第5話「虜囚」
英二は玄関のドアから顔を離した。外の様子を窺うのは、三度目だった。
彼の顔は熱を帯びていた。男に蹴られた部分が痛かった。口の中にできた傷からは、血が流れていた。舌が嫌な味を知覚し続ける。
「今も、静か、だ」
うまく喋れなかった。何本かの歯がなくなっていた。下を見ると、廊下の赤い水溜まりに白い欠片が落ちていた。
「そうか」
男は携帯をいじりながら頷いた。下を向いたまま、英二に顔を向けていない。
今なら、殴り倒せる。
そう思わせる素振りだった。英二は足の裏に力を込めた。
いつの間にか、男が目をあげていた。
身体が動かなくなった。
見透かしたような視線が、英二の眉間に突き刺さった。ナイフをねじ込まれ続ける錯覚に陥る。頭蓋骨を割り、右脳と左脳の間をこじ開けられているような気がした。
視線が外れた。
ナイフが引かれ、傷口から脳漿が溢れ出てくる。そんな恐怖を覚えた。
足の拘束は、すでに解かれている。手首は後ろ手に縛られ、動かないが、油断していない今ならば、体当たりして寝技に持ち込めるかもしれない。
それでも、次の一歩が踏み出せなかった。
身体が脅えていた。
また、蹴られる。未来の光景が脳裏を過ぎり、動けなくなった。足を踏み出した瞬間、顔面が陥没する予想図がまざまざと浮かぶ。
「彼女と遊んでいろ」
男は、英二の葛藤を知らず、ぞんざいな扱いをした。
田原真知は発情した猫のように喘いでいた。
「英二」
彼女の両手も拘束されていた。英二と異なるのは、ドアノブに縛り付けられていることだった。
真知は全裸だった。むき出しの乳房の先が立っている。肌はうっすらと赤みを帯びており、英二が意識を取り戻してから、かれこれ一時間以上、同じような状態だった。
「また、ちょうだい」
恋人の姿に、英二は心の中で拒みつつも、男の部分は反応していた。ついさっき、彼女の身体の中に精を放ったばかりだというのに、再び力を取り戻していた。
「もうやめろ」
顔面の痛みよりも、彼女の振る舞いに痛みを覚えた。それとは別に、興奮を隠しきれない自分に嫌悪感を抱いた。
「きてよ」
悪魔の囁きだった。恋人のあられもない姿を、見知らぬ男がすぐ近くにいる。その男に恐怖と反感を感じながらも、逃げられない自分がいた。
英二は吸い寄せられるように、真知に近寄った。自分の血溜まりを踏みしめて、彼女の前に自分自身を差し出していた。ズボンの隙間からこぼれたものを、彼女は舌を出して含み入れた。
男は恋人たちの逢瀬の傍らで、二通目のメールを送信した。
刃物を持ってる。彼が怪我をした
携帯を置いてから、指を覆っていたパラフィルムを剥がした。指紋の凹凸を消す極薄のコーティングだった。携帯にもドアノブにも、彼の指紋は残っていない。
最後のメールを送った。あとは待つだけだった。いずれ出てくるであろう警視庁SITの精鋭を待つ。
それが彼の目的だった。
膝を震わしてしゃがみこんだ英二の下で、真知は体液にまみれていた。喉の奥にこびりついたものを咳き込みながら吐き出し、恋人に脚を絡め始めた。
英二は頭がおかしくなりそうだった。この異常な状態に、長くは耐えられそうもない。
涙が出てきた。逃げてしまいたかった。だが、真知を置いてはいけなかった。




