番外編「純白の視界と甘い微睡み」
空気がわずかに冷たさを増し、窓の隙間から差し込む朝日が私の白い被毛を黄金色に染め上げる頃、私は深い微睡みの底からゆっくりと意識を取り戻した。
目を閉じたままでも、私の鼻先にはこの世で最も安心出来る二つの匂いが色濃く漂っている。
一つは、大地の奥深くで眠る種を呼び覚まし、太陽の光を極限まで濃縮したような甘くてみずみずしい果実の匂い。
もう一つは、巨大な森の木々が放つ清々しい香りと、夜の静寂に咲く花の蜜を混ぜ合わせたような清潔で澄み切った匂い。
私を過酷な金属の罠から救い出し、この豊かな緑の楽園を与えてくれた、ミユリとカレンという二人の主の匂いだった。
私は短い前足を静かに伸ばし、背中に乗せられた心地よい重みを確認する。
私の巨大な腹の横には、二人の人間が互いの体をきつく絡め合わせるようにして、深い眠りに落ちていた。
人間という生き物は、私から見ればあまりにも小さく、毛皮も持たない脆い存在だ。
少し強い風が吹けば吹き飛ばされてしまいそうだし、鋭い爪も牙も持っていない。
しかし、この二人は違う。
彼女たちの内側には、荒れ果てた大地を一瞬にして生命の海に変え、虚空から巨大な壁を生み出すほどの途方もない力が眠っている。
そして何よりも、二人が互いに向ける愛情の深さは、私たち精霊獣の群れの絆すらも凌駕するほどに強烈で、絶対的な熱量を帯びていた。
私は彼女たちを起こさないように細心の注意を払いながら、自分の大きな頭をゆっくりと持ち上げた。
ミユリの滑らかな頬がカレンの胸元に押し付けられ、カレンの細くしなやかな腕がミユリの背中をしっかりと抱き込んでいる。
二人の呼吸は完全に同調し、吐息が交じり合うたびに、部屋の中の空気がとろけるような甘さを帯びていくのを感じた。
私はその美しい寝顔をしばらく見つめた後、静かに立ち上がり、音を立てずに木の扉を鼻先で押し開けて外へ出た。
朝の澄んだ空気が肺の奥まで入り込み、私は大きく胸を張って深呼吸をした。
視界の先には、ミユリが生み出した果てしなく続く緑の農地と、カレンが築き上げた見事な街並みが広がっている。
私が喉の奥で低く振動する音を鳴らすと、街のあちこちで休んでいた私の同族たちが次々と目を覚まし、私に挨拶を返すように同様の音を響かせてきた。
かつては荒野を当てもなく彷徨い、乾いた土を掘り返して僅かな草の根をかじっていた私たちが、今では毎日腹をすかせることもなく、安心して眠ることが出来る。
すべてはあの二人が作り出してくれた奇跡だった。
私はゆっくりとした足取りで水路のほとりまで歩き、清らかな水に顔を突っ込んで喉を潤した。
冷たい水が体の中を駆け巡り、完全に目が覚めると、背後から私を呼ぶ優しい声が聞こえてきた。
「おはよう、ポム。今日も早起きなのね」
振り返ると、そこには身支度を整えたミユリが、太陽の光を受けて輝くような笑顔を浮かべて立っていた。
私は嬉しくなって短い尻尾を振りながら彼女に近づき、その華奢な体に自分の巨大な頭を優しく擦り付けた。
ミユリは両手で私の顔を包み込み、その温かく柔らかい手のひらで私の額をゆっくりと撫でてくれる。
彼女の指先から伝わる生命の魔力が私の被毛の奥まで浸透し、全身の血の巡りが良くなっていくような極上の心地よさに包まれた。
「朝ごはんを持ってきたわ。昨日新しく実ったばかりの、一番甘い野菜よ」
ミユリが差し出した木の器には、私の頭ほどもある巨大な赤い野菜が山盛りにされていた。
私は目を輝かせて器に顔を突っ込み、大きな口を開けて野菜に噛み付いた。
薄い皮が破れる音とともに、口の中いっぱいに濃厚な甘みとみずみずしい水分が溢れ出す。
私が無我夢中で咀嚼を繰り返していると、カレンが大きな木製のブラシのような道具を手にして家から出てきた。
「ポム、ご飯が終わったら毛並みを整えてあげるわね。昨日たくさん動いたから、少し土がついているみたい」
カレンが作り出したその道具は、私の分厚い被毛の奥深くまで届き、絡まった毛を優しく解きほぐす特別な品だった。
私が食事を終えて地面に腹這いになると、カレンは私の巨大な背中に乗り、ブラシを使って一定のリズムで毛を梳き始めた。
皮膚を適度に刺激する硬い感触と、不要な毛が取り除かれて風通しが良くなる爽快感に、私は思わず喉の奥から深い唸り声を漏らしてしまった。
ミユリはその様子を見て楽しそうに笑い、カレンの隣に座って私の柔らかな耳の付け根を指先で揉みほぐし始めた。
右からはカレンの力強いブラシの感触、左からはミユリの優しい指先の温もり。
私は圧倒的な幸福感に包まれながら、完全に体の力を抜いて目を細めた。
「ポムの毛並みは本当に最高ね。いくら触っていても飽きないわ」
ミユリが私の被毛に顔を埋め、深く息を吸い込みながらつぶやく。
「ええ、ポムがいれば冬の寒さなんて全く怖くないわ。でも、私が一番触れていたいのは、ミユリの体だけどね」
カレンがブラシを持つ手を止め、ミユリの細い肩に自身の腕を回して引き寄せた。
私は片目をわずかに開けて二人の様子を伺った。
カレンの指先がミユリの頬を滑り、そのまま顎を優しく持ち上げる。
ミユリの瞳が熱を帯びて潤み、二人の顔がゆっくりと近づいて、音もなく唇が重なり合った。
彼女たちの周囲だけ、空気の温度が急激に上昇し、濃密で甘い気配が立ち込めていく。
私はその神聖で美しい光景を邪魔しないように、自身の呼吸を極限まで静かに保ち、ただその温かな光景を見守り続けた。
人間の寿命は私たち精霊獣よりもずっと短いが、この二人が紡ぎ出す愛の記憶は、きっとこの大地に永遠に刻み込まれることだろう。
私は二人の深い口付けが続く間、太陽の温もりと極上の微睡みの中に身を委ね、この奇跡のような日常がいつまでも続くことを静かに祈り続けていた。




