九匹目
夕闇に染まる異形の公園に、金色の髪と九尾を揺らめかせ、古の妖狐――おキツネ様が舞い降りた。かつては大妖の一角としてその名を轟かせた存在。だが、長きにわたる封印は彼女の力を著しく削ぎ落とし、本体は未だに箱に封印されたままであり、ここに在るのは仮初の身体に過ぎない。
この土壇場での彼女の登場は、果たして絶望に喘ぐ直矢たちにとって吉兆となるのか、それとも新たな悲劇の序章となるのか──。
「ふん、なかなかの妖気じゃが……それだけでは芸がないのう!」
おキツネ様は玲瓏な声を響かせると同時、その小さな手から人魂を思わせる青白い狐火の弾丸を放つ。それは明確な殺意を込めて、一直線に異形へと迫った。
「……バレバレだヨ、そんナ攻撃」
しかし異形は、嘲るように呟くと、最小限の動き――後ろへわずか一歩下がっただけで、狐火をこともなげに回避する。狐火は虚しく魔物の脇をすり抜け、背後の歪んだ空間へと消えていった。その余裕綽々の態度が、格の違いを物語っているかのようだ。
「それはお主もじゃろうがな!」
狐火が陽動であったかのように、おキツネ様は間髪入れずに次の手を打つ。翻した扇子から、不可視の斬撃――鋭利な風の刃が放たれたのだ。幼い姿からは想像もつかない、洗練され、気品すら感じさせるその流麗な動きは、彼女がただの幼女ではないことを雄弁に物語っていた。
「危なイなァ、今のハ」
不意を突いたはずの一撃。それでも異形は、まるで背中に目があるかのように再びそれを回避する。常人には捉えることすら敵わぬであろう風の刃が、異形の体表を掠めることなく、背後の赤い夕闇へと吸い込まれていった。
「……ふむ。やはり、ちと勘が鈍っておるようじゃのう」
二度の攻撃が、いずれも決定打とならずにあっさりと避けられる。それは、おキツネ様にとって自身の感覚が著しく鈍磨しているという、受け入れがたい事実を突きつける証左だった。
彼女は扇子をぱちりと閉じ、不満げに細い眉をひそめて異形に鋭い視線を向けながら、つい愚痴を零してしまう。だが、そんなことで結果が変わるはずもない。
無用なぼやきを口にしてしまうこと自体、全盛期にはありえなかった心の隙であり、衰えの証左なのかもしれない。再度のブランクをまざまざと見せつけられたようで、おキツネ様の小さな肩がわずかに落ちる。
「じゃが……まあ、間合いは十分に取れたと見てよいか」
二度の牽制攻撃は直撃こそしなかったものの、魔物との間に安全な距離を確保するという、最低限の目的は果たせたようだ。
それに、この距離を再び詰めさせるのは、先ほどまでとは訳が違う。相手はもはや、観奈月直矢や伏間六花のような、霊的戦闘に関しては素人同然の人間ではないのだ。自身に拮抗しうる力を持つ存在が立ち塞がった以上、異形も先ほどまでの狩人のような余裕綽々の態度を改めざるを得ないだろう。弱者を嬲るような戦い方は、もはや通用しないと悟ったはずだ。
「ギギ……ぎ……。面、倒、だナ……こレは……」
異形の裂けた口から、地を這うような、明確な苛立ちを帯びた声が漏れる。その声には、先ほどまでの愉悦の色はない。
本来であれば、その声色だけで人を恐怖のどん底に突き落とすに足るおぞましい響き。だが、今の直矢と六花にとって、それは状況がわずかながらも好転したことを示す、希望の兆しに他ならなかった。先ほどまで絶望に彩られていた彼らの表情にも、ほんの少しだけだが、強張りが解けたような柔らかさが戻っている。
「少々腕は鈍っておるが、それでもこちらは三人じゃ。ふむ、何とかなりそうじゃのう?」
金色の九つの尾をゆるりと揺らしながら、おキツネ様は不敵な笑みを浮かべる。その表情は、先ほどまでと何ら変わらない。
大胆不敵、という言葉がこれほど似合う幼女もそうはいまい。その小さな体躯からは、絶望的なこの状況を前にしてもなお、揺るがぬ自信と余裕すら感じさせられる。
だが、それはあくまで表面上のこと。彼女のその言葉に、本心からの楽観は含まれていない。
決して弱音は吐かぬという矜持。しかし、強く握り締められ、白魚のような指が白くなるほど力の入った扇子を持つ手が、彼女の内心の緊張を物語っていた。
目の前の異形は、決して格上の相手ではない。だが、それはあくまで全盛期の、大妖と謳われた頃の自分自身と比較すればの話だ。
永きにわたる封印の時は、無慈悲にも彼女の戦闘勘を著しく鈍らせている。そして何より、彼女自身が一番よく理解しているのだ。今の自分は、まだ完全に封印が解き放たれたわけではないということを。
だからこそ、こうなる前に直矢との正式な契約を済ませておきたかった。そうすれば、往年の力には遠く及ばずとも、現状よりは遥かにマシな霊力を取り戻せていたはずなのだから。
「して、そこの巫女小娘……六花とやら。お主、多少なりとも戦う術は心得ておるようじゃのう?」
「え、ええ……。霊力なら、少しは使えるわ。神社の人間だから」
おキツネ様の問いに、六花は短刀を構え直し、緊張した面持ちで頷く。
(ふむ、戦力として数えることはできそうか。もっとも、いかにも経験が不足しすぎておる。正面から戦わせるのは酷じゃろうな)
おキツネ様は内心で素早く分析する。問題は──。
「して、我が主はどうじゃ? 何か取り柄はあるのかえ?」
おキツネ様は、視線は異形に据えたまま、背後に立つ直矢へと鋭く問いかける。先ほどの戦闘の様子を僅かに垣間見た限りでは、彼が霊力を使っているような素振りは一切なかった。
「えっと……爺ちゃんに、剣術の手ほどきを受けたことは……ある。本当に、少しだけ……」
なんとも頼りなく、自信の欠片も感じられないしどろもどろな返答。
おキツネ様は一言、「ふむ」とだけ小さく息を吐き、それ以上は何も言わなかった。いや、正確には、言うべき言葉が見つからなかったのかもしれない。
(……あまりにも情けなさすぎるではないか)
内心で深いため息をつく。かつて大妖と恐れられたこの自分が、新たなる主として見出した相手がこれとは。栄光の日々は遠くなりにけり、か。
(いや、嘆いていても始まらぬ。剣を多少なりとも使えるというだけ、丸腰よりは遥かにマシじゃ。あとはこれから妾がみっちりと鍛え上げてやればよい話じゃからのう!)
無理やり思考を切り替え、おキツネ様はわずかに口角を上げる。
「ふむ、どうやら方針は定まったようじゃのう」
勘は鈍り切り、霊力も不完全な、かつての大妖。
霊力は使えるものの、実戦経験皆無の巫女。
そして、剣はかじった程度という、不安要素しかない平凡な主。
なんとも心許なく、前途多難としか言いようのない即席パーティだ。だが、それでも、この三人でこの絶望的な状況を乗り切るしかないのだ。
おキツネ様は、ぱっと再び扇子を開くと、その優美な動きでそっと自らの口元を隠した。
そして──。
『六花よ。そして主殿も、よく聞くのじゃ』
それは、直接鼓膜を震わせる音ではない。しかし、確かに二人の脳内に、おキツネ様の凛とした声がはっきりと響いた。念話というやつだろうか。
『まずは、お主らにこの函の理と、その礎について、手短に教えてやらねばなるまい』
おキツネ様のその言葉は、この異空間からの脱出、そして反撃の狼煙となるのだろうか。
直矢と六花は、ゴクリと唾を飲み込み、幼き妖狐の次の言葉を待った。