五匹目
最後に涙を流したのは、一体いつのことだっただろうか。
観奈月 直矢の記憶を辿れば、それはきっと、幼い日に苑未や立花と離れることになった、あの引っ越しの時だったはずだ。
今となっては、彼女たちが住まう水鏡神社神社までの距離など、自転車で少し走れば着いてしまう、なんてことのない距離だと分かっている。だが、幼かった直矢にとって、そのわずかな隔たりですら、永遠の別離を思わせるには十分すぎるものだったのだ。
失ったと感じる大切なものは、案外すぐ手の届く場所にあるのに、ただ気づかずにいるだけなのかもしれない。幼い日の自分が、二人との繋がりを一方的に断ち切られたと思い込んでいたように。
──などと、柄にもない感傷に浸りつつ、直矢は先ほどまで吹き荒れていた伏間姉妹からの猛烈な叱責の嵐を、なんとか耐え抜いた。
金髪幼女(モフモフな尻尾付き))を号泣させたという新たな罪状で、文字通り針の筵だった。かつては純粋無垢だったはずの直矢が、なぜこれほどまでに非道な行いを平然とできるのかと、姉妹は本気で嘆き、そして詰問してきたのだ。
その間の詳細なやり取りは、直矢の名誉と読者の精神衛生のために割愛させていただくとして、物語は幼女──金髪幼女(モフモフな尻尾付き)との契約の場面へと進む。
「じゃあ、改めて……名前を与えれば、契約は完了ってことでいいんだな?」
疲労困憊の直矢が確認すると、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)はこくりと頷いた。
「うむ、そうじゃぞ、主よ」
少し古風な、しかし凛とした言葉遣いの幼女。その向かいに、直矢は正座で向き合っている。
そんな二人を、少し離れた位置から、座卓を挟んで伏間姉妹がお茶をすすりながら見守っていた。その眼差しには、まだ若干の疑念と、それ以上の好奇心が宿っている。
「では主よ、目を瞑り……」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が厳かに契約の手順を説明しかけた、まさにその時だった。
ピンポーン、と軽快な玄関チャイムの音が、静まりかけていた屋敷に響き渡った。
「む? なんじゃ、今の音は?」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が不思議そうに小首をかしげる。
「多分……お父さんね」
苑未がそう言って立ち上がりかけた。そして、その予想は的中する。
「おう、帰ったぞー!」
玄関の方から聞こえてきたのは、およそ神職に就く者とは思えないほど、威勢のいい、そして少々乱暴な男性の声だった。スリッパに履き替えるパタパタという音が、徐々にこちらの客間へと近づいてくる。
「やっぱりお父さんだったみたいね」
苑未はどこか嬉しそうだ。自分の勘が当たったことが嬉しいのだろうか。
少なくとも、直矢が知る限り、苑未が父親の帰宅をこれほど分かりやすく喜んでいるのを見た記憶はない。今の直矢にはその機微を深く理解することはできないだろうが、いつか彼自身が父親になった時、娘を持つ父親の寂しさというものを知る日が来るのかもしれない。
「わりぃな、ちっと帰りが遅くなっちまった」
ガラッ、と少々荒々しく襖が足で開けられ、ひょっこりと顔を出したのは、伏間姉妹の父親だった。両手には大きな紙袋をいくつも抱えている。
「お父さん、もう、行儀が悪いわよ」
苑未が軽く眉をひそめる。
「しゃあねえだろ、この通り両手が塞がってんだからよ。おーい直矢、悪いがそっちの荷物、一つ持ってくれ」
もっとも襖に近い位置にいた直矢に、彼は気安く声をかけた。
「おっ、サンキューな」
直矢が荷物を受け取ると、男はにカッと笑う。
彼の名は、伏間 亮彦。言葉遣いこそ若々しいが、年齢はすでに四十路を迎えている神主だ。だが、そのさっぱりとした性格と鍛えられた体躯のせいか、実年齢よりもずっと若々しく見える。
「いやー、今日は檀家回りで色々と貰っちまってよぉ」
豪快に笑いながら、亮彦は抱えていた紙袋をどさりと座卓の上に置いた。直矢もまた、預かった荷物をその隣へと丁寧に置く。
「ところでよ……」
亮彦の視線が、ふと部屋の隅に座る小さな存在に向けられた。
「そのちっこいのは……なんだ? どっかの霊獣か何かか?」
その視線の先にいたのは、当然のことながら、金髪幼女の金髪幼女(モフモフな尻尾付き)である。
「うむ。いかにも。しておんしが、この現代の水鏡神社を差配しておる者かのう?」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は臆することなく、むしろ尊大な態度で亮彦を見据える。
「まあ、そうなるが……。で、嬢ちゃんは何者なんだ?」
亮彦はポリポリと頭を掻きながら、困惑したように金髪幼女(モフモフな尻尾付き)を指差した。
「な……なんと! この水鏡神社を束ねる長ともあろう者が、この妾を知らぬと申すかッ!」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、自分を当代の神主である亮彦が知らないという事実に、いたく尊厳を傷つけられたらしい。その大きな瞳には、みるみるうちに涙が滲んでくる。可憐な花が雨に打たれたかのようだ。
「お、おお、そりゃ悪かったな、嬢ちゃん」
幼女の涙には、どんな豪傑でも弱い。亮彦も例外ではなく、慌てて謝罪の言葉を口にする。それは男という生き物の、年齢を問わぬ共通の弱点なのかもしれない。
「嘆かわしい! 実に嘆かわしいことじゃ! 永きに渡り、この妾はかの勾玉に封じられておったというのに……!」
「ん? 勾玉に封印……って、まさか、ウチの神社の伝承にあるっていう、おキツネ様かッ!?」
亮彦が目を見開いて叫んだ。
「うぐっ……そ、そうじゃ……と言えなくもない、か? 妾がその、おキツネ様、じゃ……?」
なぜか最後が疑問形になった。そして、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の視線が一瞬だけ泳いだのを、直矢は見逃さなかった。
(こいつ……自分が『おキツネ様』って呼ばれてること、今初めて知ったな?)
直矢だけが、その小さな真実に直感で気づいていた。
「こいつはたまげたぜ……。まさか本当にいらっしゃったとはな」
亮彦が心底驚いたように言う。
「お父さん……。一応、神主なんだから、ご神体の存在を最初から疑っちゃダメでしょ……」
苑未が呆れたようにため息をついた。
おキツネ様というのは、この水鏡神社で古くから祀られている祭神の一柱である。つまり今、この神社のトップである神主自らが、そのご神体の一つが実在しないと本気で考えていたことが、図らずも暴露されてしまったことになる。
「ははっ、まあ固いこと言うなや」
そう言って亮彦は、からからと大声で笑った。
(あ、これ、絶対にごまかしてるな)
と、隣で六花が冷めた目で父親を見ているのに直矢は気づいたが、賢明にも彼女はそれを口には出さなかった。
「んで、そのおキツネ様が、なんでまたこんな所にいるんだ?」
亮彦が改めて金髪幼女(モフモフな尻尾付き)に尋ねる。
「お父さん、あまり驚かないんですね」
直矢が素朴な疑問を口にすると、亮彦はニヤリと笑った。
「まあな。神主やってっと、色々と慣れてくんだよ、こういうのには」
慣れている、とは、神主だからという意味なのか。それとも、他にも様々な人ならざる者と遭遇した経験があるということなのだろうか。
色々な疑問が直矢の頭に浮かんでは消えたが、そういえば先ほど伏間姉妹が霊力について学んでいると話していたことを思い出す。
ここで下手に深入りすれば、その辺りの込み入った事情を長々と説明される羽目になるだろう。そう察した直矢は、大人しく質問するのをやめた。
「どうも、俺がこの子と契約した、ってことになったみたいで……。それで今、名前をつけるところだったんです」
直矢が簡潔に説明する。
「ほう、契約ねぇ。……封印を解いただけなら、まだ仮契約じゃねえか?」
「か、仮契約ッ!?」
直矢が驚きの声を上げる。
その単語を聞いた瞬間、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)はぷいっと明後日の方を向き、なぜか口笛を吹き始めた。──もっとも、シューシューと息が漏れるばかりで、全くメロディにはなっていないが。
「おい、何をごまかしてるんだ?」
直矢が問い詰めると、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)はさらに激しく口笛(のような息漏れ)を続ける。
「な、なにも……しゅーしゅー……ぴー……(鳴ってない)」
よほど後ろめたいことがあるのか、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は頑なに直矢と目を合わせようとせず、意味不明な効果音を発し続けている。
直矢は、てっきり金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が封印されていた勾玉を取り出した時点で、既に契約は完全に成立しているものだと考えていた。だからこそ、厄介事に巻き込まれそうな予感に満ちたその契約を、しぶしぶながらも受け入れる覚悟を決めかけていたのだ。
しかし、もし契約がまだ成立していないのだとしたら──。
「……まだ、契約は成立してなかったんだな?」
直矢が静かに、しかし確信を持って尋ねる。
「そ、それはじゃのう~~……その……ええっと……」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)はそわそわと落ち着きなく視線をさまよわせ、両手の人差し指をもじもじと合わせている。その動揺っぷりは、あまりにも分かりやすかった。
そのまま、重苦しい沈黙が和室に流れる。誰もが固唾をのんで、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の次の言葉を待っていた。
そして──。
「だ、だって……もう、あの冷たい勾玉の中に戻されるのは、嫌だったんじゃよぉぉぉ~~~!」
わーんと、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は再び泣き出してしまった。一体どれだけメンタルが脆い神様?なのだろうか。
「直矢君っ!」
「えっ、また俺のせいですか!?」
苑未の鋭い声が飛ぶ。明らかに理不尽としか言いようのない怒りだ。だが、幼女の涙というのは、時にあらゆる理不尽を正当化する力を持つ。少なくとも、伏間姉妹にとっては絶対的な真理のようだった。
「この朴念仁っ!」
「お前もかよ、六花っ!」
性格こそ正反対に見える苑未と六花だが、こういう時の思考回路は驚くほど似ているらしい。
姉妹二人に同時に責め立てられる直矢を見て、亮彦は「やれやれ」といった表情で苦笑いを浮かべるだけだった。
(お前さんも、うちの娘たち相手に大変だなあ)
その苦笑いには、自分の娘たちが関わっていることへの若干の申し訳なさと、それ以上の同情が込められているようだった。
*
「直矢。ちっと、一つだけ聞かせろ」
やがて、亮彦が真剣な表情で直矢に向き直った。
「……はい」
直矢も居住まいを正す。
「お前、この子と契約するのか、しないのか。どっちだ?」
「それは……」
直矢は言葉に詰まり、隣に座る金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の方へと視線を送る。金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、不安げに潤んだ瞳で、直矢の返事を待っていた。ここで契約を拒否すれば、この幼女は再びあの孤独な封印の中へと戻ることになる。
「いいか、直矢。こいつはお前の人生に関わる一大決心だ。同情だの何だので、安易に決めるんじゃねえぞ」
直矢の視線に込められた葛藤を読み取ったのだろう。亮彦は、敢えて厳しい言葉で彼の甘えを断ち切った。
「確かにお前が契約しなけりゃ、おキツネ様は勾玉ン中に逆戻りだ。だがな、中途半端な覚悟で背負いきれるほど、神様だの霊獣だのとの契約ってのは、甘っちょろいモンじゃねえんだ」
「…………はい」
「と、まあ、ここまでが、大人としての建前のお話だ」
「え?」
先ほどまでの厳しい表情から一転、亮彦の顔に、ふっと柔らかい笑みが浮かんだ。
「若いうちはよ、情だの勢いだので突っ走ることなんざ、いくらでもある。仮にお前がこの子と契約したとしても、このおキツネ様は元々ウチの神社の神様だ。それに、お前の親父さんにも、俺からちゃんと話通しといてやる。だから、何もかもお前一人に背負い込ませるような真似はさせねえよ。もしも契約をしねぇっていうのなら、他の契約者を探してやればいいだけだ」
「…………」
「ま、俺が言えるのは、これくらいのもんだ。あとはお前が決めろ」
亮彦の言葉に、直矢はただ、深く頷くことしかできなかった。