九 「ロープ」
それは異様とも、美しいとも言える光景だった。
「なんだ……これ」
向こう側の壁が見えないほど広い部屋の中、天井から下がる無数のロープ。私は踏み台にする椅子を持ち、ドアを背にして立っていた。
ついさっき、私は家で首を吊って自殺した、はずだった。意識を失った次の瞬間、気がついたらここにいたのだ。
会社が倒産し、妻子と別居し、実家の親が要介護になり、再就職もままならず、アルバイトで食いつなぎ、家と車のローンが払えず、食事を切り詰めて倒れ……と悪循環は止まらなかった。
それでも、私は粘った。車は必要だが家は売ればいいし、コンビニで夜中にバイトをするのも慣れてきた。前職のつてで、多少の小銭を稼ぐこともできた。親は介護ヘルパーを頼み、近くの親戚が見守ってくれることになった。ようやく希望が見え始めた春、検診で引っかかった。
早期のガンが見つかった。
すぐ治療すれば安心ですよ、早く見つかってラッキーでしたね。医師の言葉を受け止める余裕が、私にはなかった。
心が折れた。
「もしかして、死に損ねたのかな……やり直せってことか」
私は手近なロープの下に椅子を置いた。上がって輪に首を入れ、椅子を蹴る。
ドスンッ。
「痛て……切れたのか?」
首に衝撃が走った直後、空中で支えを失った体は、反動で尻から床に落ちた。見上げると、ロープが根元から消えている。首に巻き付いているはずの部分も、同じく消え失せていた。
「……失敗?」
私はまた隣に移動し、同じことを試み、また落ちて尻を打った。また隣、また隣、と三回繰り返し、さすがに少し冷静になる。
「当たりと外れがあるのか……?」
試されているのかもしれない。ふとそう思った。本気で死ぬ気があるのかどうか、何かが私を試しているのだと。
私は、ロープを片っ端から試していった。五回、十回、二十回、三十回……手で引っ張るとしっかりしているロープが、いざとなると消え失せる。繰り返し繰り返し、私は床に落ち続けた。
「まだまだ……俺は本気だ……!」
首と尻の痛みに耐えつつ、また椅子を運ぶ。家の中は片づけてある。生命保険の約款は読み込んだ。妻と子が暮らしていける金は残せるはずだ。
四十回、五十回、六十回……。
七十回目。気がつくと、私はきちんと足で着地していた。無意識に、尻の痛みを回避しようとしたのかもしれない。いったい何回目あたりから着地していたのか、さっぱり分からない。
「死のうってのに、痛みから逃げるなんてな!」
七十一回目。私はまた元通りに尻から落ちようとしたが、体が拒否する。次も、次も、その次も、足の裏できちんと体重を受け止めるばかりだ。
「なんでだよ! 死ぬんだ! 俺は死ぬんだ!」
初めて、涙が出てきた。ボロボロ泣きながら、私はまた隣に、隣に、と進んでいった。
ロープは、まだまだ残っている。部屋の向こうの壁も、まだ見えてこない。
「最後の一本まで行けば……きっと……」
私はつぶやきながら、また次のロープを目指す。死にたいというより、黙々と苦行に耐える行者のようだ。
でも、もしも最後の一本までも外れだったら? 自分はもう死んでいて、ここは地獄なのかもしれない。無限に続く苦しみの部屋かもしれない。
百八本目。
とうとう、体が椅子に上ることを拒否した。足が、どうしても上がらない。
「死ねないのか……俺は、生きなきゃいけないのか……?」
椅子に手をついて体重はかけられても、膝を乗せることさえできない。情けなさが募る。涙だけが、ポタポタと座面に落ちていく。
痛みも苦しみも怖くなかった。でも、それはマヒしていただけだったようだ。実際の私の体は、痛みを怖れ、苦しみを避けたくて動かなくなっている。まだ生に執着があった。気づかなかった。
――目が覚めた。
私は、自宅の吹き抜けの下に、仰向けに倒れていた。ロープが途中で切れて揺れているのが見える。
「ああ……事故物件になったら売れないよな……」
頭がすっきりしている。なんだかおかしくなってきた。私は笑った。腹の底からおかしくて、大声をあげて笑った。
明日、病院に行こう。もう少しだけ、あがいてみよう。息苦しくなるまで笑いながら、私は心に決めた。