十八「休暇」
残業を終えて会社を出たのは午後六時過ぎ。三月の頭、もう外はだいぶ暗くなっていた。
「あ、良かった会えた~」
足元から視線を上げると、半年ぶりの友の顔があった。
「ごめんね急に、ちょっとスマホ壊れちゃってて、でも顔見たくてさ」
「あ、そうなんだ……びっくりしたあ」
大学で出会った彼女とは、あっという間に親しくなった。何度も旅行したし、お互いの実家にも泊まった。
しかし、就職してからお互い忙しく、最近はポツポツとメールのやり取りをするだけになってしまっていたのだ。
「コーヒーショップにでも寄る?」
「ううん、あんま時間ないんだ。駅まで一緒に歩こうよ」
「そっかあ」
私たちは、並んで歩き始めた。
「あたし、引っ越すことになったんだ」
「え、いつ?」
「来月半ばくらいまでは、実家にいるよ」
「転勤とか?」
「仕事は辞めたんだー」
「そうなの!?……結婚とか?」
「違う違う」
彼女は笑いながら、顔の前で手をブンブン振った。
「ま、ちょっと事情があって急に決まっちゃったんで、あたしもまだよく分かってないかも」
「なんだそれ」
「まあ……そのうち落ち着くと思うんだよね。長期休暇みたいなもんだから」
ニコニコしながら言う彼女の横顔がなんだかキレイに見えて、私はそれ以上突っ込むのをやめた。
寄るところがあると言う彼女を残し、私は改札を通った。
「スマホ買ったら、すぐ連絡してね!」
「うん、ありがとね」
手を振って、背中を向けて十歩ほど歩いただろうか。彼女の声が聞こえた。
「元気でねー!!」
「!?」
振り返る。彼女は見えない。私は駆け戻った。慌てて逆行しそうになりながら横へ横へと移動し、ようやく改札を出たが、彼女はもうどこにもいなかった。
「ちょっと待ってよ……」
元気でね、と、たしかに彼女はそう言った。
「何それ……別れのあいさつみたいじゃない……なんで? どういうこと?」
バッグに手を突っ込んでスマホをつかみ、彼女が今、スマホを持っていないことに気がつく。
「自殺とか、ないよね……? やめてよね……」
次の休みに、彼女の部屋を訪ねよう。もういなかったら、実家に行こう。連絡が来ても、来なくても。私は決めた。
「妹が、あなたへの連絡は最後にしてほしいと書いていて……そのように皆さんに頼んでいたので……すみませんでした」
あの翌日、同級生経由で彼女の死を知らされた私の気持ちは、きっと誰にも分からないだろう。
彼女は部屋で一人で亡くなっていて、急病か自殺か分からず司法解剖されて、火葬も葬儀も終わっていると聞かされた気持ちは。
テーブルの上に広がっていた仕事の資料に、私についての走り書きがあったと知った気持ちは。
遺影は、去年の旅行で私が撮った写真だった。ベストショットの笑顔よりも少し落ち着いた、普段の彼女らしいものが選ばれていた。
「妹と会ったというのには驚きましたが……直接、お別れを言いたかったんですね、きっと……」
彼女と似ていないお姉さんが嗚咽している。
彼女の死因は、急性心筋梗塞。意識を失うまで、たぶん数秒だっただろう、それほど苦しまなかったはずだ、と医者は家族を慰めたそうだ。
「○○(彼女が私を呼ぶ名)さいごれんら」
「く」の途中で、彼女は意識を失ったのだ。
亡くなった翌日に、会う約束をしていた姉が部屋を訪ねたのは、不幸中の幸いと言っていいのだろうか。
冷たく固まった右手に握ったままのボールペンが指すメッセージを、家族はどんな気持ちで見たのだろう。テーブルいっぱいに広げられた仕事の資料の字に埋もれ、乱れた字。短すぎる人生の終わりに、最後の時間に、家族以外の者が頭をよぎったという現実を。
いたたまれなかった。
私は香典返しの品を受けとると、足早に彼女の実家を辞した。
「ねえ……なんで黙ってたの?」
何度も遊びに来た道を、うつむきながら歩く。その時はいつも家族の誰かが、駅まで車で迎えに来てくれた。
「会いに来てくれたんなら、言ってくれてもよかったじゃん……」
今日はタクシーを使った。帰りはお姉さんが送ると言ってくれたのだが、丁重にお断りした。大通りまで出たら、コンビニに寄りつつタクシーを呼ぼう。
「なんで……あたしのことを……」
足を止めたら叫んでしまいそうで、私は黙々と歩いた。
「来月半ばくらいまではいる、って、四十九日ってことだったんだよね……」
彼女は、今日も実家にいたかもしれない。私を迎えてくれたのかもしれない。でも、姿は見えなかった。声も聞こえなかった。
あの夜、別れのあいさつは済んでいたのだ。
「バカ……バカぁ……」
コンビニが見えてきた。交差点のはるか手前で立ち止まった私を、前から来た自転車のおじさんがのぞきこみながらすれ違っていった。




