第2話「唾液」
吉田英二の手首は赤かった。ナイロン製の縄を力任せに引っ張る。
「引きちぎるなんて無理だから」
男の軽い口調に苛立つ。無理と言われても諦めたくはない。皮膚がこすれてうっすらと血が滲んできた。
「頑張るね」
男は感心して英二の顔を見下ろした。英二はちらりとその横を見る。
田原真知は全裸に近い格好で壁にもたれていた。目は開いている。だが、うつろな表情だった。意識が混濁しているのかもしれない。
「彼女に何をした!」
男は口元に手を当てて、黙るように促した。
「大きな声を出すなよ。ご近所迷惑だろ」
同年代の男から諭されるようなことを言われ、英二は怒りが収まらなかった。
「答えろ!」
「黙れよ」
男がすうっと近づいた。
蹴り。
そう思った瞬間、暗闇が落ちてきた。
英二が意識を取り戻したとき、血の臭いが充満していた。生暖かい水溜まりに、突っ伏していた。
痛い。
自分の口から溢れた血液と唾液が水溜まりの正体だった。混乱した。どうしてこうなっているのかわからなかった。
「起きたか」
髪の毛を撫でられていた。いつもなら、恋人の真知がする行為だ。声の主は彼女ではなかった。
背筋が震えた。
男が覗き込んでいた。その目を見た。
笑っていた。
「大人しくしていろ」
得体の知れない人間だった。初めて見る顔だ。何故、男が彼女の部屋にいるのかわからない。
いや、違う。男を部屋に入れたのは、自分だ。
真知の部屋に向かう途中、この男に声をかけられた。振り向いた時、腹に重い何かを感じた。今も、みぞおちのあたりが痛んでいる。蹴りで、気絶させられたのだ。そして、自分を囮として、彼女の部屋に侵入した。
情けなかった。
学生時代はずっと柔道をやっていた。社会人になって数年、すっかり遠ざかっていた。肉体の緩みが、精神の緩みに繋がっていたのかもしれない。昔はどんなときでも緊張感を持っていた気がする。危険を回避する気構えのようなものが常にあった。それが失われていたのだと知った。
男は、大人しくなった英二に背を向け、リビングのほうに歩いていった。棚の上に置かれたピンク色の携帯を見つけた。迷わず開き、メールボタンを押す。慣れた手つきで、一通のメールを作成し、送信した。
英二は男の動きを目で追いつつも、何もできなかった。痛みが頭を麻痺させていた。顎の骨が折れているようだった。口の中から何本かの歯が血の海にこぼれていた。
「さてと」
英二は体を震わせた。男の目が自分を見ていた。
近づいてきた。
靴下を履いた足は音を立てない。普通に歩いているようで、無音だった。柔道の摺り足とはまったく違った。
「まだ少し時間がある。彼女と楽しみなよ」
男が真知の口に指を入れた。彼女はぼんやりとしたまま、指をしゃぶり始めた。すぐに、涎が垂れ始め、喘ぎが聞こえてきた。
「この女、相当淫乱だな。薬もいらなかったか」
淫靡な舌の動きが、英二を招くように躍った。