第3話「雑音」
マンションのドアに表札はなかった。
早見優悟は階段の下から観察した。
茶色のペンキはくすんでいる。ドアの端にはほこりが付着していた。隙間から漏れ出る空気が、変色したほこりを揺らしていた。こびりついているようにも見えた。掃除が行き届いていないようだ。
住人は家に帰って来ることが少ないのか、あるいは多忙なのか。これほど目立った汚れを、放置しておくことは考えにくかった。
早見は手が汚れていることに気づいた。砂粒と一緒に土を落とす。湿り気を帯びた土は、子供の運動靴からこぼれ落ちたものだろう。眉間に皺を寄せて、何かで拭えないか見回したが、自分の任務を思い出して諦めた。
コンクリートマイクを握った。彼の位置よりも下方に待機する警察官に手で合図を送り、単独で階段を上りきった。
靴底と廊下の面をゆっくりと密着させ、音を立てないように目的のドアに近づいた。
コンクリートマイクをドアに添える。煙草の箱よりもスリムな装置だ。そこから伸びるイヤホンを耳に当て目を閉じた。
危険なことだと思いはしても、音を聞くときの癖は直らなかった。目からの情報を遮断することで、聴覚を最大限に研ぎ澄ます。耳で見ているような気になる。
三人。
ドアを通した空気の振動が鼓膜を震わせた。規則正しくも、リズムの異なる呼吸音が判断の材料だ。
歩き回る人間が一人いる。フローリングの床の軋みから、体重は八十キロ程度の男と推定した。身長は百八十センチ前後。歩幅から脚の長さを割り出しての逆算だ。
残りの二人のうち、一人は女性だ。時折聞こえるくぐもった咳の音階が、高音域に由来していた。猿轡をされているようだが、性別は間違いない。マンションの管理人から聴取した情報で、この部屋の住人である二十三才の女だと判断した。
残りの一人はわからなかった。動きがないところを「見る」と、別の人質かもしれない。だが、歩き回る犯人の落ち着いた相棒という線も捨てきれなかった。
早見はそっとドアから離れた。警察官たちに下がれと合図する。自分も音を立てずに後退した。
男がドアに近づいてくる音を聞いた。外の様子を窺おうというのだろう。
ドアノブは回らず、向こう側の呼吸が激しく何度もぶつかっていた。
見ている。静かな外界の変化を逃すまいと、注意を払っている。その音は早見の耳だけが捉えていた。
待機する下り階段は、ドアからは目で見えない位置だ。しかし、早見には「見る」ことができる。
コンクリートマイクを通路にあてた。
一人の警察官が早見を怪訝そうに見た。聞こえるはずがないと、その目が言っていた。数メートルの距離を置き、ドア越しでもない。空気の振動など伝わってくるはずがない。それが彼の常識だ。
早見は黙殺した。
そばだてる。まだ、遠い。
澄ます。あと、少し。
拾った。
ドアを震わせた音が、廊下を伝い、かすかな振動となっていた。
それを世界から盗み取る。
唾を飲み込む音。
荒い鼻息。
遠ざかる足音。
そこまでだった。
警察官の呼吸音がうるさい。緊張に耐えきれなかった男たちの雑音が邪魔をした。
加えて、早見自身の息も長くは続かなかった。聞くことに集中するとき、自分の呼吸は止めてしまう。
脳に空気が行き渡らなくなることで、酸素を求めた心臓の鼓動が強くなる。それもまた、雑音だった。
心臓を止めることができれば、もっと聞くことができる。
早見は真剣にそう思っていた。
音が遠ざかったことで、早見は一息ついた。汗が噴き出てきた。拭うと、手のひらの土の汚れが広がった。うんざりとした表情で、手を洗いたいと思った。
その前に、探り得た情報を急ごしらえの現地本部に伝えなくてはならなかった。