。
彼の胸を借りて泣きじゃくった。
こうして、このまま時間が過ぎていくのなら、こんな幸せなことはないのに。
そんなことを考えているうちに、ふと自分の体の感覚がなくなっていることに気が付いた。
耀介の広い背中に巻きつけた両腕が、確かな感触を失って薄らぎ、目の前にいるはずの彼の姿でさえぼやけて見えた。
耀介の力が緩んだのではない。自分の意識が遠のいているのだ。
「叶香、また会おう」
子供を宥めるような笑顔だった。
しかし、ここを離れなければならないという寂寥が取り巻いた彼女は、耀介のようには笑えなかった。
彼はもう、自分にとって近しい存在ではない。
叶香以外の人と歩いていくのだ。
次に耀介と会えるのは、きっとずっと先――。
その時、彼は今よりさらに変貌を遂げ、老齢を重ねた皺だらけの手で叶香を抱きしめるのかもしれない。
その事実を認めるのは何よりも苦しかったが、叶香はそっと両手を離すと、徐々に退きながらその姿を失っていった。
「またいつか。必ず……」
どちらからともなくそう呟いた。
埋め立てられた土の上には、小さな裸足の足跡だけが残った。
つい先刻までそこに叶香がいたのだという形跡が、現世にしっかりと刻まれている。
耀介は足元に放置されていた古い釣竿を手にすると、膝を曲げて泣き伏した。
「あぁ、逝ってしまったねぇ」
耀介が叶香の家に戻ると、年老いた祖父が出迎えてくれた。
縁側に座し、膝に置いた両手を祈るように組んで、感慨深げに空を見上げた。
耀介が傷だらけの釣竿を手渡すと、祖父はいっそう顔の皺を深めて嘆息した。
「私は、今でもあの子が死んだことが信じられないよ。この5年は、私にとってとても長く感じられた」
「その年月を、僕もこの場所で共有したかったです」
そう言った耀介を見遣り、祖父は目を細めた。
「家の中や庭先で、叶香の足音を耳にするたびに、妙に嬉しい気分になったものだ。あの子がまだ生きていると錯覚してね。かたんと鳴る釣竿や、いつの間にかなくなる餌の量を目にして、あぁ叶香はまた釣りに行ったのだなと喜んでいた。そういう気持ちが分かるかね」
老人に尋ねられ、耀介は無言で頷いた。
しかし、その彼女はもういない。
辛い現実から逃れるため、この家族は皆長い夢を見ていたようだ――。
そして、祖父も心のどこかで叶香を案ずるあまり、次第にその老体を蝕んでいたのだろう。
「せめて畳の上で死なせてやりたかったねぇ」
しわがれた声を響かせて目頭を押さえた時。
家の奥から、姉の蔦子が姿を見せた。
縁側の板間に朱塗りの盆を置き、無言で二人にお茶を勧めた。
湯気の立った茶碗を手にした耀介が、温度を確かめるように息を吹きかけた。
「叶香は本望でしょう」
「そうかね?」
首を傾げた祖父を一瞥し、こくりと頭を下げた。
「畳に伏している彼女など想像がつきません。学校が終わったとたん、いつも外に飛び出すような子でしたから」
「あぁ、そうかもしれないねぇ」
祖父は自分を納得させるように何度も頷いた。
両手で包むように茶碗を取り、その中身をすすりながら泣きそうな表情で眉毛を下げる。
そんな二人の会話に聞き入っていた叶香の姉が、かすかに微笑して傍らの釣竿を手にとった。
「お空の上でも、釣りはできるかしら」
亡き妹の仕草を真似て、庭先にえいと竿を放った。
針のついた糸は弧を描き、緩やかに庭の端に着地して風に揺れた。
くすくすと叶香の明るい笑い声が、すぐそばで響いているような気がした。
《完結》