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ある夜のできごと

作者: 二階堂隆一

 まって、いかないで、と口の中で声がもれた。大宮駅までわたしを運ぶはずだった最終電車がすべりだし、八月の蒸れた空気を切り裂いて遠ざかってゆく。誰もいない、奥多摩駅のホーム。わたしは意味もなく携帯をとりだし、それから、青いベンチに腰をおろした。


 最悪、どうしよう。改札を出てひとり夜道を歩きながら、会社にもどるか、それとも社員寮に住む後輩を訪ねるか、すこし考えてみた。まあ、いずれにしても、まずはこの空腹をどうにかしないと。腹ごしらえという間の抜けた考えに改めて思い至り、とりあえずコンビニへ向かい、それから近くの公園で食事をとることにした。


 パンプスを脱ぎすて、レジ袋からだした飲食物をひとつひとつ丁寧に石造のベンチにならべてみると、その光景は、ちょっとした宴会であるかのようで、じっと見つめていると感動とも興奮ともつかない思いに包まれるのだった。これは、これでいいかも。わたしは缶チューハイを高々と掲げ、広大な夜空にむかって、「乾杯」と独りごちた。


 誰かいる―。サンドイッチを食べ終え、ちょうど四本目の缶チューハイに手をかけたとき、視界に人影がはいった。こんな時間に、こんな場所で、ひとりで一体何をしているのかしら……。その男の人は、まるで羽をやすめる鳥のように静かにひっそりベンチにすわっている。何してんだろ。頭の中でたくさんの空想が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。


 よしっ。わたしは、遊具を隔てた斜向いのベンチまでてくてく歩き、青年の横顔にたけのこの里を勢いよくさし出した。どうぞ、と言うと、青年は一拍おいてから起伏のない声で、どうも、と答えてくれた。となりいい、ときくと、青年は軽く首を垂れて一礼してから、はい、と返事をして恐縮のていをあらわす。わたしは、真っ赤な一等星アンタレスを見あげながらぐいぐい酒を飲み、それから誰にともなく、「いい夜だね」とつぶやいた。


 これといった目的もなく、心地よい夏の夜風に吹かれながら、過ぎゆく時間をふたりで眺めた。ときおり、視線がぶつかり沈黙が流れる場面もあったけれど、それはそれで素敵なことだと思うし、なにより、すっかり酩酊した独身女の小言にいちいち反応し、そうですね、わかります、と共感の意を示してうなずいてくれる彼の小さな優しさが、なぜかしら、心の琴線にふれ、名づけようのない暖かな心持ちになるのだった。


 少しずつ星の数も減り、夜空が微かに色を薄め、朝をむかえる準備をはじめている。ああ、やだね。いい夜が終わっちゃう。わたしが言うと、彼はすっと立ちあがり、薄く笑ってから、明日もあるじゃないですか、と噛みしめるように言葉をつむぎ、手をさしだしてくれた。わたしは、彼の櫛目のはいった黒髪を数秒見つめてから、そうですねえ、と返事をし、彼の手のひらに体重を預けて立ちあがった。もうすぐ、夜があける……。



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