第6話「苦悩」
二通目のメールで事態は急変した。
「怪我人?」
捜査第一課長の電話に、麻生管理官の声が高くなった。SITの制服に着替えて来たばかりの早見と視線が絡み合う。
早見は愕然としていた。彼が聞いた荒い息づかいは、怪我をした被害者のものだった可能性が高くなった。被害者が自由に動き回れるはずはないという思い込みから、誤った判断をしていたようだ。それが直ちにどうにかなるというものではなかったが、彼の落ち度ではあった。
「もう一度、確かめさせてください!」
待てと言う麻生を振り切り、早見は現地対策本部の出口に向かった。
「よう、早見。なに、慌ててんだよ」
腹の出た中年が早見の行く手を遮った。白髪交じりの髪がきっちりと固められていた。
「係長。これから、もう一度、現場に行って参ります」
「行くのはいいけどよ」
がははと笑いながら、三笠係長は立ち塞がった。
「今更、何を調べるって言うんだ。そんな時間はねえんじゃねえかな」
軽く肩を叩いて、押し戻した。早見は虚を突かれてよろめいた。
「突入準備」
電話を終えた麻生は、鋭く言い放った。
周りにいた人間が駆け回り始めた。それぞれが電話の受話器を取り、無線機のマイクを口元に寄せた。
「マスコミにはまだ嗅ぎつけられていないな。報道規制の準備をしておけ」
麻生から強い気迫が感じられた。先ほどまでの疲れた様子は吹き飛んでいた。警視庁本部と連絡を取っていた伊集院が頷いて、麻生の指示を伝達した。
「管理官。我々は現場へ向かいますよ」
三笠に頼むと言い、麻生は墨田署長とマンション付近の閉鎖について話をし始めた。
「おい、しゃんとしろ!」
三笠は、動揺から立ち直っていない早見の尻を叩いた。
「はい!」
早見は三笠の後を追った。
「突入準備だ。資機材車は先に行け」
『了解』
三笠は携帯無線機で、警察署の裏手で待機していた第一陣の隊員たちに指示を出した。
「シゲ」
『はい!』
無線機から短い返事があった。
「二陣を待てない。お前と早見は表から行くぞ」
『わかりました!』
シゲこと重森は三十近くだったが、SITでは新人だった。今年、機動隊から引き抜いてきたばかりだった。三笠から見れば息子と同じような年齢だ。
総じて、SIT隊員は年齢的にベテランが多い。重森や早見のような二十代は数人しかいなかった。
「早見」
今度は無線ではなく、後ろからついてくる早見に向けて言う。
「はい」
気合いを入れ直した早見は、目つきが変わっていた。任務から外されなかった。それは汚名返上のチャンスなのだ。
「どんな些細なことでも拾え。思い込むな。思い込んだら、人質は、死ぬ」
はっとした。
チャンスを与えられたなどと、意気込むどころではなかった。ミスをしたらどうなるか。人質と、犯人を取り違えたら、どうなる。救うはずの人間を捕らえ、拘束するはずの犯人を野放しにしてしまったら。
自分の耳が、人の運命を左右することにあらためて気づいた。手のひらがじっとりと汗ばんでいた。嫌な汗を拭うこともできず、早見は押し黙った。
悩め。
三笠は心の中で呟いた。
悩んでも死にはしない。
二人は口を閉ざしたまま、エレベータに乗った。
現地対策本部の入口には、誰が作ったのか、「墨田マンション立てこもり事件」と書かれた紙が貼られていた。