寿命削りの写身使い ─ 天才の技を、俺のものにする ─
「あの日、爺さんに言われた言葉の意味が、やっとわかった気がした」
試合場の砂が、俺の頬に張り付いていた。
立てない。
足が言うことを聞かない。
背中に走る痛みは、さっき叩きつけられた地面のせいだ。
なのに──なぜか笑えた。
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俺の名前はカガリ・ルイ。
前世では工場のラインで二十七年生きて、ある朝、気づいたら死んでいた。
死因は過労だと後から聞かされた。誰に、とは言わない。死後の世界には親切な案内人がいるもので、俺は気づいたら別の赤ん坊として生まれ直していた。
生まれてみたら、剣と魔法の世界だった。
俺に与えられた魔力は──ほぼゼロだった。
この世界では魔力を持って生まれた者が武術家として道を歩める。
魔力を武技に乗せることで、ただの拳は岩を砕き、ただの蹴りは大木をなぎ倒す。
そういう力を「魔武」と呼ぶ。
俺にはそれがない。
底辺のそのまた底辺。
魔力なしで武術の道を歩もうとする者は、誰にでも笑われる。
そして十五歳の今日、俺は三軒目の道場の前で、また笑われていた。
「魔力ゼロのくせに道場の門を叩くな」
扉を閉めながら、中年の男がそう言った。
声に嫌悪はなかった。それが余計にきつかった。
拒絶というより、処理だった。ゴミを外に出すみたいな手つきで、扉が閉じた。
俺は砂を踏んで、路地裏に入った。
もう笑う気にもなれない。
前世で死ぬまで働かされた記憶がある分、理不尽にはそれなりに慣れているつもりだった。でもこれはきつかった。努力する場所さえ、与えてもらえない。
「……諦めんの?」
背後から声がした。
振り返ると、路地の壁に背をもたせかけた老人がいた。
白髪、白いひげ、よれよれの作業着。年の頃は七十か八十か。ただ目だけが妙にするどかった。若い目をしていた。
「誰ですか」
「通りすがりの爺さんだ」
老人はそれだけ言って、こちらへ向き直った。さっきまで腕を組んでいたが、今は両手を下ろしていた。まるで話しかける前から、ここに立っていた時間が長かったように見えた。
「さっきの道場の前で、お前が立ってるのを見ていた」
俺は黙っていた。
「断られて、どんな顔をするかと思ってな。泣くか、怒鳴るか、肩を落とすかと思ったら」
老人が路地の砂の上を、ゆっくりと俺のほうへ歩いてきた。
「お前、扉が閉まる寸前に、男の動作を目で追ってた。閉め方、歩き方、重心の移動。全部な。無意識だろうが、俺には見えた」
確かにそうだったかもしれない。
前世の工場でも、機械の動きを見ていると自然と「こうすれば効率が上がる」という感覚があった。どんな仕事でも、人の動きを見ていると体がうずいた。自分もやってみたい、という感覚ではなく、すでに自分の中に入ってくる感覚。
老人が俺の目の高さに顔を近づけてきた。路地の陰の中で、その目だけが光っていた。
「その目、俺は昔に一度だけ見たことがある」
一歩、退こうとして、退けなかった。
老人の目に引きずられるみたいに、足が地面に貼り付いていた。
「ついてこい」
断る理由がなかった。俺はついていった。
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老人の名前はイゼンといった。
廃屋みたいな家に住んでいて、庭には古い木製の打ち込み台があった。
ぼろぼろに割れていて、雨ざらしになっている。それでも何百回、何千回と叩かれた痕跡が、木の繊維の奥まで染み込んでいた。誰かが長い年月、ここで一人で打ち続けた証拠だった。
聞けば、三十年前の天覧武闘大会の覇者だという。
「嘘でしょう」と俺は言った。
イゼンは答えず、打ち込み台の前に立った。それから右の拳を一度だけ軽く当てた。
木の芯まで響くような音がした。乾いていて、重かった。
「嘘ついてどうする」と爺さんは打ち込み台に背を向けて言った。「あんな大会、優勝しても面倒なことしか増えなかった」
それから三ヶ月、俺はイゼンに稽古をつけてもらった。
ただし、イゼンは「教えない」と言った。
「俺はお前に手本を見せる。あとは勝手に盗め」
それがイゼンのやり方だった。
爺さんがゆっくりと技を見せる。俺はそれを目で追い、頭に焼き付け、繰り返し反復する。普通なら数ヶ月かかる型が、俺には一週間で体に入った。
足の運びを見ただけで、翌日には同じ歩法が体から出てきた。
打ち込みの角度を見ただけで、三日後には同じ軌道で拳が動いた。
イゼンが教えるのではなく、ただ見せる。それだけで体が動く。
自分でも不思議だった。まるで体が先に覚えていて、頭が後からついてくる感じだった。
ある夕方、稽古が終わって俺がへたり込んでいると、イゼンが隣に立ったまま俺を見下ろして言った。
「やっぱりそうか」
「何がですか」
「お前の能力に名前をつけるなら写身だ。見た技を身体に刻む速度が、普通の人間より数十倍速い。それがお前のたった一つの力だ」
俺は地面に手をついたまま顔を上げた。
「じゃあ俺、最強になれますか」
「なれん」
即答だった。間もなかった。
「なぜ」
「お前の器が追いつかない」
イゼンはしゃがんで、俺の右手を取った。砂だらけの手のひらを、無造作に上に向ける。
手のひらの線を確認するでもなく、ただそのまま持っていた。
「写身は、見た技を完全に再現できる。ただし、お前の身体の器を超えた技は再現できない。器とは筋力だけじゃない。反応速度、体の連動、骨格の動かし方、そのすべてを含む。上級技を無理やり使おうとすれば、器が悲鳴を上げる」
「どんな悲鳴を上げるんですか」
「寿命が削れる」
爺さんは俺の手を離して立ち上がった。俺の手がそのまま、上を向いて砂の上に残った。
「使えば使うほど、お前の命が縮む。それが写身の代償だ。器を超えた技を使うたびに、数時間から数週間、場合によっては数ヶ月単位で削れる。だから俺が見せる技には、お前の今の器で扱えるものとそうでないものがある。扱えないものは教えない。絶対に」
「でも、いつかは扱えるようになる?」
「器は鍛えれば広がる」
爺さんは庭の端に向かって歩き始めた。話は終わりだ、という背中だった。
「ただし」と、振り返らずに言った。「俺には知っている限界がある。どこまで広がるかは、お前次第だ」
俺は手のひらを見た。砂と汗で汚れていた。ゆっくりと握った。
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三ヶ月間の稽古を、一言で表すなら「観察と反復」だった。
イゼンは喋らない。
理屈を説明しない。手取り足取り教えない。ただ見せる。
見せて、俺が真似るのを待って、気に入らないところがあれば一言だけ言う。
「重心が上にある」
「腰が後ろに逃げてる」
「視線が動きより遅い」
それだけだった。
それだけで、なぜか体に入ってくる。
爺さんが「重心が上にある」と言った瞬間、自分の重心の何がおかしいかが体でわかった。頭じゃなくて体でわかる感覚は、前世の工場作業で何年もかけて身についたものに似ていた。
一ヶ月が経つころ、稽古の合間に俺はイゼンの隣に座った。
爺さんは打ち込み台の前の丸太に腰かけて、水を飲んでいた。
「爺さん、昔弟子がいたんですか」
イゼンは水を飲む手を止めなかった。
一口、また一口飲んで、椀を膝の上に置いた。
それから打ち込み台のほうに目を向けた。俺のほうは見なかった。
「いた」
「何人ですか」
「一人だ」
「今はどこにいるんですか」
しばらく、何も言わなかった。
庭の端で草が揺れた。風の音だけがした。
イゼンが立ち上がって、打ち込み台の前に戻った。
稽古を再開するみたいに構えを取って、でも打たなかった。
ただ台の木目をじっと見ていた。
俺はその背中を見て、もうこれ以上聞かないほうがいいと思った。
代わりに立ち上がって、隣に並んで構えを取った。
その夜、廃屋の薄い壁越しに、爺さんが庭の打ち込み台を叩く音が聞こえた。
何度も、何度も、リズムを刻むように続いた。明け方近くまで続いた。
俺は眠れなかった。眠ろうとも思わなかった。
翌朝、イゼンはいつも通り無口だった。
俺もいつも通り無口でいた。
二ヶ月が経つころ、俺はイゼンの使う技の名前を覚え始めた。
フミコミ、ウチマワシ、ナナメウラ。
教えてもらったわけじゃない。見ているうちに、それぞれの動きに自分で名前をつけた。そうしたほうが体に入りやすかった。
ある日、俺がナナメウラを試したとき、イゼンが初めて「そうだ」と言った。
思わず俺の顔が緩んだのを、爺さんに見られた。
「気持ち悪い顔をするな」
「褒められたら嬉しいんで」
「褒めてない。確認しただけだ」
「どう違うんですか」
イゼンは答えなかった。でも次の手本を見せるとき、いつもより一テンポゆっくりだった気がした。気のせいかもしれない。
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夕暮れの稽古の終わり、俺が打ち込み台に背をつけて息を整えていると、爺さんが向かいの丸太に腰を下ろして、空を見上げた。
「お前は天覧大会に出たいか」
突然だった。空を見たまま言うから、俺に聞いているのかどうかも一瞬わからなかった。
「出たいです」
「なぜ」
「最強の人と戦ってみたいから」
「勝ちたいからじゃないのか」
俺は打ち込み台の表面を手で触った。木が割れた縁が、掌に引っかかった。
「勝ちたいとも思います。でも今は、勝てるか勝てないかよりも、戦ってみないと自分の限界がどこかわからない」
イゼンが空から目を下ろして、俺を見た。
黙って見ていた。何かを確かめるみたいに、少し長かった。
「死ぬほど働かされて、前世を終わらせた奴の言葉とは思えんな」
「だから今世は自分の限界まで使い切りたいんだと思います。使い切って、それで削れるなら仕方ない」
「写身の代償は怖くないのか」
「怖いです」
俺は正直に言った。
「でも、使わずに死ぬほうが怖い」
イゼンは丸太から立ち上がって、打ち込み台の正面に立った。
俺は邪魔にならないように横にずれた。
爺さんは台を三回、軽く叩いた。確認するみたいな、短い音だった。
「俺の判断では、まだ早い」と、台を見たまま言った。「だがお前が言ったことを聞いて、考えを変えた」
「どういう意味ですか」
爺さんが振り返った。
「今から上段からの連撃を防ぐ体さばきを見せる。使わずに死ぬほうが怖い、と言える奴には、代償の意味がわかる。だから見せる。ただし」
俺の目を真っすぐ見て言った。
「無闇に使うな。使うなら、勝てると判断した場面だけにしろ。命を賭けるなら、賭ける価値のある瞬間を選べ」
俺は黙ってうなずいた。
その言葉が、三ヶ月後の試合場で、俺の体の底に根っこを張っていた。
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天覧武闘大会の予選は、各地の道場が推薦した選手による試合形式で行われる。
俺には道場の推薦なんてない。
それでも出る方法が一つだけあった。野試合推薦という制度だ。
公認の試合場で三連勝すれば、どんな身分の者でも本戦への出場権を得られる。
制度としては存在するが、利用者はほとんどいない。魔力なしで三連勝できるような人間が、そもそも存在しないからだ。
「出ます」
夜の稽古のあと、俺は爺さんの背中に言った。イゼンは水を飲んでいた。
少し間があった。
椀を置く音がした。それだけだった。
「そうか」
止めなかった。
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試合当日、俺は朝から試合場の近くをうろついた。
会場は王都の中心にある公認試合場だった。石を積み上げた壁に囲まれた、砂敷きの円形の場所だ。柵の外には見物席があって、朝からそれなりに人が集まっていた。
イゼンは来ない、と言っていた。
「見に行くような試合じゃない」と言った。
だから俺は一人で来た。
受付で名を告げると、係の男に一瞬だけ変な顔をされた。
「魔力なし、か」と確認され、「そうです」と答えたら、「ご自由に」とだけ言われた。
同情か、無関心か、どちらとも取れる顔だった。
控え室に入ると、他の選手たちがいた。
みんな一目で武術家とわかる体つきをしていた。
俺だけが細く、頼りなく、浮いていた。
隣に座った男が肘で俺の腕をつついて言った。
「お前、魔力なしで来たのか」
「はい」
「自殺志願者か」
「違います」
男は俺の体を上から下まで見て、少しだけ首をかしげた。それから「まあ頑張れ」と言って、自分の拳の包帯を巻き直し始めた。
それなりに勇気のある言葉だと思った。
試合前の待機中、俺はずっとイゼンの技を頭の中で反復していた。
三ヶ月間、毎日見続けた動きを、目を閉じたまま体の中でなぞる。
フミコミの一歩。ウチマワシの軌道。ナナメウラの体の沈め方。
全部、体に刻まれていた。
それでも怖かった。
前世でも今世でも、俺は舞台の上に立つような経験がない。
工場のラインは毎日同じ動きをしていればよかった。失敗しても、また同じ動きをすればよかった。でも試合は、失敗したら終わりだ。
「緊張してるか」
顔を上げると、イゼンが隣に立っていた。
腕を組んで、前を向いたまま、誰かに言うわけでもない感じで言った。
「来たんですか」
「来ないとは言ってない」と爺さんは前を向いたまま言った。「見に行くような試合じゃないと言った。だが来た」
「どういう意味ですか」
「お前の試合は見に行くもんじゃない。立ち会いに来るもんだ」
そのまま腕を組んで、黙った。
俺は少し笑った。笑ったら、少し怖くなくなった。
「始めます」
「ああ」
立ち上がって、俺は試合場に向かった。
歩き出してから振り返ると、爺さんはまだ前を向いたまま腕を組んでいた。
俺が見ているのに気づいても、何も言わなかった。
「勝ってきます」
「当たり前だ」
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一試合目と二試合目は何とかなった。
相手の動きを三分ほど観察して、型のクセを拾って、それを逆手に取る。
魔力がない分、純粋な技術と体さばきで戦うしかない。
泥臭い試合だったが、どちらも勝てた。
問題は三試合目だった。
相手の名前はシロウ・アルト。
試合場に入ってきた瞬間、空気が変わった。
観客がざわめいた。隣に立っていた見知らぬ男が「あいつが来るのか」と小声で言った。
見れば、試合場を囲む柵の外に、次々と人が集まり始めていた。みんな同じ顔をしていた。期待でも好奇心でもなく、これから何かすごいものを見る、という確信の顔だった。
十七歳。天覧武闘大会の最有力候補。
貴族の家系で、幼少期から魔武の英才教育を受けてきた。
長身で細く、整った顔に感情がない。整いすぎていて、人形みたいだと思った。
向かい合ったとき、アルトは俺を一瞬だけ見て、それから視線を試合場全体に戻した。
俺を見て、何も引っかからなかった。そういう目だった。
「魔力なし、か」
アルトがそう言った。侮蔑ではなかった。ただの確認みたいな声だった。
「ああ」
「何をしに来た」
「試合しに来た」
アルトの目が少しだけ細くなった。また俺に戻ってきた。今度は少し長かった。
「始める前に言っておく。俺はお前を怪我させるつもりはない。ただ、勝ちに行く。止まれると思ったら声をかけろ」
「ありがとう。でも止まらないから」
開始の合図が鳴った。
最初の五秒で、俺は自分の間違いを理解した。
速い。
今まで戦った相手とは次元が違う。
魔力を乗せた足さばきは、俺の目がかろうじて追えるギリギリの速度だった。最初の攻撃を避けた、と思ったら二撃目が来ていた。腹に入って、息が止まった。
吹き飛んで、砂に転がった。
立つ。
また来る。今度は上段から。体を傾けて避けた。避けたはずなのに肩口をかすられた。また転がった。
立つ。
この繰り返しが、五回続いた。
観客が静かになっていた。試合というより、一方的な制圧を見ている沈黙だった。
憐れみの視線が肌に刺さる。早く終われという空気が、砂に滲んでいた。
砂の上に膝をついて、俺は息を整えた。
足が痛い。肩が痛い。口の中に血の味がした。
体の中から何かが漏れ出ていくような感覚がある。熱が、外に逃げていく感じだ。
なのに俺はアルトを見ていた。
いや、正確には違う。
俺はアルトの動きを見ていた。
五回叩き飛ばされる間、ずっと見ていた。
足の踏み込みのタイミング。重心の移動。肩の入り方。上段攻撃に入る前の、ほんの一瞬の体軸の歪み。連撃の間隔。呼吸のリズム。左足が軸のとき、右の肘がわずかに上がる癖。
全部、目に焼き付いていた。
焼き付けながら叩き飛ばされている自分が、少しおかしかった。前世の工場で、機械の異音を聞きながらラインを止めずに修理場所を特定していた頃と同じ感覚だった。
どんな状況でも体が観察を止めない。この体になって気づいたのは、それが「癖」じゃなくて、たぶん「性質」だということだ。
アルトが俺の前に立った。
さっきまでは三メートル離れて待っていたが、今は少し近かった。
「立てるか」
「立てる」
「なぜまだ戦う」
「技を全部盗んでないから」
アルトの眉が、わずかに動いた。初めての変化だった。
「面白いことを言う」
「俺の能力がそういうものなんだ。見て、刻む。だからまだ立つ」
もう一度、体に力を入れた。
その瞬間、何かが変わった。
体の奥で、扉が開くような感覚があった。
三ヶ月間、イゼンの技を反復し続けた。
そして今、試合の中でアルトの動きを五回分、目と体に焼き付けた。
それが、何かの閾値を超えた。
写身が、発動した。
アルトの踏み込みが、俺の体に入ってきた。
足先から、膝、腰、背中、肩。
流れるように連動する重心の使い方が、そのまま俺の体に降りてきた。
水が上から下に流れるみたいに、自然に、逆らいようがない感覚で入ってきた。
踏み出した一歩の速度が、さっきまでと全然違った。
アルトが目を見開いた。
俺は詰めた。アルトの得意間合いに、正面から入った。
上段に来る。わかった。体軸の歪みが見えた。
体を沈めて、潜り込んだ。アルトの腕が空を切った。
脇の下から、突きを入れた。
アルトが初めて後退した。
観客がざわめいた。誰かが息を飲む音がした。
アルトが止まって、俺を見た。今度は最初から俺だけを見ていた。さっきまで何も引っかからなかった目が、別の目になっていた。
「──それが、お前の能力か」
息が少し乱れていた。
俺は答えなかった。
体が熱い。それだけじゃない。
世界が、一瞬だけ薄くなった。
砂の色が白みがかって見えた。音が少し遠のいた。自分の輪郭が、ぼんやりとした感じがした。
また戻ってくる。でも確実にわかった。
削れた。
寿命が、削れた。
どのくらいかはわからない。数時間か、数日か。今の自分の器をわずかに超えた技を使った。その代償が、今来た。
膝が少し笑った。
「無理をするな」
声がした。
試合場の外、柵のすぐそばにイゼンが立っていた。
腕を組んで、試合を見ていた。いつの間に来たのかわからなかった。
俺の目が合うと、爺さんは何も言わなかった。ただ顎をわずかに引いた。それだけだった。
叱るわけでも、止めるわけでもなかった。ただ、見ていた。
それがなぜか、一番きつかった。
俺は前を向いた。
アルトが構え直していた。今度は本気の顔だった。さっきまでの消化試合みたいな表情が、消えていた。冷たい目が、初めて何かを見ている目になっていた。
「続けるか」
「続ける」
アルトが少しだけ体の向きを変えた。俺を正面に収める構えだった。試合の最初からこの構えを取るべきだった、と気づいた目をしていた。
「寿命が削れているだろう」
「削れてる」
「それでも」
「削れても、試合が終わったわけじゃない」
アルトが静かに息を吐いた。鼻から、細く、長く。
「そうか」
試合が、再開した。
---
残りの時間は三分だった。
アルトは今度こそ全力で来た。
魔力を乗せた連撃は、俺の写身が追いつく速度の限界を超えていた。
受け損なって、また飛ばされた。立つ。また飛ばされた。立つ。
でも今度は違った。
飛ばされるたびに、アルトの技の一部が体に入ってくる。
完全にはコピーできない。俺の器がまだ追いつかない。でも断片的に、少しずつ、動きが体に刻まれていく。
砂を噛んで、砂の味と血の味が混ざって、それでも立ち上がるたびに、俺はアルトに少しだけ近づいていた。
脳が痺れていた。体の末端から感覚が遠のいていく。一歩踏み出すたびに世界の輪郭がぼやける。それでも体は動いた。動かせた。
三度目に立ち上がったとき、俺はアルトの攻撃の起点を読んでいた。
避けた。
完全に避けた。
アルトが一瞬、止まった。
砂の上に二人だけが立っていた。観客の声が遠かった。
「……本当に、見えているのか」
「見えてきた」
アルトの顔に、何かが走った。怒りでも驚きでもなかった。もっと静かな何かで、名前をつけるなら、たぶん「本気」だった。
「器を超えた技を使い続けている。寿命がどこまで削れているかわかっているか」
「わかってない。でも」
俺はアルトを見た。
「諦めたわけじゃないだろ──って、爺さんに言われたんだ」
後ろでイゼンが小さく舌を打った気がした。
アルトが、初めて笑った。一瞬だけ、口の端が上がった。すぐ消えたが、確かにあった。
「面白い奴だ」
そして試合終了の合図が鳴った。
判定はアルトの優位だった。
俺は勝てなかった。
三連勝はできなかった。天覧大会の予選は突破できなかった。
でも俺はアルトの動きの三割を体に刻んでいた。
砂の上に座ったまま、俺は空を見上げた。夕方の空が、橙と紫の境目を作っていた。
体のどこかが、さっきより少しだけ軽かった。疲れているのに、妙にすっきりしていた。
前世で毎晩感じた、出口のない重さが、ない。
---
試合場の砂の上に座ったまま、しばらく動けなかった。
足に命令を出す気力が追いついていなかった。
口の中に砂と血が混ざっていた。飲み込むとざらざらした。
観客は静かだった。
よくわからないものを見せられた、という沈黙だったと思う。
魔力ゼロの少年が、最強の天才候補に五回叩き飛ばされながら立ち続けて、最後には一撃を当てた。
勝ったわけじゃない。判定はアルトの圧勝に近い。でも、何かが起きた試合だった。
砂を踏む足音がして、イゼンが砂の上に来ていた。
爺さんは俺の前に立って、下を見た。それから無言でしゃがんで、俺の脇に手を差し入れた。
引き上げる力が来る前に、俺は自分で立った。半分くらいは自分で立った。
「寿命は」
イゼンが聞いた。俺の体をざっと確認しながらだった。肩、腕、足を順番に見た。
「一週間くらい」
「痛みは」
「全部痛い」
爺さんが俺の肩口を指で押した。確認するみたいに、軽く。俺が顔をしかめると、爺さんは黙って頷いた。
「歩けるか」
「歩けます」
「ならいい」
それだけ言って、爺さんは立ち上がった。
俺の横に並んで、試合場の出口のほうを向いた。
俺は周りを見た。観客がちらちらとこちらを見ていた。何人かは興味深そうな顔をしていた。ある老人が「たいした根性だ」と隣の人に言っていた。
嬉しいのか悲しいのか、よくわからなかった。
勝てなかった事実は変わらない。天覧大会の予選も突破できなかった。
でも、なぜか晴れていた。
体の中が、軽かった。
前世で工場を出るとき、毎晩こんな感じだったらよかったのに、と思った。
疲れて、体が痛くて、それでも「今日は全力を出した」という感覚がある夜。
そういう夜を、俺は一度も経験しないまま死んだ。
今日初めて、その感覚を知った。
---
試合場を出るとき、アルトがいた。
柵の外の通路で、腕を組んで壁にもたれていた。
俺が近づくと、壁から離れて数歩こちらへ来た。
「次、本番で当たるかもしれないな」
「当たる」
アルトが少しだけ顎を引いた。肯定か確認か、わからなかった。
「そのとき、全部コピーしてみろ」
「する」
アルトは踵を返した。その背中が人混みに消えていくのを、俺はしばらく見ていた。
---
帰り道、俺とイゼンは並んで歩いた。
夜が来ていた。王都の大通りに灯りが並んで、砂埃の中に橙の光が滲んでいた。
俺の体はあちこちが痛かった。肩、脇腹、背中、膝。
寿命も削れた。頭がまだ少しぼやけていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
足音と、遠くの人の声と、灯りのはぜる音だけがあった。
角を一つ曲がって、人が少なくなったところで、俺はイゼンの横顔を見た。
爺さんはまっすぐ前を向いていた。しかめっ面は相変わらずだったが、目が、路地裏で初めて会ったときと同じ目をしていた。若い目だった。
「爺さん」
「何だ」
「俺、今日初めて写身を実戦で使いました」
爺さんは答えなかった。一歩、また一歩、歩き続けた。
前を向いたまま、ぽつりと言った。
「見てた」
「どうでしたか」
石畳の継ぎ目を一つ越えて、また一つ越えてから、爺さんは言った。
「悪くなかった」
「それだけですか」
「三割入った」
また少し間があった。灯りの一つが、風に揺れた。
「合格点だ」
俺はそれを、歩きながら噛み締めた。
合格点。
三十年前の覇者が、三割と言った。
「アルトの技、残り七割を入れたら、勝てますか」
「確率が上がる」
「確率ですか」
「武術に保証はない。ただ、高みに登る道筋はある」
爺さんが少し立ち止まった。俺も合わせて止まった。
イゼンは空を見上げた。夜空に星が出始めていた。
「お前は今日、寿命を削った。でも死ななかった」
俺も空を見た。
「それを覚えておけ」
「どういう意味ですか」
「代償を払っても、払いきりじゃない。払った上で、先がある」
爺さんが歩き始めた。俺もついた。
「それがわかったか、わからなかったかで、これからが変わる」
「わかりました」
「嘘をつくな」
即座に言われた。
「今はわかっていない。半年後にわかる」
「なんでわかるんですか」
爺さんは少し黙った。石畳を三歩踏んで、言った。
「俺も同じだったからだ」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
廃屋に戻るまでの間、俺は今日使った技を頭の中で反復し続けた。
三割が体に入ったなら、残りの七割を入れる時間が必要だった。
半年ある。天覧大会の本番まで、半年ある。
試合場でアルトを見て思ったことがある。
あの目で、あの強さで、それでもアルトは「面白い奴だ」と言った。
勝利にしか興味がないはずのやつが、俺に対して本気の顔をした。
なぜ今まで本気になれなかったのか。
なぜ俺に対して、初めて本気になったのか。
それを知るには、もう一度戦うしかない。
「爺さん」
「まだ何かあるか」
爺さんは前を向いたまま言った。声に面倒くさいという気配はなかった。
「明日から稽古の量、増やしてもいいですか」
爺さんが少しだけ俺を見た。一瞬だったが、見た。
「増やせるかどうかはお前の体次第だ。ただ」
「ただ?」
「器を広げるのに近道はない。毎日、前の日より一ミリだけ広げることを積み重ねる。それだけだ」
「一ミリですか」
「一ミリでいい。ただし毎日だ。一日でも空けたら、一ミリ縮む」
俺は黙ってうなずいた。
廃屋の前に着いた。イゼンが扉に手をかけて、止まった。後ろは向かなかった。
扉に手をかけたまま、少しだけ間があった。
「今日、よくやった」
それだけ言って、扉を開けて中に入った。
俺はしばらく外に立っていた。
また少し笑った。
口の中に血の味がした。
足は前を向いていた。
天覧武闘大会は、半年後だ。
---
あの日、爺さんに言われた言葉の意味が、やっとわかった気がした。
冒頭の一文を、俺は歩きながら思い出した。
あれはたぶん、爺さんが俺に言ったんじゃない。
イゼンが三十年間、廃屋の中で、誰もいない庭に向かって、ぼろぼろになった打ち込み台に向かって、自分自身に言い続けてきた言葉だったんだ。
諦めたわけじゃないだろ。
俺はその言葉を、今日初めて本当の意味で受け取った。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この話、続きを書くか悩んでいます。
もし「続きが読みたい」と思っていただけたなら、ブックマーク・感想・ポイントをいただけると励みになります。
長編化した場合、ルイとアルト、そしてイゼン爺さんの三人の物語を、天覧武闘大会本番までじっくり描いていきたいと考えています。




