クラス替え〈3〉
友則圭太の一日は、いたって普通である。
朝八時過ぎには登校。そこそこ真面目に授業を受け、昼は気の合う友人と弁当を食べ、放課後には高校生らしく部活動で汗を流す。そして完全下校時間の十分前には校門を出る。模範的な――と言わないまでも、どこにでもいる高校生そのものだと、本人は思っている。
例えばここに恋愛なんかのスパイスが入ると、もう少し違った一日を送ることができるのかもしれないが、あいにく圭太にその予定はない。恋愛が全てじゃないんだぞ、と声を大にして言いたいところだが、仮に実行してしまえば、その日から憐みの目で見られることは確実なので、大人しくその主張を仕舞っている。
そんな圭太が最も精力を注いでいるものは部活動だった。初心者ながら手ごたえを感じており、それがやる気を継続させる一因にもなっていた。
「トモノリぃ、昨日来なかったじゃん」
話しかけてきたのは、主将の川瀬奈央だった。彼女は既にスポーツウェアを着ている。弓道場の更衣室が男女で分かれていないので、女子が先に着替える決まりになっているのだ。
「すいません、ちょっとクラス委員の関係で」
「委員? なに、HR委員にでもなったわけ?」
「いや……美化委員に……」
言った途端、奈央は「びかいぃんんー!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「欠席裁判で」
「なるほどねぇ。そりゃご愁傷様」
全然「ご愁傷様」なんて思ってないだろ、と圭太は密かにツッコんだ。
にやにやしながら圭太を見る奈央は、短めの髪をゴムで括りながら、
「早く着替えてきなよ。一分後に始めるからさ」
と無茶なこと言った。
※
ファイトー、ファイト―というBGMが聞こえる。あれは女バスだろうか、と圭太は考えた。ああいう姿を見ていると、なるほど青春だなと思う。
「それに比べて、ウチは……」
疲労感の滲み出る声は、隣から聞こえてきた。全く自分と同じことを考えていたので、圭太は思わず返事をする。
「じゃあ俺たちもやるか?」
「……やめとく。余計に疲れる」
無言で校舎の周りを走る弓道部一同は、自分たちとは明らかに違う世界に生きる部活の様子を眺めた。グラウンドは今日も華やかだ。
「そういや、おまえ美化委員になったんだって?」
「何で知ってんだよ」
「うちの美化委員が喋ってた。大変だな」
「良彰は……五組だっけ」
昨日の今日の話なので、いまいち記憶が曖昧である。確認すると、「そ。隣だって言ったろ?」と返された。そう言えば、そんなことを言われたような気もする。
にしても、美化委員になったというだけで、ここまでネタにされるとは。
圭太は明日のことを思い出し、さらに憂鬱な気分になった。
「毎週、掃除用具の点検とかいうのがあるんだよ。一つ一つ掃除用具チェックしてくとかいう……」
「ああ、あれか。けどあれって、手ぇ抜こうと思えば抜けるだろ」
「どうやって?」
「班の奴らに、掃除のついでに見てもらえばいいんだって。変なとこあったら教えてくれってさ。俺らのクラスはそうやってるぜ」
「なにぃ!?」
そんな手があったのか。圭太は驚愕の事実を知らされ、思わず立ち止まる。と同時に、ぎりぎり形成されていた隊列はあっさりと崩れた。
「ぶっ」
「おい圭太、いきなり立ち止まんなよ!」
次々と繰り出されるブーイング。それらを受けて圭太ははっと我に返るも、時既に遅し。先頭に立つ主将・川瀬奈央が後方を――乱れた箇所を覗き込む。
「あ……」
「そこ! 真面目にやれ!」
※
盲点だった。
良彰からまさかの裏ワザを聞かされ、確かにそうだよなぁと、圭太は感心した。というか、それに気付かなかった自分が情けない。
(朝のSHRで頼んどくか〉
全員に周知させておけば、今後はぐっと楽になるだろう。なかなか良いことを聞いた。
圭太は弓道場を出ると、一足先に出て自転車を取りに行った良彰を待った。
団地に住んでいる彼と違い、圭太は下から通っている。毎日あの長い坂を自転車で上がるのは骨なので、当然バス通学である。
日が落ち始めた校内では、ちらほらと室内の明かりが目立ち始めている。ほとんどが各教科の準備室で、あとは特別教室がいくつか。熱心な文化系クラブがまだ残っているようだ。
何の気なしに特別教室棟を見上げる。一番上の階には音楽室と美術室、そして書道教室があるが、書道教室以外の電気はついていた。
遅くまでやってるなぁと他人事のように思いながら、圭太は視線を下ろそうとし――途中で止めた。
本来なら映らないはずのものが、視界に映った気がする。
一番上の階の、さらに上――つまり屋上に。
見間違いか? と思いつつも視線を戻していく。気になったら確かめたいタチだ。
(……本当にいたよ!?)
果たして圭太の視界に現れたのは、一人の生徒だった。遠目で、しかも薄暗いので顔までは判然としないが、体格や特徴からいって女子に間違いない。空の色に溶けてしまいそうな雰囲気のなか、クリーム色のセーターだけははっきりと見えた。
「白石……?」
今日初めて話をしたばかりのクラスメート。
とっさに彼女のことを想起するも、直後「いや」と首を振る。クリーム色のセーターを着ているのは白石だけではない。
それに、屋上は原則立ち入り禁止だ。一般人が入ることを想定していないので、フェンスがなく、仕切りも腰の辺りまでしかない。こんな場所に生徒の立ち入りを許可していたら、大変なことになるだろう。
(じゃあ、なんであの生徒は――)
そこにいるのか。しかも、仕切りを越えて一歩足を踏み出せば、落下するかもしれないくらいの、ぎりぎりの位置に。
もう少しで顔が見えそうなんだけどな、と思い目を凝らしていると、後ろから声が掛かった。
「圭太? どした?」
自転車を押した良彰が、校舎を見上げている圭太を不思議そうに見る。
「や、屋上に――」
「屋上?」
「女子が…………あれ?」
目を瞬かせて、何度も同じ場所を見る。空の色は先ほどと変わっていない。しかし、そこにもう女子生徒の姿を捉えることはできなかった。
呼ばれて目を離した、ほんの二三秒の間に消えてしまったとしか考えられない。
「なんだなんだ、何があった?」
「さっき、屋上に人がいたんだよ」
「はぁ? 屋上は立入禁止だろ?」
「だから驚いてんだよ」
教員の許可を得て入ったなら、隣に誰かがいても可笑しくない。いや、それが普通だ。もしかしたら見えないところにいたのかもしれないが、だとしても、あんなにぎりぎりの場所に立つことを許していたなんて。
「幽霊でも見たんじゃね?」
「そう言うと思った」
諦めたように圭太が言うと、良彰はけらけら笑いながら、「帰ろうぜ」と言った。
ゆっくりと沈んでいく太陽を背に、二人は中庭を通る。東の空は既に真っ暗だ。
中庭を抜ける際、圭太は何度か後ろを振り返ったが、やはり屋上に人は見当たらなかった。