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十五「絵」

ゆうくんが亡くなったって……」

 ただならぬ様子の通話を終え、母は呆然と告げた。母の姉夫婦の息子、私の従兄いとこが亡くなったという報せだった。 

 まだ二十歳。いくらなんでも早すぎる。私たち家族は、大慌てで準備して車に乗り込んだ。

 絵を描くのが大好きだった従兄。高校生の頃には、自分の絵をネットで発表したり、近所の小さな会場で個展を開くなど、精力的に制作していた。

 最近は離れの部屋にこもって大作に取り組んでいたはずだが……どこか悪かったのだろうか。



 一時間ほどで、従兄の家に着いた。運転していた父が首をかしげる。

「静かだな……」

 それは私も感じていた。人が亡くなったというのに、雰囲気が普通すぎる。

 この家で数年前に祖母が亡くなったときは、葬祭業者や親戚、近所の人の出入りでザワザワしていたのを覚えている。今はまるで、日常の続きのようだ。

「そんなこといいから! 私、先に行くから!」

 せっかちな母は、父が車を寄せようとバックし始めたのにも構わずドアを開けて降り、後ろ手で勢いよく閉めた反発力を生かして駆け出していった。



「死んだとは一言も言ってないのに……まったくあんたはせっかちなんだから、昔から」

 まずお茶でも飲んで落ち着けと言われ、喪服やら数珠やら一式抱えた私と父は身を縮めて座っている。母は姉さんの言い方が悪いだのたしかにそう聞こえただの、ずっとまくしたてている。

「でも、絶対言った! 姉さん、『悠が亡くなってねえ』って言った!」

「それは言ったけど」

「え!?」

 思わず声が出た。母は混乱したのか、口をパクパクさせて意味不明な手振りをしている。

「なくなった、とは言ったけど、死んだとは言ってないのよ」

 私は頭の中で、何度も整理を試みた。なくなった、死んでない、ナクナッタ、シンデナイ、……!

「……無くなった……?」

「そう」

 伯母はのんびりとお茶を飲みほすと、優雅に立ち上がった。

「悠の部屋、見てちょうだい」

 私たちは何か恐ろしい気持ちを飲み込み、伯母の後をついて離れに向かった。




 圧倒された。真っ白なキャンバス。縦がドアの間口より高い。二メートルくらいはあるだろう。

「あら? 悠くん、水彩の風景が専門じゃなかった?」

「何? 今さら……うちにもあるじゃん?」

「いや、これは油彩かアクリル用のキャンバスで、しかも人物画用なのよ、サイズが」

 中学・高校と美術部に所属していた母は、不思議そうにキャンバスをなでる。

「しかも、真っ白に塗ってあるわこれ。アクリルで、べったり厚塗り。何を描くつもりだったんだろう?」


「私が塗ったのよ」

 いつも通りの伯母の口調が背中を撫でる。恐ろしい予感にのどがぐっと締まった。

「あの子が家を出ていくって言い出したから。そんなの許されるわけがないのよ、長男なのに」

「悠くんが、そんなことを……?」

「ええ」

 問う父を一瞥いちべつした伯母の視線は、キャンバスを見つめる母の背に注がれている。

「あの子はあなたを慕っていたわ。昔から。絵の話ができてにぎやかなあなたを」

「だから……塗ったの?」

「ええ」

 いつもうるさい母の低い声と伯母のいつも通りに冷静な口調が、まさに事態が最悪であることを告げていた。


「この下に、悠くんがいるのね」

「そうよ」

 母の視線は、キャンバスに注がれたままだ。

「あなたが言った通り、悠はアクリルで自画像を描いていたの。新しい道をひらくって。これはこの家からの卒業製作だって」

 私の目に、パレットと筆を持った悠くんが浮かんだ。この大きいキャンバスに、等身大の自画像を描いていたのだろう。

「家を出ていくなんて、許されるわけがないわ。長男は家を守るものよ。私は長女だからと、婿をとってこの家を守ってきたのよ。あなたが自由勝手に飛び回っていた間もずっと。絵はここでも十分描けるでしょう。何が不満だって言うのよ。だから塗ったのよ」

「姉さん……」


「絵が完成したと言って悠が母屋おもやで寝たから、私は買っておいた白の絵の具を絞り出して塗ったわ。どこにも行けないように足から。何もできないように手を。声が出ないようにのどを」

 淡々と、ただ淡々と、伯母は話す。父は汚らわしいものに耐えている、といった様子だ。母は両手で、真っ白なキャンバスをなで始めた。

「顔は最後にしたわ。私の声が聞こえるように、私の顔が見えるように。最後に、ほんとうの最後に目隠しをしたわ。それで母屋に行ってみたら、悠が無くなってたのよ。ほら、その隣の風景画、遠くに人影が見えるでしょう? あれが悠よ。そのうちこっちに戻ってくるわ」

 うふふ、と今日初めて伯母が笑う声を背中で聞いた。

 母の目から、涙がこぼれ落ちた。私は現実なのか夢なのか飲み込みきれずにいた。




 伯母が狂ったように塗っている間に、計画的に出ていったのだと思いたい。

 従兄の行方は、いまだ知れない。

  



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