「ふつう」ということ〈1〉
見浜高校では、二年生は夏休みの最初と最後の五日間、午前中に補習が入っている。希望制とはいえ、生徒の大半は補習を希望していた。
そのため補習期間中の部活動は、原則午後に行われる。原則、というのは例外があるからで――その例外の一つが美術部だった。
美術教室のドアを開けると、先客がいた。自分が一番だと思っていた白石は、思わず動きを止めた。
「おはよう、ございます」
二、三度瞬きをしてから挨拶すると、先客――先月まで、ここで共に活動をしていた先輩が振り返る。
「おはよ」
「片付け、ですか?」
根岸は頷く。
「結構酷いことになってるよな、ここ。これとかも、早く持って帰れば良かった」
既に完成している自分の作品を、一つ一つ手に取っていく。
それらが机の端に重ねられるのを、白石はじっと見つめた。
根岸の絵は好きだ。彼の絵にみえる躍動感が好きだ。
それがしばらく生み出されなくなるのは、残念だと思った。
「見ても、いいですか?」
白石が近付くと、根岸は「今さら見せるようなもんじゃないけど」と言いながら、作品を広げた。
「あ……」
これは知っている。彼が、中学生の時に描いていたものだ。
「ああ、これ。こっちに持って来て、すぐ完成させたんだ。そういえば、見せてなかったっけ」
中学校の美術室を描いた絵は、根岸が見浜高校に入学した時点では、下書きの状態だった。
卒業前に急に描き始めて、しかし卒業までには描ききれずに、春休みの間はそのままになっていたのだ。
「卒業してから中学まで描きに行くのも何だかなぁと思って、放っておいたんだけど。こっちで美術部に入ったから、一応完成させとこうかな、って」
根岸の解説を聞きながら、白石は視線を移していく。次に目に留まったのは、昨年の文化祭で彼が出展した作品だった。五月に行われた運動部の地区大会の一場面を描いたものだ。少しだけ、白石の中に苦いものが蘇り、彼女は小さく唇を噛んだ。
「文化祭用の作品に運動部を描かせるっていうの、いい加減止めればいいのにな」
白石が顔を上げると、根岸は「白石もそう思うだろ?」と言って、面倒くさそうな顔をした。
「まあ伝統だからって言われれば、すぐに止めますってわけにもいかないんだろうけどさ。コンクールじゃないんだから、テーマなんか設けずに、好きに描けばいいと思うんだ」
白石は返事が出来なかった。
それをどう捉えたのか、根岸は声のトーンを変えて言った。
「で、部長はうまくやれてるか?」
部長と言われても、その実感はない。一度部長会に出たこと以外は、それらしいことは何もしていなかった。
「まあ、俺も実際何もしてなかったんだけど」
そんなことはない。白石は小さく首を振った。実際に活動していて、これまで不自由に感じたことは一つもなかった。それはきっと、彼のおかげなのだろう。
「ま、気楽にやれよ」
こくんと頷く。気楽にできるかどうかはわからなかったが、やらなければならないのだということは、はっきりとわかっていた。
「これも、見て良いですか?」
「いいよ」
白石が目をつけたのは、完成された作品ではなく、下書き用のスケッチブックだった。
根岸は、その場でスケッチを取ることが多い。白石もそうだ。写真を撮っておいて、あとで写真を見ながら筆で描くタイプが多いなか、二人のようなスタイルは珍しがられた。
これはきっと中学校の影響だと、白石は思っている。中学時代に所属していた美術部の顧問が教えてくれたのだ。その場で一瞬を脳裏に焼き付け、それを一気に表現するということを。
許可が出たので、さっそくページを捲る。全て、今年度に入ってから描かれたものだった。
「これ……」
白石はそのページを食い入るように見た。
一瞬で、誰が描かれているかがわかった。
「ああ……それ」
根岸がやって来て、スケッチブックを覗き込む。
「部活を描けって言われた時に描いたやつ。弓道部に行ったんだけど、誰がモデルになってくれるのかっていうので、結構時間かかって。待っとけって言われて、嫌ですとも言えないしさ。で、それを待ってる間に描いたんだ。だから、すごい適当」
そういえば、以前に彼がそのようなことを言っていたと、白石はそのときの話を思い出した。
ぱらぱらと捲っていくと、他にも弓道場の様子が詳細に記録されていた。
白石は一度も弓道場の中に入ったことがない。授業がないのだから当たり前だ。そしてこれからも、自分から行かない限り立ち入ることはないだろう。
空白のページをしばらく眺めていると、根岸がスケッチブックに手を伸ばしてきた。もういいだろう、という合図だ。
しかし手が触れる寸前、白石は自分の方にスケッチブックを引き寄せて言った。
「これ、欲しい……です」
「え?」
「貰っても、いいですか?」
白石がスケッチブックを抱えるようにすると、根岸は戸惑ったように後輩を見た。何を突然、といった顔だ。
それでも、白石はスケッチブックを抱えたまま、もう一度「お願いします」と口にした。
根岸としては、これに特別な思い入れがあるわけではない。家に持って帰ったら、しばらくは保管するだろうが、例えば進学して一人暮らしをするようになったとしても、下宿先までは持っていかないだろうし、もしかしたら引っ越しの際に捨ててしまうかもしれない。どちらにしろ、この先有効活用されることはないだろう。それならば、ここで後輩にあげてしまっても、全く問題はなかった。
しかし、白石がこんな風に言ってきたのは初めてのことだ。
根岸はそのことに首を傾げつつも、「そんなんで良ければ、あげるけど」と言った。
※
根岸は補習に行くと言うので(三年生は朝からフルで補習が組まれている)、白石は一人美術室に残されることになった。本当は彼女も私物を整理しにきたのだが、今となってはその気は失せていた。
美術室には、引退した三年生の私物だけでなく、何年も前に卒業した先輩たちのものまである。それらを眺めながら、白石は補習が行われているはずの時間を過ごした。
四限目のチャイムが鳴ったところで美術室を出ると、もわっとした空気が白石を包んだ。さすがに廊下まで冷房は効いていない。
急に屋上に行きたくなり、隣にある美術準備室に入った。
顧問からは、屋上の鍵を自由に使って良いと言われている。特例ということで、他の生徒には大っぴらには言えないことになっているが、一部には知られてしまっているらしい。そういえば、この前も友則圭太には見られてしまったな、と白石は思い出した。
「んっ……!」
屋上への扉を開けようとした瞬間、強い風が隙間から流れ込んできた。
右手に力を入れて身体ごと押すと、普段より重くなっている扉はゆっくりと開いた。
「ふぅ」
息を整えてから、全体を見回す。
まだ、どこの部活も始まっていない。これから賑やかになるはずのグラウンドを見つめ、白石は大きく深呼吸した。




