私の目の前に犬が居るように見えます。
大変お待たせしました。
三崎編第二部です。叶歌ととうたんの組手の様子を三崎視点で書いています。
では、どぞ。
目の前で後輩の拳を受け流す叶ちゃんは、顔に汗すら掻かずにうっすら笑みを浮かべている。逆に後輩は振りかざした拳を悉く弾かれて、唇を歪めていた。
「やるじゃん、とうたん」
不敵に笑った叶ちゃん。それを見て後輩は焦った声を出した。
「まだまだ、負けませんよっ!!」
私は太田さんと一緒に、道場の隅で二人を観戦していた。
多良木部長がパイプ椅子を用意してくれたので、そこで仲良く座っている。
隣の太田さんは鼻息を荒くしながら、何やらメモを書いていて、空手部員は叶ちゃんと後輩を囲むように円になって様子を窺っている。大男が揃いも揃って野次を飛ばしている様は、見ていて気分が悪いけれど、叶ちゃんの応援をしているので、大目に見てあげるわ。
「やっぱり佐々君は強いなぁ~」
隣に立つ多良木部長の言葉に私は顔を上げた。
「あの一年生、それ程強いのですか?」
私の問いに多良木部長は、何度も頷いた。
「うちの空手部、正直弱小だからね、木瀬ちゃんと戦ったら三合ぐらいで終わっちゃうよ。きちんと戦えてるだけでも、かなり有望だね」
「そうですか」
聞いといてなんだけど、別に興味は無いわね。叶ちゃんがカッコイイってのが見れれば良いんだし。でも、叶ちゃんは楽しそうに組手をやってるから、このむさ苦しい空間も我慢するわ。
「叶歌さん、攻めて来ないんですか?」
後輩の挑発じみた発言に、私は眉を歪めた。叶ちゃんはというと、舌を舐め口の端を上げて目をキラキラと輝かせている。
「それじゃあ、お言葉に甘えてっとっ!」
「くっ」
叶ちゃんの回し蹴りを後輩は左腕で受け止める。叶ちゃんは振り上げた右足を僅かに引くと、そのまま角度を下に修正して蹴りを入れる。
「なっ、下段?!」
脛を振り抜かれた後輩は体制を崩し後退する。そこに叶ちゃんは畳み掛けて攻勢を与えた。
「ほら、ちゃんといなさないと、負けちゃうよとうたん」
叶ちゃんは左腕から突き出された拳を受け止めた後輩に、そう声を掛けると更に脛に向けて蹴りを入れた。
「うるせっ」
乱れた口調に焦りが見えて、叶ちゃんは足を振り上げた。下段を警戒した後輩は蹴りを受け流す為に、足を持ち上げた。片足立ちになった後輩の首裏を狙って踵が旋回する。
ぐるんと、後輩の身体が床へ巻き込まれていくのを、私は静かに見守った。
「ああっ?!」
ぽかんとした声を上げて後輩は床に転がった。急に視界が百八十度変わったから、目を回しているのね。しきりに瞬きを繰り返しているわ。
「まあまあ楽しかったよ、とうたん」
後輩を見下ろした叶ちゃんの額にはうっすら汗が滲んでいた。珍しい事ね。叶ちゃんが息を乱すなんて。
「あ~、負けちゃったか」
多良木部長がそう嘆きながら叶ちゃんの方へ近付いた。叶ちゃんは道着をさっさと脱いで部長に押しつけていた。
「まあ、地方大会には問題無いよ。部長が頑張って練習台になってあげれば?」
「うん、そのつもりだよ~」
何であの人ちょっと嬉しそうなんだろう……。周りの部員も後輩を羨ましそうにしながらも、うっとりしてるし。
私が思いっきり引いていると、隣の太田さんが『くふっ』と笑い声を洩らした。
「空手部は、殴られ慣れてMになっちゃった人ばっかの集まりなんだよ。まあそれも、叶歌ちゃんが部長のドMを発症させちゃったからなんだけどね」
「……まともな人は居ないの?」
私の渋い顔に太田さんは小首を傾げて唸ると、苦笑を漏らした。
「う~ん、あの後輩君はまともだと思うけど」
「けど?」
渋る声に私は怪訝な顔をする。
「ほら」
太田さんが指さした先には、叶ちゃんに腕を取られて起こされた後輩が、他の部員と同じ様な気色悪い顔をしているところだった。
「叶歌さん……やっぱり強いな。想像以上です」
「キミも中々だったよ。久々に汗掻いちゃった」
キラキラと羨望の瞳で見上げる後輩の頬は上気していた。
気持ち悪っ……。どこの恋する乙女よ。私の叶ちゃんを変な目で見ないで欲しいわ。
思わず歯ぎしりした私の無表情を見て、太田さんは間延びした声を掛けてきた。
「大丈夫だよー。変態さん達だけどそんなに害は無いから」
そんな事言っても、叶ちゃんに変な感情を押しつけて来る男共を見過ごせる訳ないでしょう。あの、後輩だって、ほら。『叶歌さん叶歌さん』って子犬みたいに懐いちゃってるし。
折角一緒の学校になれたのに、他事で叶ちゃんを奪われてたまるもんですかっ!!
私は立ち上がると、控え目に声を掛けた。
「叶ちゃん、まだ部活続ける? 私、寮の部屋片付けなくちゃならないから、そろそろお暇するね」
「三崎あ、待って。一緒に帰ろ! 校門までだけど」
焦った声で私に駆け寄る叶ちゃん。ふふ、他の奴らなんて放っておけば良いのよ?
「嬉しいけど、いいの? 練習時間まだあるでしょう?」
「いいのっ。部長の約束は果たしたし、私幽霊部員だもん」
鞄を肩に掛け直した叶ちゃんの髪を、私はそっと手櫛で整える。
「じゃあ、帰りましょう」
可愛い叶ちゃんは、私のもの。ましてや男に独占させたりはしない。
恨めしげにこちらを眺める後輩に、私は視線も送らず背を向けた。隣で太田さんと叶ちゃんが漫才みたいな会話をしているのを微笑ましげに見つめながら、私は笑みを深くしたのだった。