七匹目
キーィ……キィィ……。
夕暮れの公園に、金属が擦り切れるような、耳障りな音が不気味に響いた。
「……あの子……」
自動販売機の前でラムネ(油揚げ味)の衝撃に打ち震えていた六花が、ふと顔を上げ、音のする公園の奥へと視線を向けた。
直矢もまた、釣られてそちらを見る。茜色に染まる夕闇の向こう、古びたブランコに腰掛け、ゆっくりと揺れている小さな影があった。白い帽子に、白いワンピースを着た少女。
夕陽がその白い装束を淡く赤く染め上げ、なぜか直矢の胸に言いようのない不気味な感覚を呼び起こした。
「……迷子、かな?」
六花が呟くと同時、彼女はためらうことなく少女の元へと駆け出した。
「おい、六花!」
直矢が慌てて声をかけるが、彼女の足が止まるはずもない。昔からそうだ。このお節介焼きは、一度誰かを助けると決めると、周りの制止など一切聞かなくなるのだから。
「はぁ……仕方ない。ちょっと行ってくる」
傍らで未だラムネ(油揚げ味)の神髄を堪能しているおキツネ様に声をかけるが、
「うむ、うむ。これは誠に美味じゃのう」
と、心ここにあらずといった返事。まったく話を聞いていない。
六花を一人で行かせるのは心配だが、この幼女を放置していくわけにもいかない。直矢はひとまずおキツネ様を車の往来がない道の端へと促し、自身も六花の後を追った。
キィィ……キィ……。
ブランコは、少女の小さな体の動きに合わせて、単調な音を立て続けている。夕闇が濃くなり、公園全体が不穏な影に包まれ始めていた。
「ねえ、君。もしかして迷子かな?」
六花が優しく声をかけるが、少女は何も答えない。ただ、ゆっくりと首を横に振っただけだった。その動きはどこかぎこちなく、人形を思わせる。
「そっか。でも、もうすぐ真っ暗になるよ。早くおうちに帰った方がいいんじゃないかな」
それでも少女は無言のまま、虚空を見つめてブランコを揺らし続ける。その瞳には何の感情も浮かんでいない。
そんな少女の異様な雰囲気に、さすがの六花も言葉を失い、ただ黙って見つめ返している。その時だった。
「六花っ!」
背後から、切羽詰まった直矢の声が飛んだ。
「キャッ!?」
声とほぼ同時に、猛然と駆けてきた直矢が、六花を突き飛ばす。勢い余って、二人は地面に倒れ込んだ。
「いっ……! 何すんのよ、いきなり! ……えっ?」
年頃の少女だ。たとえ幼馴染であっても、問答無用で押し倒されれば怒りも湧く。だが、六花のその怒声は、直矢の左肩を見た瞬間に驚愕へと変わった。
「痛ぅ……! 六花、大丈夫か……!?」
「直矢、なんで……!」
六花の「なんで」という言葉は、押し倒されたことへの詰問ではない。
彼女の視線は、直矢の左肩に釘付けになっていた。そこから、じわりと赤い血が滲み出し、彼の着ている上着をみるみるうちに濃く染め上げていく。
「なんで、アンタ、血が!?」
「逃げるぞ!」
直矢は歯を食いしばり、六花の手を引いて立ち上がらせる。
「でも、その血……!」
「いいからっ!」
直矢が叫ぶ、”あいつ”が誰を指すのか、六花は一瞬理解できなかった。しかし、その疑問は次の瞬間、おぞましい現実によって打ち消されることになる。
「な……に、アレ……」
直矢が突き飛ばしたことで、彼の影から姿を現した白いワンピースの少女。その顔を見た六花は、息を呑んだ。
先ほどまで、どこにでもいる普通の少女だったはずだ。
だが今、そこにいるのは、人間とはかけ離れた異形。
少女の小さな口は、耳元まで大きく裂け上がり、そこには針のような牙がびっしりと並んでいる。目も、鼻も、眉も、人間的な顔のパーツは全て消え失せ、のっぺりとした白い仮面のような顔の中央に、その裂けた赤い口だけが不気味に存在を主張していた。
そして──。
「あれって……刃物……?」
少女の華奢な右腕。その先からは、まるで腕と一体化したかのように、日本刀を思わせる鋭く反り返った銀色の刃が伸びていた。その刃先から滴り落ちる深紅の液体を見て、六花は悟った。
──あれが、直矢の肩を斬り裂いたのだ、と。
「走れっ!」
「う、うん……!」
直矢の叫び声に、六花は我に返り、必死に足を動かし始めた。残念ながら、直矢の肩を手当てしている時間など、一秒たりともなさそうだ。
二人は、おキツネ様がいるであろう公園の入り口とは反対の方向へと、全力で走り出した。入口と自分達の間に、刃を持った化け物が立っていたからだ。
「ふフふフ……逃げラレるト思っテルノカなァ?」
背後から、異形の声が追いかけてくる。それは、少女の甲高い声と、成人男性の低い声が不協和音となって混ざり合った、聞く者の鼓膜を直接汚染するかのような、おぞましくも穢れた響きだった。その声だけで、周囲の空気がドロリと重くなったように感じる。
*
直矢は、鋭い痛みが走る左肩を手で押さえながら、必死に足を動かしていた。心拍数が上がるにつれて、傷口から流れ出る血の量が増えていくのが、嫌でも分かる。
「直矢っ!」
隣を走る六花が、彼の肩から溢れ続ける血を見て、思わず立ち止まりそうになる。だが、直矢は痛みをこらえて左手を伸ばし、彼女の細い手首を強く掴んだ。
「大丈夫だ……」
直矢は一瞬だけ振り返り、六花を安心させようと無理に笑顔を作った。だが、その表情は血の気を失い、痛々しいほど弱々しく、むしろ自分自身に言い聞かせているようにも見えた。
「オネエちゃん、オニイちゃん。無駄ダと言っテルだロう?」
すぐ背後から、あの穢れた声が響く。同時に、先ほどまで感じ取れなかったはずの、異形の明確な気配が、すぐそこまで迫っていた。
「クソっ……!」
直矢が忌々しげに振り返ると、毒々しいまでに真っ赤な夕焼け空を背景に、白いワンピースを翻しながら猛然と迫ってくる異形の姿が目に飛び込んできた。そのスピードは、人間のそれではなかった。
「ネえ、こノ公園っテさァ、コんナに広カったカしらネェ?」
異形の嘲るような言葉に、直矢はハッとした。
なぜ、今まで気づかなかったのか。いや、気づく余裕がなかったのだ。逃げるのに夢中で、周囲の状況を正確に把握できていなかった。だが、これは、そんな言い訳では済まされないほど、異常な事態だった。
「うそ……なに、これ……」
六花が、絶望に染まったか細い声を漏らした。その声に促されるように、直矢も改めて周囲を見渡す。そして、言葉を失った。
「なんだよ……これ……」
夕焼けに染まる公園。その中にあるはずの遊具──ブランコ、滑り台、ジャングルジム──が、どこまでも、どこまでも無限に続いている。地平線の彼方まで、同じ遊具が延々と並んでいるのだ。
公園を囲んでいたはずのフェンスは消え失せ、その先にあったはずの住宅街も、賑やかな町の風景も、全てが赤い虚無へと飲み込まれていた。
「ねエ、鬼ごっコは、もウ終ワりデいイかナ?」
異形は、その裂けた口をさらに大きく歪め、嘲笑を浮かべながら、絶望に立ち尽くす直矢と六花にゆっくりと語りかけた。
*
時間は、わずかに遡る。
「むっ!? 主よ、どこへ行ったのじゃ!?」
道の端に移動させられてもなお、ラムネ(油揚げ味)の奥深い風味に夢中になっていたおキツネ様。ようやく最後の一滴まで飲み干し、満足げに息をついた彼女は、そこで初めて直矢と六花がいなくなっていることに気づいた。
驚いた影響か、先ほどまで器用に消していたはずのモフモフな尻尾が再びぽんっと現れ、落ち着きなく左右に揺れている。
「おお、あそこにおったか! ……ん? まて、そやつに近づいてはならんぞ、小娘!」
おキツネ様は、公園の奥でブランコの少女に話しかけている六花と、その後を追おうとしている直矢の姿を見つけた。その瞬間、おキツネ様の顔色が変わる。
彼女は本能で気づいたのだ。六花が話しかけている白いワンピースの少女が、ただの人間ではない、おぞましい”何か”であるということに。
「六花ァッ! 避けよ!!」
おキツネ様の鋭い警告の声が、直矢の耳に届いた。その声に突き動かされるように、直矢は全力で走り、六花を突き飛ばした。
まさにその瞬間、それまで無害な少女にしか見えなかった異形の右腕が、凶悪な銀色の刃へと変貌し、六花の背中、心臓の位置を目掛けてまっすぐに突き出されていた。
しかし、直矢が間一髪で六花を押し倒したおかげで、その死角から放たれた刃は、六花の体を逸れ、代わりに直矢の左肩を浅くではあるが傷付けたのだった。
一瞬の呆然。しかし、すぐに直矢と六花は立ち上がり、必死に逃げ出した。
「走れっ!」
「う、うん……!」
逃げる二人の背中を見ながら、異形は裂けた口の端を吊り上げ、愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。
「ふフふフ……。どこへ逃げヨうトも、無駄だヨ」
異形のその言葉と同時。公園全体がぐにゃりと歪み、次の瞬間には、そこにいたはずの直矢と六花、そして異形の姿は、まるで陽炎のように掻き消えていた。
後に残されたのは、夕闇に包まれた、ただ静かで誰もいない公園だけ──。
「ぬおおおぉぉぉっ!?」
異変を察知し、公園へと足を踏み入れていたおキツネ様だったが、不可視の壁にでも衝突したかのように、でんぐり返しをしながら公園の外へと弾き飛ばされた。
「おのれぇぇっ……! あの者、函持ちか!」
おキツネ様は忌々しげに、今はもう誰もいない公園の入り口を睨みつける。だが、彼女の主となりうる直矢の身に危険が迫っているこの状況で、ただ睨んでいるだけで済ませるわけにはいかない。
「主よ、妾が行くまで、なんとか耐え抜くんじゃぞ……!」
おキツネ様は懐から、いつぞや直矢に向けたものと同じ、美しい装飾の施された扇子を取り出す。
そしておキツネ様は扇子で何もない空間を力強く叩いた。ガンッ! と、硬い物同士が激しくぶつかり合うような、鈍い音が周囲に響き渡る。
「……ふむ、やはり一筋縄ではいかぬか。じゃが……!」
それから金髪幼女おキツネ様は、何度も、何度も、目に見えない函の境界を扇子で打ち据え続ける。その小さな体には不釣り合いなほどの霊力が、扇子を通じて空間へと叩きつけられていた。
「思いのほか、この結界は厄介じゃのう……。じゃが、必ずやこじ開けてみせる! 主よ、もう少しの辛抱じゃぞ!」