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P  作者: あると
2/11

第2話「唾液」

吉田英二の手首は赤かった。ナイロン製の縄を力任せに引っ張る。

「引きちぎるなんて無理だから」

男の軽い口調に苛立つ。無理と言われても諦めたくはない。皮膚がこすれてうっすらと血が滲んできた。

「頑張るね」

男は感心して英二の顔を見下ろした。英二はちらりとその横を見る。

田原真知は全裸に近い格好で壁にもたれていた。目は開いている。だが、うつろな表情だった。意識が混濁しているのかもしれない。

「彼女に何をした!」

男は口元に手を当てて、黙るように促した。

「大きな声を出すなよ。ご近所迷惑だろ」

同年代の男から諭されるようなことを言われ、英二は怒りが収まらなかった。

「答えろ!」

「黙れよ」

男がすうっと近づいた。

蹴り。

そう思った瞬間、暗闇が落ちてきた。


英二が意識を取り戻したとき、血の臭いが充満していた。生暖かい水溜まりに、突っ伏していた。

痛い。

自分の口から溢れた血液と唾液が水溜まりの正体だった。混乱した。どうしてこうなっているのかわからなかった。

「起きたか」

髪の毛を撫でられていた。いつもなら、恋人の真知がする行為だ。声の主は彼女ではなかった。

背筋が震えた。

男が覗き込んでいた。その目を見た。

笑っていた。

「大人しくしていろ」

得体の知れない人間だった。初めて見る顔だ。何故、男が彼女の部屋にいるのかわからない。

いや、違う。男を部屋に入れたのは、自分だ。

真知の部屋に向かう途中、この男に声をかけられた。振り向いた時、腹に重い何かを感じた。今も、みぞおちのあたりが痛んでいる。蹴りで、気絶させられたのだ。そして、自分を囮として、彼女の部屋に侵入した。

情けなかった。

学生時代はずっと柔道をやっていた。社会人になって数年、すっかり遠ざかっていた。肉体の緩みが、精神の緩みに繋がっていたのかもしれない。昔はどんなときでも緊張感を持っていた気がする。危険を回避する気構えのようなものが常にあった。それが失われていたのだと知った。

男は、大人しくなった英二に背を向け、リビングのほうに歩いていった。棚の上に置かれたピンク色の携帯を見つけた。迷わず開き、メールボタンを押す。慣れた手つきで、一通のメールを作成し、送信した。

英二は男の動きを目で追いつつも、何もできなかった。痛みが頭を麻痺させていた。顎の骨が折れているようだった。口の中から何本かの歯が血の海にこぼれていた。

「さてと」

英二は体を震わせた。男の目が自分を見ていた。

近づいてきた。

靴下を履いた足は音を立てない。普通に歩いているようで、無音だった。柔道の摺り足とはまったく違った。

「まだ少し時間がある。彼女と楽しみなよ」

男が真知の口に指を入れた。彼女はぼんやりとしたまま、指をしゃぶり始めた。すぐに、涎が垂れ始め、喘ぎが聞こえてきた。

「この女、相当淫乱だな。薬もいらなかったか」

淫靡な舌の動きが、英二を招くように躍った。


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