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八匹目

 周囲は、悪夢のような異様な空間が広がっている。


 どこまでも連綿と続くジャングルジムや滑り台。それらが、地平線の彼方まで、まるで墓標のように整然と並んでいる。空は、血を塗りたくったかのように、鮮やかすぎるほどに赤い夕焼け。


 直矢と六花は、そんな現実離れした場所で、耳まで裂けた口を持つ異形と、絶望的な対峙をしていた。


「クスクス……ねエ、お兄ちゃンとお姉ちゃン。もう、逃ゲなクていイのかナ?」


 異形が、嘲るような声音で問いかける。その口から発せられるのは、やはり少女の声と男の声が混濁した、聞くだけで精神を削られるような不快な響き。口調に混じる少女特有のたどたどしさが、いっそうその声の穢れと狂気を際立たせていた。


(どうしろって言うんだよ、こんな状況で……!)


 直矢の心を、じわじわと絶望という名の分厚い暗雲が覆い尽くそうとした、まさにその時だった。


「……大丈夫だから」


 凛とした、しかしわずかに震える声が隣から聞こえた。六花だった。

直矢は、祈るような思いで彼女の方へと視線を向ける。


「さっきは驚いて頭が真っ白になっちゃったけど……多分、あれは魔物っていう類のものよ」

「ま、魔物……?」


 テレビゲームやファンタジー小説の中ではお馴染みの存在。だが、ごく平凡な一般高校生(予定)である直矢にとって、それは空想の世界の産物でしかなかった。しかし、目の前にいる、明らかに人間ではないおぞましい異形を見る限り、もはやそれを認めざるを得ない。


 少なくとも、自分が今まで生きてきた常識の、遥か外側の異常事態に巻き込まれていることだけは、嫌でも確信できた。


「神社の人間はね、多少なりとも霊力を扱えるように訓練されるの。だから……私に、任せて」


 六花はそう言うと、学生服の上着の左ポケットからスマートフォンを取り出し、そこに付けられていた何の変哲もない四角い木製のストラップを、強い力で乱暴に引きちぎった。


「直矢、これ、持ってて」

「え……あ、ああ……」


 ストラップが外されたスマートフォンを、六花は直矢に預ける。彼女が一体何の意図でこのような行動を取ったのか、直矢には皆目見当もつかなかったが、今はただ素直にそれを受け取ることしかできなかった。


「……絶対に、失くしたりしないでよ。高いんだから」


 不意に、六花は直矢に向けて、ふっと儚げな笑顔を見せた。額に滲んだ汗で濡れた髪の毛が肌に張り付き、その瞳の輝きはいつもより弱々しい。必死に強がろうとしているのは明らかだったが、その健気な姿が、直矢の胸を痛々しく締め付けた。


「お前……一体、何をする気なんだ……?」


 思わず漏れた、六花を心底心配する直矢の言葉。それに対し、六花はいつもの憎まれ口を封印し、努めて明るい声で返す──


「私って、昔から何でもそつなくこなしちゃう天才肌じゃない? だから、こういう霊力を扱う修行だって、実はもの凄いのよ、私」


 ──だが、その声はわずかに震えていた。


「だから……私の凄いところ、しっかりと目に焼き付けておきなさい」


 先ほどまでの弱々しさが嘘のように、六花の瞳に、強い意志の光が宿った。


 勝算があるわけではない。むしろ、絶望的な状況であることは彼女自身が一番理解しているはずだ。それでも、ここで退くことはできない。そう覚悟を決めたからこそ宿った、一点の曇りもない決意の光。


 六花は、先ほどスマートフォンから引きちぎった小さな木の欠片を右手で強く握りしめ、ゆっくりと意識を集中させていく。


「…………来たれ、我が力。顕現せよ、破邪の刃よ」


 彼女の凛とした声と共に、ぎゅっと強く握りしめられた右手。その指のわずかな隙間から、眩いほどの青白い光が溢れ出したかと思うと──次の瞬間、いつの間にか、六花の右手には白銀に輝く短刀が握られていた。


 光り輝くその短刀は、先ほど彼女の手から洩れた光と全く同じ、清浄な青白い霊気をまとっている。


 それは、彼女自身の霊力を物質化させて作り出した、魔を祓う破邪の刃。

唯一、この絶望的な状況を打開する可能性を秘めた、小さな、しかし確かな希望の光だった。


「直矢は、邪魔だからちょっと下がってなさいよね」


 努めて軽い口調で、しかしその声には隠しきれない緊張を滲ませながら、六花は直矢にそう言った。


 だが──。


「お前……手、震えてるじゃねえか!」


 直矢の鋭い指摘に、六花はビクリと肩を揺らした。


 先ほどは、覚悟を決めたつもりだった。神社の人間として、幼い頃から霊力の扱い方も、そしていつか来るかもしれないこういう時のための心構えも、嫌というほど叩き込まれてきた。


 だが、所詮彼女は、まだうら若い一人の少女だ。


 本物の魔物と対峙した経験などあるはずもなく、それどころか、殴り合いの喧嘩すら一度もしたことがない。


 目の前に、自分たちの命を明確な殺意を持って狙ってくる異形がいる。その圧倒的な恐怖を前にすれば、かろうじて奮い立たせた少女の覚悟など、いとも簡単に砕け散ってしまうものだ。


 それでも──。


「だ、大丈夫だから……! いいから、何も言わないでよ……!」


 一度は砕け散った覚悟。だが、その小さな欠片は、まだ彼女の心の中に確かに残っているのだろう。六花は必死に恐怖を押し殺し、直矢を睨みつける。


「俺に貸せ! ウチの爺ちゃんに、昔から剣を教えられてんだ!お前よりは、俺の方がよっぽどマシに扱えるはずだ!」

直矢が叫ぶ。

「お断りよ!アンタが私の立場なら、同じ事を言われて渡す?絶対に渡さないでしょ!!」


 か細い声で、しかしきっぱりと六花は拒絶する。


「…………」


 これ以上、直矢と会話を続けていれば、かろうじて繋ぎ止めている心の糸が完全に切れてしまう。そう感じたのだろう。六花は、もう直矢と視線を合わせようとはしなかった。


 直矢は、そんな彼女の痛いほどの気持ちを察し、それ以上何も言うことができなかった。だからこそ、彼は選んだのだ。己にできる、唯一の選択を。


「……なら、俺はアイツをぶん殴る。素手でも何でもいい。お前がそいつを仕留めるまでの時間稼ぎくらいには、なんだったら、お前の盾くらいにはなってやる」

「直矢……!」

「どっちにしろ、お前があの化け物をどうにかできなきゃ、俺たち二人ともここで終わりなんだろ?」


 六花に続いて、直矢もまた、必死に虚勢を張った。その瞳には、恐怖と、それ以上の強い決意が宿っていた。


「……うんっ!」


 六花の顔に、ようやくいつもの勝気な光が、ほんの少しだけ戻っていた。


 *


「オ話ハ、ソレで終ワりなノかナ?」


 異形が、まるで芝居の終わりを告げるかのように、ねっとりとした声で言った。


「ああ、わざわざ待っててくれたのかよ。ご親切なこった」


 直矢が皮肉を返す。


「もちロん。強イ意志、恐怖、ソシテ覚悟。ソウいった感情ヲ纏った霊力ホど、美味シイものハなイかラねェ」


 魔物に関する詳しい知識などない直矢だったが、目の前の異形が言わんとしていることは、嫌というほど理解できた。


 要するに、自分たちの恐怖や覚悟といった感情は、この魔物にとって、極上のスパイスか何かだということだろう。


「デも、サスガにモうお腹ペこペコだカらサ……。存分ニ、味ワわセて貰うとスるヨねェ」


 異形の声が、一段と低く、おぞましいものへと変わった。


 それは、何匹もの飢えた獣が同時に唸り声を上げているようでもあり、あるいは、地の底の暗闇で名状しがたい何者かが絶叫しているかのようでもあった。聞いているだけで、内臓がひっくり返りそうなほどの、強烈な吐き気を催す声だった。


「はハハハははハはハハはははッ!」


 少女の声と男の声が、もはや判別不能なほどに混ざり合い、狂気に満ちた甲高い哄笑となって異空間に響き渡る。それこそが、この異形の、混じり気のない本当の嗤い声なのだろう。


「サァ、イくヨぉぉぉぉッ!」


 異形は、その言葉を合図に、地を蹴って直矢と六花へと猛然と襲いかかった。


 宙へと高く跳び上がった異形は、自らの体を独楽のように高速で回転させ、右腕から伸びる長大な刃を、扇風機の羽が空気を切り裂くがごとく、無差別に振り回す。


「くっ……!」


 武器らしい武器を何も持たない直矢と、かろうじて手にした短い霊力の短刀だけが頼りの六花では、この広範囲かつ高速の斬撃を防ぎ切る術はない。


 直矢と六花は、咄嗟にそれぞれ左右別々の方向へと跳んで、辛うじて初撃を回避した。


「きシャアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 異形の笑い声は、もはや人間のそれではなく、耳障りな金属音を伴った獣の咆哮へと変わっていた。


 先ほどは何とか異形の刃を避けた二人だったが、その動きは圧倒的に人間を凌駕しており、回避した先で即座に次の追撃が襲いかかる。


「ちっくしょうが……!」


 まるで玩具で遊ぶ猫のように、異形は直矢と六花の間を、目にも止まらぬ速さで縦横無尽に行き来している。


 何度も、何度も、二人の間を跳び回り、あの不快な奇声と共に、手から伸びる銀色の刃を嬉々として振り回す。


「ホらホラホラほらァ! もっト楽シませテよォ!」


 六花は、霊力を込めた短刀で必死にその斬撃を防ぎ、あるいは受け流し、直矢は父親から叩き込まれた剣術の基礎と、持ち前の反射神経を最大限に活かして、紙一重でその凶刃を避け続けている。


 だが、二人の体には、徐々に、しかし確実に傷跡が増え続けていた。特に、まともな防御手段を持たない直矢は、全身に無数の浅い切り傷が刻まれ、おびただしい量の血を流していた。


 しかし──。


「オっカシいなァ~。オニイちゃんの方、ナンで斬ってモ斬ってモ、傷ガすグに塞がっチゃっテるノかナァ?」


 異形が、不意に訝しげな声を上げた。


 確かに、直矢の傷の治りは異常だった。


 斬られた瞬間こそ激痛と共に血が噴き出すものの、浅い傷であればものの数分でピタリと塞がり、出血も止まっている。六花を庇った際に負った左肩の深手ですら、既にほとんど痛みを感じないまでに回復していたのだ。


「知るかよ、そんなこと!」


 異形の言葉に、直矢は悪態をつきながら答えた。だが、彼自身、その異常な回復力の原因に心当たりがないわけではなかった。


 それは、つい先ほど、あのおキツネ様と、半ば強引に結ばされた仮契約以外には考えられない。


「まア、いイや。面倒だかラ、スグに殺サナいトねェ」


 異形が、初めて地面に両足をつけた。その瞬間、乾いた土煙が舞い上がる。


 そして、頬の位置まで大きく裂けていたはずの口が、まるで顎が外れたかのように、さらに限界を超えて醜悪に開いたような気がした。


「じゃあネ。……おしまいダヨ」


 これまでと、声の質が明らかに違って聞こえる。


 今までは、少女の声と男性の声が、微妙なズレを伴って同時に響いている、そう直矢は認識していた。


 だが、それは間違いだったようだ。


(違う……女の声がほんの僅かに先に聞こえて、それを追うようにして、男の声が……二重に、いや、もっと多くの声が重なって……!)


 直矢は、そんな常人では到底気づきようのない微細な差異を、この極限状況下で発見していた。


 それほどまでに、彼の五感と集中力は研ぎ澄まされていたのだ。


 死を目前にした時、人間の脳は生存本能からリミッターを外し、普段ではありえないほどの処理能力を発揮するという。


 直矢もまた、今まさにその状態にあった。だからこそ──ほんの瞬きほどの短い時間ではあったが、直矢には、異形の次の一手が、コマ送りのように鮮明に見えた。


「エっ……!?」


 異形が驚愕の声を上げる。


 直矢は、自らの命を刈り取らんとばかりに眼前へと迫る異形の刃を、まるで吸い付くように最小限の動きでかいくぐり──そのまま、そのおぞましい異形の体に、力強く抱きついたのだ。


 異形の手から伸びる刃は、長大な刀ほどの長さがある。だからこそ、ここまでゼロ距離で密着してしまえば、そのリーチの長さが逆に仇となり、本来の破壊力を十分に発揮することはできない。


 この状況であれば、誰もが思うだろう。

 死ぬよりもは、少し痛い思いをする方がマシだ。ましてや異常な回復力があるのなら、なおの事だ、と。直矢もまた、同じ気持であった。



 異形の側にも、この密着状態から脱し、反撃する手段はあっただろう。


 だが、この好機を虎視眈々と狙い、必死に戦い続けていた六花が、異形にその対応をさせる時間を与えるはずもない。


「ぐギャあアァァァッ!」


 六花は躊躇う(ためらう)ことなく、その青白い霊気の刃を、がら空きになった異形の背中へと深々と突き刺した。手応えは、硬質なゴムを貫くような、鈍い感触。


 平時であれば、いくら相手が魔物とはいえ、人の形をしたものに刃を突き立てることに、少なからず躊躇いを覚えたであろう。


 しかし、この異形はあまりにも六花を弄び、追い詰めすぎたのだ。極限の恐怖と怒りに晒され続けた今の六花に、もはや戸惑いや慈悲といった感情を抱く余裕など、欠片も残されてはいなかった。


 この一撃で、勝負は決した。この様子を見ている者がいれば、誰もがそう確信したはずだった。


 だが、実戦経験の少なさ故に。詰が甘かった──。


「あアアァァァァァァァァァッ!!」


 背中に深々と刃を突き立てられながらも、異形は絶叫と共に、抱きつく直矢を獣のような膂力(りょりょく)で強引に振り払い、右腕から伸びる長大な刃を、振り返りざまに、怒りに任せて全力で薙ぎ払った。


 六花は、声も出せない。

 否、何が起こったのか、一瞬理解することすらできなかった。


 異形の凶刃は、明確な殺意を持って、六花の細い首筋へと吸い込まれるように伸びる。


 傷つけられたことで怒り狂った異形の瞳には、もはや勝利の計算など映ってはいない。ただ、目の前の存在を破壊し尽くさんとする、純粋な破壊衝動に突き動かされて刃を振るっただけなのだから。


 意図せず、ただ獣のように振るわれただけの刃。しかしそれは、あまりにも的確に、そして確実に、六花の命を刈り取ろうとしていた。


 だが、それもまた、詰めが甘かったのだ──。


(えっ……?)


 唐突に、六花の背中に強い衝撃が走った。次の瞬間、地面が急速に自分へと迫ってくるのを感じる。


 否、誰かに強く背中を押され、自分が前のめりに倒れ込んでいるのだ。


 彼女が、一体誰に背中を押されたのか?


 それは、すぐに判明する。


「──ようやく追いついたのう、主よ」


 凛とした、しかしどこか幼さを残す声が響く。


 六花の首があったはずの空間。そこには、小さな白い手で両端をしっかりと握られた、(みやび)やかな扇子があった。


 異形の凶刃は、その薄い扇子によって、まるで鋼鉄の盾に阻まれたかのように、ピタリと受け止められている。


 扇子の持ち主は、その小さな背丈では地面に足が届いていない。


 だが、彼女は物理法則など意にも介さぬように、ふわりと空中に静止している。


「ふぅ。どちらも無事なようで、何よりじゃったわい」


 夕闇の中で、金色の髪と、ふさふさとした九本の尾が優雅に揺れる。


 そこにいたのは、先ほどまでラムネ(油揚げ味)の玄妙な味わいに舌鼓を打っていたはずの、おキツネ様だった。

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