01 愛が分からない女
ミヌーシュ・ウィンテール侯爵令嬢の周囲は、温かく、愛に満ち溢れている。
「ミヌーシュ、今日の演目はなかなか良かったね」
「ええ、姉妹で恋人を交換するなんて、刺激の強いお話でしたが。最後には大団円というのがよろしいですわね」
木枯らしが吹く夜道を行く馬車は、歌劇場からの帰路を進んでいる。暮れ方に点灯士がともして回った街灯が王都をほの明るく照らす。冬の入り口とはいえ肌寒い空気のなか、車内では婚約者であるパトリック・モロー伯爵子息と、先ほどまで見入っていた舞台の感想を言い合う声が弾む。
ふと彼が真剣そうな顔で、
「だけど、もし僕だったら、どんなに変装していたって君だってすぐに分かるよ。君を見つけてみせる」
こう言うものだから、ミヌーシュは天藍石の目をぱちぱちと瞬かせた。
「まあ」
声を上げると、隣に座る彼の新芽の瞳は優しく和む。その視線がじっと注がれるのに、落ち着かない心地がする。
「それにしても、君は本当に恋物語が好きだよね。誰だっけ、最近読んでる本の作家、ル、ロ……」
「あら、家の者がお耳に入れましたの? ロランスですわ。シャルル・ド・ロランス」
そのことはまだパトリックに話したことがなかった気がして、ゆるりと小首を傾げた。何しろ有名ではない作家で、読み始めたのはつい二週間ほど前のことだ。
「ああ。アンヌ嬢が教えてくれたんだ。君のことは何でも知っておきたくてね。僕も読んでみたいな。読み終わったら貸してもらえるだろうか?」
「……ええ、もちろんですわ」
アンヌはミヌーシュの三つ下の妹だ。どうやら、姉と未来の義兄との橋渡しをしてくれているらしい。二人はこの冬が明けて、淡いピンクの花が咲く頃に結婚式を控えている。この国の春を告げるシュゲの花。
「ありがとう、楽しみだ。ああ、急がなくていいからね」
膝の上に置いていた手が大きな両手に包み込まれる。反射的に力を入れそうになって、そうしないほうがいいという判断が一瞬遅れてやってきた。手袋ごしなのに火傷しそうな気がして、けれどもそれは気のせいに違いないから。
「ええ」
彼女の温度の低い透明な声は、だからきっとその熱で溶けることはない。
◇
「ミヌーシュ、昨日はどうだった?」
スクランブルエッグの最後の一口を咀嚼して飲み込んだところで、母親であるウィンテール侯爵夫人が薄ピンクの瞳をきらきらとさせて問うてきた。白金の髪は朝の光に柔らかく波打っている。
ウィンテール侯爵家では、できる限り朝食を家族でともに摂る習慣だ。ミヌーシュは昨晩はさほど遅くならなかったが、私室でくつろぐ頃になっても両親は赴いた夜会からまだ帰っていなかった。二日酔いのまま昼過ぎに起きる人も珍しくないらしいのに、二人はこうして席に着く。どうやらこれが普通ではない、と気付いたのは学園に入って打ち解けた話をする友人が出来てからだった。
「ええ、素晴らしかったわ」
舞台のこととして、そう返事をする。けれども、母親はそれで流されてはくれない。
「んもう、そうじゃないわ。あなたの未来の旦那様についてよ」
「お姉様ったら。はぐらかさないで下さいませ」
カップに砂糖とミルクを入れて混ぜていた妹まで目を輝かせて、母親とそっくりの顔でにこにこしている。父親はといえば澄ましてコーヒーを口に運んでいるが、ちらちらとこちらを見ている。
ミヌーシュは、望まれている答えを予想する。結婚式を数ヶ月後に控えていながら、胸がいっぱいで指折り数えて、といった様子も見せず、普段通り淡々と過ごしていることで気を揉ませているのかもしれない。そうであるなら、ここで切なげに溜め息を漏らすなり、夢見るように微笑むなりすれば、安心させることができる。息抜きにと歌劇場の良い席を譲ってくれた父親に最大限の感謝を示すことができる。
でも、
「そうね……。わたくしのことをよく見ていてくれているんだなって思ったわ」
「あらあら」
「きゃあ!」
「ごほっ」
彼らを心配させないように、嘘を吐かない範囲のことを口にするしかなかった。未婚の二人のこと。馬車で何があったかなんて、同乗していた侍女から把握されているだろうけれど。
まだ、誰にも言ったことがない。
ミヌーシュには、愛や恋が分からない。
魚は水から出ると息ができなくて死んでしまうのだ、と知ったのはいつだっただろう。朝食室を出て居間のソファに腰を下ろし、ミヌーシュは思い返す。
あれはそう、パトリックと婚約する前のことで、この王都の屋敷で子ども部屋にいたのを母親に手を引かれて玄関ホールに迎えに出て、父親がいつもみたいに「僕の愛しい小さなお花さん」といって頬を緩めて母親に贈り物をして、けれどもそれはいつもみたいな花束や身に着けるものではなくて。
その透明な器が何なのか、よく分からず不思議に思って見上げていたら、「まあ、綺麗!」と大事そうにそれを受け取った母親が位置を低くしてくれたから、水が張ってあって魚が入っているのが分かった。そのままぱちゃぱちゃと揺らしながら帰ってきたのかな、と思ったのだ。それで父親と従僕の服を見た。濡れてはいなかった。
両手で抱えられるくらいの丸い硝子の鉢、その中の小さな淡い金色の魚。
これは遠い海から船で運んで来たもので、とても珍しくて、他にも赤や黒があったのだけれども他の何よりも君の春の日差しを編んだ髪によく似ていたからひと目で吸い寄せられて、ほらこの優雅なひれなんか、と父親が身振り手振りで言うのに、母親はうっとりと相づちを打っていた。まだ歩けないから子ども部屋で乳母が付いていた妹と同じ緩やかに波打つ白金の髪、淡いピンクの瞳。春の陽とシュゲの花の色。
妹が母親に瓜二つであるのに対して、ミヌーシュは父親によく似ていると言われる。銀の髪に天藍石の瞳。顔立ちも相まって、全体として月だとか冬だとか、そういう冷たい印象を与える。けれども外見に反して父親は情熱的で愛情深い人で、妻に愛の言葉も贈り物も欠かさないし、子である姉妹のことも分け隔てなく、それは慈しんでくれている。乳母がよく言っていたのが、貴族の親が幼い子どもに会うのは一日一回でもおかしくないのだとか。素晴らしく、お幸せなことでございますね、と締めくくられるところまでを乳母の声で思い出せる。
あれからあの淡い金色の魚は、母親の私室に置くか、父親の書斎に置くか、「いない時はこれを僕だと思って」「私の色なのですから私の分身だとお思いになって、旦那様を見守るわ」等というやり取りを重ねてついに決まらなかったらしく、間を取って家族がくつろぐこの居間に置かれることになった。世話はメイドに任せず、貴重品の管理と同様に執事が直々に気を配っている。そのお陰か、十余年経った今でも丸い硝子鉢で泳いでいる。
窓が大きく明るい部屋で、陽を浴びてゆったりときらめいている長い尾。
子どもの頃に何を食べていたのかなんてまるで記憶に無いものの、あれくらいの年齢なら食卓にはまだ着けないにしても大人と同じものを分けて出されていたはずで、つまり魚料理だって口にしていた。皿に乗って出てくるのは切られたものだから、元の形については字を習うついでに本の挿し絵でも見せてもらったのかもしれない。あるいは、どこかの池で「あれがお魚だよ」と教えてもらったとか。とにかく魚とは、あの時が初対面ではなかったはずで、ただ、そう、何気なく口をついて出た言葉だった。
「お水がこぼれてしまったらお魚はどうなるの?」
特に意味のない質問だ。あのくらいの子ども特有の、「赤ちゃんはどこから来るの?」「どうして大人はおおきいの?」「わたしも大人になったらおおきくなるの?」の類い、数ある成長の通過点。
それなのに、身を屈めて高さを合わせた父親の目線があまりにも真っ直ぐで、
「お水が全部こぼれてしまうとね、お魚はそのままでは死んでしまうんだ」
「えっどうして」
「それはね、お魚は水の中でないと息ができないからだよ。水の中では息ができない私たちと反対だね」
死んでしまう、ということがどういうことだか、本当に分かっていたのかどうか。それはきっと良くないことで、もしかしたらとても怖いことで、息をずっと止めているのは苦しい。それくらいだったようにも思う。少女は同じ色の瞳をただ見つめ返した。あるいは、瞳のなかの海を。
ぱらり、と手元の本を捲る。
魔女に心を凍らされて人望を失っていく王子を、姫が愛の力で救う物語だ。こういう本を読むのが趣味であることを、家族やパトリックには隠さなくなった。近しい人にはそうしたほうが良いと学園時代の友人に助言をもらったから。なんでも、一見近寄りがたい雰囲気のミヌーシュが少女らしい趣味を持っていると、落差が良いほうへ働き、より親しみが増すのだとか。
ミヌーシュには愛や恋が分からない。分からないなりに、家族やパトリックや友人を大切に思っている。そう伝える方法を探して、勉学の一環で読み始めた。
幼い頃から大人しい、落ち着いているとはよく言われていた。彼女は侯爵家の次期当主となる者として生まれついたので、静謐な雰囲気はそう悪いものではなかった。両親の夫婦としてのやり取りや、泣いたり笑ったり怒ったりと忙しい妹と見比べて、何かが違う気はしていたが、当主としての父親の顔は厳めしいものだったし、己と似ているらしい彼に言われた「気持ちを外に出すのが控え目なんだね」という言葉にその時は納得していた。気持ちはちゃんと胸の中にあって、それが外に出づらいだけなのだと。
それが十代も半ばを過ぎると、背中に大きな穴が空いていて、乾いた風が吹き付けてくるような焦りを伴うようになった。
パトリックは、複数いた候補から相性を見て選ばれた婚約者だった。ことは侯爵家への婿入りだ。ミヌーシュが12歳だった当時で、年回りの近い名家の男子の中でも利発で優秀な者揃いだったのだと思う。決め手は、両親の「彼ならミヌーシュを大事にしてくれるだろう」という判断があったから。
最終決定は当主であるにしても、ミヌーシュにも顔合わせでの印象や、意見を訊かれた。会って話してみて、皆、不遜な態度を取ることもなく、野心を剥き出しにするようなこともなく、未来のパートナーとして遜色ないように思えた。それでこう伝えた。「どの方も素晴らしく、私には選ぶことができません。お父様のご判断にお任せします」と。
パトリックのモロー伯爵家とは政略の価値はさほどなく、彼自身の資質や将来性が高く評価されていたのだろう。「優秀」は自分にも求められているから、どういうものなのか分かる。けれども、それ以上のことはよく分からなかった。
家族に大事にされていると思う。大事にしたいと思っている。健康で、幸福でいてほしい。もちろんパトリックもだ。あれからもう六年ほどの付き合いになる。もしかして、自分は何らかの欠陥を抱えているのだろうか。いつからか、気付かなかっただけで最初からか、パトリックの目には強い何かがある。強くて、熱い。同じものを返せないでいることが心苦しい。もし大事な人に「お前は大事ではない」と言われたら胸が痛むだろう。そういう思いをパトリックにさせたくない。
だから、こういう本を読み始めた。
だけど、このことは言えない。
もう幼子のようには疑問を口に出せない。人には立場があり、関係性があり、純粋な疑問の形をした皮肉があることも知っている。それなのに、今更愛が分からないなんて告げてしまったら、「あなたのことを愛していないし、これからも愛せません」と言うのと同義ではないか。口から出た言葉は戻せない。己が欠けている人間であると認めるのは良い。でも、そのことを正直に打ち明けて誰かを傷つけるのが正しいことなのか、ミヌーシュには分からない。
シュゲの花が咲いたら、パトリックと結婚してこの屋敷で暮らす。お披露目が済んだら領地へ向かう。両親や妹のようには振る舞えないにしても、愛の力で呪いが解けるなんてことは起こらなくても、これまでそうしてきたように、少しずつ自分にできることを積み重ねていこう。そう思い定めて彼女は本をぱたりと閉じてソファから立ち上がった。魚は知らん顔でゆらりと尾を翻した。




