三匹目
「直矢君、そろそろ休憩……に」
凛とした声が物置に響き、観奈月 直矢の心臓が跳ねた。
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の一糸まとわぬ姿を真正面から凝視していた、まさにその瞬間。
最悪のタイミングで、|伏間 苑未《ふしま そのみにその現場を目撃されてしまったのだ。
この瞬間、直矢の中で、これまでかろうじて積み上げてきた平凡な日常と、苑未からのささやかな信頼が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
苑未の声に、錆びついたブリキ人形のようにぎこちなく直矢が顔を向ける。そこにいたのは、いつも柔和な笑みを浮かべているはずの苑未だったが、その美しい顔から感情というものが100%全てが抜け落ち、代わりに絶対零度のオーラが立ち昇っていた。
(……終わった)
直矢の脳裏をよぎったのは、あまりにも短い”絶望”の二文字。
今、彼の頭の中を占めているのは何だったろうか。苑未との気まずい関係か。彼女に対して抱いていた淡い恋心の終焉か。あるいは、社会的な意味での自分の存在価値の抹殺か。
恐らくは、その全て。
たとえ事故であったとしても、幼女の裸体を凝視するという行為は、この法治国家日本において、あまりにも重く、取り返しのつかない罪悪として認識されるのだ。
「おお、その気配は水鏡の巫女ではないか!」
そんな絶体絶命の状況など露知らず、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、ぱあっと顔を輝かせた。
そして、先ほどまで仁王立ちしていたタンスの上からぴょんっと軽やかに飛び降りると、あろうことかその素っ裸のまま、とてとてと苑未の元へと駆け寄っていく。
あまりにも自由奔放な幼女の行動。しかし、直矢は指一本動かすことすらできない。己が招いた罪の重さに、ただただ打ちひしがれるばかりだった。
「と、とりあえずは服を着ましょう、ね!」
苑未がかろうじて絞り出した声は、わずかに震えていた。
「ふむ。服とは窮屈で好かぬのじゃがな」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は心底不思議そうに小首を傾げる。
その無邪気な言葉を聞いた瞬間、直矢の目にわずかながら生気が戻った。そうだ、まだ諦めるのは早い。これは事故なのだと証明できれば……!
「そ、そうだよな! すぐに服を着ような、な!」
多少どもりはしたが、必死の思いで言葉を紡ぐ。これで、自分が脱がせたのではないと、苑未にアピールできたはずだ。そんな一縷の望みを抱いた直矢だったが──。
「主よ、服を着ている方が好みなのかえ?」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)がくりっとした瞳で直矢を見上げる。
「あ、あるじって……! ご、ご主人様っていう意味の!?」
「うむ。他に意味などあるまい?」
けろりと言い放つ金髪幼女(モフモフな尻尾付き)。
(…………今度こそ、詰んだ)
直矢の罪状リストに、新たな項目が極太ゴシック体で追記された瞬間だった。
裸の幼女に、よりにもよって主、すなわちご主人様と呼ばせて悦に入る変態。法治国家日本において、それは万死に値する────以下、省略。
「直矢君……少し、お話を聞かせてもらえるかしら」
苑未の顔には、もはや何の感情も浮かんでいない。それが逆に、底知れぬ怒りを示しているようで、直矢は背筋を凍らせながら、小さく頷くことしかできなかった。
*
居間の和室。
中央に置かれた座卓を挟み、一方には苑未と、いつの間にか合流していた妹の六花、そしてその隣にちょこんと金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が座布団に座っている。
対するは、味方など一人もいない、完全アウェイ状態の観奈月直矢。彼の左右には、誰も座ろうとしなかった。
美少女姉妹と幼女の三人掛けは、座布団一枚とはいえ多少窮屈そうに見える。しかし、法治国家日本において、口にするのも憚られるほどの重罪を犯した直矢の隣に、いたいけな幼女を座らせるなど、たとえ悪鬼羅刹であろうとも躊躇する所業であろう。
その配慮の結果が、この完璧なまでの孤立状態だった。
「要するに、このド変態は、こんな小さな子を裸にしてご主人様と呼ばせて辱めて悦に入っていた、と。そういうことね、お姉ちゃん」
六花が、心底汚物を見るかのような侮蔑の視線を直矢に向けながら、冷静に状況を分析する。
「言葉は悪いけど、六花……大体そんなところ、みたいね……。直矢君、どうして、こんな風に育っちゃったのかしら……」
うつむき加減で、悲しみに濡れた声で嘆く苑未。その瞳にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。
この状況で下手な言い訳をすれば、さらに深みに嵌るだけだ。それは、長年の経験から直矢自身が一番よく理解しているはずだった。
だからこそ、『断じて違う! 俺は無実だ!』と叫びたい気持ちを奥歯で噛み殺し、彼はただただ居心地の悪さに身を縮こまらせている。
唯一の突破口は、当事者である金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が直矢を庇ってくれることなのだが──。
「くー……すぴー……」
当の金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、あろうことか小さな頭をこっくりこっくりと揺らし、意識の半分以上を夢の世界へと旅立たせていた。もはや船を漕いでいるというレベルではない。完全に沈没している。
「とりあえず、この子のご両親に連絡して、直矢君には土下座して謝ってもらわないとね」
「そうね……。直矢君、大丈夫よ。私も一緒に謝ってあげるから。だから、正直に話してちょうだい、ねっ!」
真剣な眼差しで、涙を堪えながら直矢を説得しようとする苑未。その真摯さが、逆に直矢の心を抉る。
一方で六花は、相変わらず氷点下の視線で直矢を射抜き続けていた。
美少女姉妹からの二種類のプレッシャー。どちらがより直矢の精神を削っているかと言えば、それは火を見るより明らかだった。
間違いなく、苑未の純粋な涙と優しさだ。
幼女の裸体を凝視するという、一点の曇りもない重罪を犯した以外は完全に無実である直矢にとって、彼女のその信頼を裏切ったかのような状況が、何よりも辛かった。
「俺……本当に、何もやってないんだ……!」
苑未の瞳から、ついに一筋の涙が頬を伝った。それを見た瞬間、耐えきれなくなった直矢の口から、飾りのない本心が悲痛な叫びとなって迸った。
それは、計算も何もない、魂からの言葉。
だが、その叫びが事態を好転させることなど、もちろんあり得なかった。
「直矢君っ!」
それまで直矢の歪んでしまった成長をただただ悲しんでいた苑未。しかし、己の罪を認めようとしない直矢のその言葉を聞いた瞬間、彼女の中の何かが決定的に切れた。激しい怒りが、その華奢な体から迸る。
彼女の怒りは、直矢を大切な弟分として見ていたからこその怒り。そして、幼女を裸にしてご主人様と呼ばせて楽しむという、常軌を逸した歪んだ性癖の道へ進もうとする彼を止められなかった自分自身への不甲斐なさに対する怒り。それらが複雑に絡み合い、増幅された結果の、激しい激情だった。
「私は……私はね、直矢君のことを、本当に大切な弟だって思ってるのよ!」
「っ!」
弟、その言葉に、直矢の中で何かが音を立てて砕けた。それは、苑未に対して抱いていた淡い、本当に淡い恋心のかけらだったのかもしれない。
「……警察に、行きましょう」
静かに、しかし有無を言わせぬ口調で苑未は告げる。
「なっ……!? ちょ、待ってくれ! 本当に何もしてないんだって!」
警察。その単語はまずい。非常にまずい。
彼にやましいところがあるからではない。ただ、この状況を論理的に説明する術がないからだ。
金髪でモフモフの尻尾を生やした幼女が、神社の蔵に封印されていた勾玉からポンと現れました、などと警察が信じるはずもない。
もちろん、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が常人でないことが警察に伝わり、科学的に調査でもされれば、直矢の冤罪が証明される可能性もゼロではないだろう。
しかし、その過程で幼女趣味の変態という不名誉極まりないレッテルを貼られ、残りの人生を棒に振るリスクを考えれば、あまりにも分が悪すぎるギャンブルだった。
「だから! 何もしてないって言ってんだろぉ!」
直矢が、心の底からの叫びを再びぶちまけた、その時だった。バンッ! と、テーブルを強く叩きつける乾いた音が、緊迫した和室に響き渡った。
「直矢! いい加減にしなさいッ!」
怒声を上げたのは、意外にも六花だった。いや、彼女の場合、これが通常運転なのかもしれないが──そう思った瞬間、直矢の頭が少しだけ冷静さを取り戻した。
だが、冷静になればなるほど、自分の置かれた絶望的な状況が客観的に見えてくる。そして、ここまで姉妹に信用されていなかったという事実に、言いようのない悲しみが込み上げてきた。
その、まさにその時だった。
「ふがっ!」
大きく船を漕ぎすぎた金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が、勢い余って頭を座卓の角に強か打ち付けた。その衝撃で、ようやく彼女は長い夢路から現実へと帰還したらしい。
「ん……おお、何をしておるのじゃ、お主ら?」
寝惚け眼をこすりながら、いかにも状況が読めていないといった風情で、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)はのんびりと言った。その飄々とした態度が、この場の殺伐とした空気を一瞬だけ中和する。
「お、俺が君の服を脱がせたわけでもないし、ご主人様なんて呼ばせてないって、ちゃんと説明してくれよ!」
藁にもすがる思いで直矢は金髪幼女(モフモフな尻尾付き)に訴えかける。
「この状況で被害者を脅すな、変態!」
しかし、その必死の訴えは、六花の怒声によって無慈悲に遮断された。幼い頃からの刷り込みだろうか、六花に一喝されると、直矢は反射的に口をつぐんでしまう。だが──。
「貴様ら、妾の主に何をするか!」
今度は、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)がカッと目を見開いて激怒した。小さな体から、先ほどまでのんびりしていたのが嘘のような覇気が迸る。そして──。
「えっ……」
「あっ……」
突如として、苑未と六花がふらりと体を揺らしたかと思うと、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
「二人ともっ!」
直矢は慌てて座卓を回り込み、倒れた姉妹の元へ駆け寄る。そして恐る恐る二人の顔を覗き込むと──聞こえてきたのは、穏やかで規則正しい寝息だった。どうやら、ただ眠っているだけのようだ。
「ふぅ……」
最悪の事態は免れたと知り、直矢の口から安堵の溜息が漏れる。
「まったく、この者たちは何なのじゃ。主にそのような無礼を働くとは、水鏡の巫女といえども度が過ぎておるわ」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、ぷりぷりと頬を膨らませ、不機嫌そうに眠る二人への不満を口にしている。
やはり、この幼女が二人に何かをしたのだろうか。そう直矢は考えたが、いくら何でもファンタジーの世界でもあるまいし、そんなことができるはずがない、と即座に打ち消す。
だが、それでも目の前で大切な幼馴染たちが不自然に眠らされているのだ。直矢に、この幼女に尋ねないという選択肢はなかった。
「……なあ、二人に何かしたのか?」
「む? おお、なに、妾の霊力で少し眠ってもらっただけじゃよ」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は、何のことはない、とでも言いたげに、あっさりと答えた。
もし、今のこの非日常的な状況でなければ、直矢も霊力などという言葉を、子供の可愛らしい空想として一笑に付しただろう。
しかし、目の前には勾玉から現れたとしか思えない幼女。そして、先ほどまであれほど激怒していたにも関わらず、今はすやすやと眠ってしまっている伏間姉妹。
これらの事実を総合的に考えると、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の言う霊力という言葉を、もはや疑うことなどできなかった。
だから直矢は、彼女の言葉が真実かどうか、少しだけ試してみることにした。
「この二人を、元通り目を覚まさせることはできるか?」
「うむ、そのようなこと、赤子の手をひねるより容易いわ」
「……ちょっと待ってくれ」
「なんじゃ、主よ?」
仮に、今すぐ二人を起こすことができたとしよう。だが、それでは先ほどの詰問地獄が再開されるだけではないだろうか。
「二人が起きたら、ちゃんと説明してくれるか? 俺が君を裸にしたわけでも、主って呼ばせて喜んでたわけでもないって、誤解されたんだ。その辺を、重点的に頼む」
「そうであったか……。それは主には悪いことをしたのう。妾としたことが、迂闊であったわ」
先ほどから金髪幼女(モフモフな尻尾付き)と話していると、直矢は、この幼女の精神年齢は見た目よりもずっと高いのではないか、と感じ始めていた。現に今も、どこか遠い目をして状況を説明する直矢の様子から全てを察したのか、彼女は素直に謝罪の言葉を口にしたのだから。
「うむ、承知した。それでは、二人を起こすとしようかの」
そう言うと、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)の大きな瞳がきらりと赤く輝いた。何か得体の知れない、しかし強大な力が彼女の瞳に収束していくのを、直矢は肌で感じ取っていた。
そして、金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が小さく息を吐くと同時だった。
「ん……あれ……?」
「……私、何を……」
苑未と六花は、ほぼ同時にゆっくりと目を開けた。
その後、再び和室の座卓を挟んで、四人が向かい合うこととなる。
先ほどと違う点を挙げるとすれば、直矢の隣に、ちょこんと金髪幼女(モフモフな尻尾付き)が座っていることくらいだろうか。彼女の存在が、直矢にとって唯一の防波堤となり得ている。
「お主らには、どうやら多大な迷惑をかけたようじゃの。すまぬことをした」
金髪幼女(モフモフな尻尾付き)は深々と頭を下げ、真摯に謝罪した。その小さな体での懸命な謝罪の姿に、さすがの伏間姉妹も慌てて彼女をフォローしようとする。
「あ、頭を上げてください! こちらこそ、私が勝手に勘違いしてしまったのが原因なのですから!」
苑未が恐縮したように言った。
「そ、そうよ! 最近、直矢とあんまり会ってなかったから、その間に変な性癖に目覚めたんじゃないかって、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ疑っちゃっただけなんだからね!」
もちろん、性癖云々についてデリカシーなく口にしたのは六花である。
(お前、俺のことどんな目で見てたんだよ……)
と直矢は心の中で盛大にツッコミを入れたが、ここで下手に口を挟んでまたややこしいことになるのは避けたかったので、賢明にも沈黙を守った。
「じゃあ……直矢君は、その……小さな子が好きな変態さんになったわけじゃ、なかったのね……!」
心底安堵した、という表情で苑未が破顔する。彼女の美しい目には、嬉し涙がうっすらと滲んでいた。
その屈託のない笑顔を見て、ようやく誤解が解けたのだと直矢も胸を撫で下ろす。しかし同時に、何の疑いもなく”変態さん”と断定されていたという事実に対して、言いようのない複雑な感情が胸中を去来していた。
「ま、とりあえず、あんたのロリコン疑惑は保留ってことにしておいてあげるわ」
しかし、六花の中では、直矢のロリコン疑惑はまだ完全に晴れてはいないらしい。保留という言葉のチョイスに、彼女の性格がよく表れている。
そう考えた直矢は──。
(……もういいや。疲れた)
すでに精神的に消耗しきっており、もはや何も言い返す気力は残っていなかった。