十七「自転車」
垣根越しに我が家の庭をのぞきながら、若者が通りすぎる。だいたい中学生か高校生だ。けっこう高い生け垣なのだが、自転車を立ち乗りすると頭が越えてしまうのだ。盲点だった。
「何のための垣根か分かりゃせん」
父は毎日ぶつぶつ文句をたれていた。縁側に腰かけ、丹精込めた庭を眺めるのが日課なのである。七十五になったので無理はするなと言っているのだが、垣根の刈り込みだけは絶対に自分でやると言い張り、実際にやってしまう。
自慢の庭だとか言いながら高い生け垣で囲うあたり、プライバシーとは違うこだわりがよく分からない。その他もろもろあるが、つまりは偏屈で強情なじじい。それが僕の父だ。
「最近な、ちゃんと挨拶をしていくガキがいるんだぞ」
その日の父の御機嫌ぶりに、僕は驚いた。年に何回かしか見せない、柔和な笑顔だ。
「垣根から頭だけ見えるだろ、おれと目が合うとニッコリ笑ってな、頭下げていくんだ。自転車でシャーッと行っちまうけどな、気持ちのいいガキだ」
いつも夕方、同じ頃の時間に通っていくらしい。僕はまだ仕事から帰っていない時間帯だ。どんな子か顔を見てみたいと思ったが、妻や子供たちも一度も会えていないのだと言う。
「あのお父さんを笑顔にするんだから、よっぽどさわやかな好青年なんでしょうね」
妻の中で、理想の若者が出来上がりつつある。父の偏屈さに長年苦労してきた彼女の心も、その子は癒してくれているようだ。
三年後。
父は七十八歳でこの世を去った。
夕飯ができたので妻が呼びに行くと、いつものように縁側に腰かけ、そのままうつむいた姿勢で亡くなっていたそうだ。
やわらかく微笑んだ、いい顔をしていた。
父の人生を知るものにとって、奇跡としか言いようがない相だった。
葬儀を無事に終え、忌引き休暇も今日で終わりという日の夕方。僕は、縁側に腰かけて庭を眺めた。父がいつも座っていた場所から、父が見ていたであろう風景を見る。僕は庭に興味がなくて良し悪しは分からないが、できるだけ管理はしていこうと思った。
日が陰り始めた頃、子供たちの話し声が聞こえてきて僕は顔をあげた。少し枝が伸びてきた生け垣の向こうを、チラチラとこちらをのぞく中学生たちが通りすぎていく。
そうか、この時間か。例の少年に会えるかもしれない。
ヘルメットをかぶっていないので高校生だろう、と父は言っていた。きっと見れば分かるだろう。
一言、父が喜んでいたと伝えられたら。
僕は追って声をかけられるようにと、顔が見えて入り口にも近いポジションに立って待つことにした。
十分ほど経った頃。
「あっ、きみ!」
薄暗くなってきた中、一人でスーッとやってきた少年が、僕の顔を見てニッコリ笑い、頭を下げていった。気づくのが遅れた。急いで道路に走り出す。
「父が、きみのことをほめてたんだ! 気持ちがいいって!」
彼はまっすぐ進んでいく。聞こえているか、止まってくれないだろうか。
「ありがとう!」
道路に一歩踏み出し、彼の後ろ姿を目で追う。次の瞬間、僕はひざをついた。
気づくのが遅れたわけが分かった。
自転車が来るのを待ち構えていたからだった。
彼は、ちょうど生け垣の高さを飛んでいったのだ。
首から上だけで。
まっすぐ、まっすぐ飛んで、彼は薄闇に消えていった。
夕暮れ時を、逢魔が刻とも言うそうだ。
僕は太ももを叩いてなんとか立ち上がり、彼に会えたことだけを妻と子供たちに報告することに決め、家の中に入っていった。




