二十六「靴」
それは異様でもあり、美しくもあった。
靴が揃えて置いてあるだけの、それだけの写真。
公園に、歩道に、森に……延々と続く「靴の写真」だ。
「おや、それが気になるかい」
吸い込まれるようにページを繰っていた僕は、その声でハッと我にかえった。数年ぶりに通った路地で、たまたま目に入った小さな古本屋の看板。何となく惹かれて入店したところ、目に留まったのがこの写真集だったのだ。
カバーも奥付もない。バーコードもない。著者の名前すらもない。ただただ靴の写真だけが続いている。
「この本、値段ついてないけど、いくらなんですか」
「おや、買うかい。変な本だろ」
「変……変ですね。でも、すごく美しいです」
「タダでいいよ」
「えっ!?」
「ただし、条件がある」
見たところ七十代かと思われる店主は、レジカウンターの奥で椅子にもたれたまま、僕の足もとあたりを指差した。
「君にその本が必要なくなったら、その場所に戻しに来ること。捨てたり売ったり譲ったり、けっしてしてはいけない。いいかな?」
僕は店主の言う条件を二つ返事で了承した。自宅からそんなに遠い距離でもないし、何よりその本の美しさをもっと堪能したかった。
「自費出版なのかな? 撮影旅行の記録、ってとこか……」
それにしたって、タイトルくらいつけても良さそうなものだ。自分の部屋に戻った僕は急いで食事やら入浴やらを終え、じっくりと腰を据えてその写真集と向き合うことにした。
「完璧だ……」
写真としての画作りの美しさは言うまでもなかった。さらに僕を引きつけたのは、靴だ。
別に特別な靴というわけではなかった。僕が靴に詳しくないのを計算に入れても、むしろ量販店や大型スーパーで買えるような、手頃な価格のものに見えた。それが三足。白にワンポイントの赤が映えるスニーカー、明るい茶色で少しヒールがあるサンダル、黒の短めなブーツ。
「若い女の子かな? まるでそこにいるみたいだ……」
そう、本当にそこに人がいるように見えるほど、その靴たちには存在感があったのだ。
それからの僕の行動は、魅入られていたとしか言いようがない。
その日のうちにネットで調べた初心者向けオススメのデジカメをバッテリーやケースやメモリーカードなど一式ポチった。届くまでの数日間は、仕事以外の時間ほぼすべてを写真から場所を特定することに費やした。何枚か見覚えのある特徴的な建物などが写っていたので、わりと近場だと予想はついていた。カメラが届いた頃には、すでに七割ほどの場所を特定し終わっていた。
休みの日には写真集とカメラを持って車で出かけた。同じ場所で同じ角度から写真を撮った。デジカメなので気軽に何枚でも撮り直せる。納得いくまで撮った。天気が合わなければ出直した。印刷してみてイマイチだったときも出直した。季節が合わなければ次の年だ。三ヶ月後、コンパクトデジカメは一眼レフに変わった。
三脚やレンズを揃えた。ニ年目は季節ごとにどこへ行くのかスケジュールを組んだ。場所の特定はほぼ終わっていた。だいたい思い描いたイメージで撮れるようになった。
三年目、最後まで分からなかった場所をようやく見つけることができた。工事で道筋が変わった場所の、旧道のさらに脇道だったために何度も素通りしていたのだ。最後の一枚は、自分の中で最高のイメージで撮ることができた。
写真をまとめたフォトブックを二冊作った。レイアウトは元の写真集と同じにした。
僕は撮影の時、靴は置かなかった。そこに本当に人がいると思わせることも思うこともできそうになかったからだ。
翌週の休日、僕は写真集とフォトブックを持って出かけた。あの小さな古本屋に行くつもりだった。写真集を返し、フォトブックを店主に見せて感謝を伝えようと思った。
三年ぶりに路地に入る。記憶の場所には何もなかった。
「潰れちゃったのか……」
三年間、一度も来てみなかったことを悔やんだ。周りの店は小さなスナックや居酒屋で、まだ昼間とあって人の気配もない。そもそも営業しているのかも怪しそうだった。
店があったはずの場所は、ただのコンクリート敷きの小さな空き地になっていた。思いきって足を踏み入れる。十歩もいかないうちに、あの日の場所へたどり着いた。
「『その場所』に返せ、って言ってたよな」
僕は迷わずしゃがむと、足元に写真集とフォトブックを置いた。あの完璧な写真集から僕がどれほど感銘をうけたか、誰かが並べて見てくれたら嬉しいと思った。
そして店を出るように、敷地から一歩、路地へと戻った時。
我に返った。
振り返ると、そこは砂利敷きの空き地で、不動産屋の古びた看板が立っていた。写真集もフォトブックも無くなっていた。
日光に焼けて赤が薄くなった看板は、僕が高校生の頃の記憶そのままだった。
カメラ一式は、その日のうちに中古ショップに売った。なかなかいい金額になったので、一人焼肉を堪能した。
写真のプリントも、データもすべて破棄した。フォトブックだけは残した。もっとも二度と開かないだろうけれど。
靴を履いていた女性は、きっと実在したのだろう。
僕はもう一生カメラを趣味にすることはないだろうし、あの三年間は夢だったのかもしれないと思っている。




