十ニ匹目
異空間から元の公園へと引き戻された直矢の背中には、禍々しい礎の刃が深々と突き刺さっていた。折れた切っ先から、どくどくとおびただしい量の血が流れ出し、彼の意識は急速に遠のいていく。
「直矢っ!」「主よっ!」
六花とおキツネ様の悲痛な叫びが、朦朧とする直矢の耳にかろうじて届く。
だが、そんな彼らの絶望を嘲笑うかのように、異形の魔物が裂けた口を歪ませた。
「アは。アはは。私ヲ騙シてるト思っテたんでショ? デもお兄さんガ偽物ニなっテたノ、ずぅーっと前かラ気づいてタんだヨ。だかラ、本当ニ騙されテたのハ、オネエさん達の方だっタの。……残念だっタねェ?」
異形は、心底愉快そうに肩を揺する。
「ふフフ。同ジようナこトすル人、たクさンイタよ。デもネ、函ノ礎を壊せナイ人ハ、ソのまま刺さレテ礎の養分ニなルノ」
その言葉は、まるで子供が悪戯を自慢するような無邪気さで、しかし底知れぬ残酷さを伴って響いた。
「もし運良ク礎ヲ壊セた人ハネ、今のお兄さんミタいに、後ロかラ不意ヲつかレテ刺さレテ、結局ハ養分ニナるノ。ソウやっテ、みんなみんな函の力ニなッテ、この函ヲもっト強く、もっト大きくしテくれルんだヨ」
異形は、恍惚とした表情で続ける。
「ネェ、私、頭イいでショ?」
その無邪気な問いかけこそが、この魔物の最も恐ろしい側面を物語っていた。
「たわけがッ……!」
おキツネ様の瞳に、激しい怒りの炎が燃え盛る。
「六花よ、妾が一時、アヤツの足を引き止める! じゃからお主は、今のうちに主の手当てを頼むぞ!」
おキツネ様は叫ぶと同時、手にした扇子を翻し、再び魔物へと躍りかかった。その小さな体から放たれる妖力は、先ほどよりも明らかに激しく、そして切迫している。直矢の危機的状況が、彼女の冷静さを奪い始めているのだ。
魔物は、そのおキツネ様の猛攻を捌きつつも、余裕の笑みを崩さない。その視線は、明らかに瀕死の直矢と、彼に駆け寄ろうとする六花にも向けられていた。
六花は、おキツネ様が死に物狂いで稼いでくれている時間を無駄にすまいと、魔物の攻撃の合間を縫って、必死に直矢の元へと駆け寄るタイミングを計っていた。
そして、一瞬の隙が生まれた。おキツネ様が放った渾身の風の刃を、魔物がわずかに体勢を崩しながら避けた、まさにその瞬間!
「っ!」
六花は、泥に汚れるのも構わず直矢のそばに滑り込み、彼の背中に突き刺さったおぞましい刃の根元へと視線を落とす。だが、その傷のあまりの深さと、そこから溢れ続けるおびただしい量の血、そして何よりも傷口から立ち昇る不吉な黒い靄を見て、彼女の顔からサッと血の気が引いた。
どうしようもない。素人が下手に手を出せるような傷ではない。焦りが六花の心を支配する。
「う……ぐ、ああ……ああああぁぁぁぁぁぁっ!」
その時、直矢が獣のような苦悶の声を上げ、背中を弓なりに反らせた。傷口から立ち昇っていた黒い靄が、まるで意思を持った生き物のように、彼の体内に深く侵食し始めているのだ。
「動かないでっ!」
これ以上出血すれば、本当に命に関わってしまう。六花は必死に直矢の体を押さえつけ、動いて傷が深まることを避けようとする。
「アははッ! イイねェ、イイ悲鳴だヨ! 呪イガ、お兄ちゃンの中身ヲ、美味シく食べ始めタみたいだネェ!」
魔物の狂喜に満ちた声が響き渡る。
おキツネ様は、その声にさらに焦りを募らせ、動きにわずかな硬さが見え始めた。魔物は、その一瞬を見逃さない。
「隙アリ、だヨっ!」
魔物は、おキツネ様の猛攻をいなしつつ、牽制するように、手にした歪な刃をこともなげに直矢の方へと投げつける。おキツネ様の注意を逸らし、致命的な隙を生ませるための卑劣な一手だった。
「主よぉっ!」
おキツネ様の悲痛な叫びが木霊する。
「直矢っ!」
六花は、咄嗟に、己の身を盾にして直矢を庇おうと、その彼の体に覆いかぶさった。
だが、覚悟していたはずの衝撃と痛みは、いつまで経っても訪れない。恐る恐る目を開けると、予想だにしない光景が六花の目に飛び込んできた。
瀕死のはずの直矢が、投げつけられた魔物の刃を、己の血で濡れた右手で力強く掴み止めていたのだ。
「……くだらねぇ……こと、やってんじゃ……ねぇよぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」
直矢の口から迸ったのは、もはや人のものとは思えぬ獣の咆哮。それと共に、握りしめた魔物の刃が、音を立てて砕け散った。
それと同時に傷口から立ち昇っていた呪いの黒い靄が、喰われていく。彼の体内から溢れ出した淡い紫色の靄によって。
「ぐ……ぐぅぅぅぅぅぅ……うぉぉぉぉぉおっ!」
だが、直矢はさらに激しい苦痛の声を上げ始めた。それは、彼の内側から漏れた淡い紫色の靄を生じさせる力によるものだった。
「こ、この気配は……まさか、神薙の……!? ならば主は……! い、いかんっ! このままでは主の肉体がもたぬわ! ぉおおおおおおおぉぉおおおおおっ!!」
おキツネ様の顔色が変わる。彼女は何かを悟ったように叫ぶと、これまでにないほどの巨大な爆炎――もはやそれは炎というよりも、太陽の欠片を凝縮したかのような灼熱の奔流――を魔物に向かって放ち、強引に距離を取らせた。
そして、その勢いのまま、おキツネ様は直矢の元へと駆け寄る。今の彼女は、先ほどの爆炎で残された妖力の大部分を使ってしまったはずだが、もはやそんなことを気にしている場合ではなかった。
「いかん、いかんぞ主よ! 神薙の力に、お主の人の身が耐えきれぬ! このような形は本意ではないが……主よ、妾と正式な契約を結ぶのじゃ! 契約をすれば、妾がお主の魂に干渉し、その力の奔流を多少なりとも制御できるようになる! 名を……妾に、真の名を与えよっ!!」
おキツネ様が、必死の形相で直矢に呼びかける。
直矢の意識は、既に深い闇の中へと沈みかけていた。だが、その呼びかけが、かろうじて彼の魂に届いたのだろうか。何かが、心の奥底で強く響くのを感じ、彼は薄らと目を開けた。
脳裏に浮かぶのは、何年ぶりかに六花や苑未さんと、あれほど自然に笑い合えた、あの日のこと。そして、そのきっかけを与えてくれた、目の前の小さな恩人のこと。ずっと、考えていた。彼女に何か恩返しができないかと。そして、もし自分が彼女に何かを与えられるとしたら、それは──。
弱々しく、途切れ途切れに、しかし確かな意志を込めて、直矢は呟いた。
「……恩を……返す…つもりが……また、もらう…なんてな…………。……玉総……。ずっと、考えていたんだ……お前の、名前だ……」
「余計ナ事ヲ、すルナあぁァァァァッ!!」
魔物が、契約の成立を阻止せんとばかりに絶叫し、刃を振り下ろしてきた。
だが、それは金属の衝突音と共に退けられる。
「アンタこそ、もう余計な事しないでよっ!!」
六花が、直矢に預けていた霊力の短刀を握りしめ、決死の覚悟で魔物の進行を妨げたのだ。
「主よ……妾は玉総。この名を魂に刻み、主と共にある事を、ここに誓おう」
金髪幼女――玉総は、慈愛に満ちた瞳で直矢を見つめ、厳かに告げる。
「……ああ……よろしくな、玉総……」
直矢が力なく、しかし安堵の笑みを浮かべると、玉総の体が眩い光の粒子となる、と一瞬だけ妖艶な女性の姿が見えた気がした。だが、それは束の間。その姿が消えると、守るように直矢の全身を優しく包み込んでいった。
『一時、この玉総が、主のその強大すぎる力を受け止める器となろう。ゆえに案ずることはない。その力を、神すらも薙ぎ払った神代の力を、存分に振るうがよい』
玉総の凛とした声が、直矢の魂に直接響き渡る。
次の瞬間、直矢の体は凄まじい光奔に包まれ、その姿は急速に変貌を遂げていく。
光が収まった時、そこに立っていたのは、もはや平凡な少年・観奈月直矢ではない。
彼の背丈や体格が、別人のように大きく変わっている。さらには全身を、白銀と紫紺の入り混じった、生物的でありながらも金属のような硬質さを併せ持つ異形の鎧がごとき外骨格で身を覆っており、その姿は妖そのものだった。
「……六花、下がってろっ!」
変貌した直矢の声は、以前よりも低く、そして有無を言わせぬ力が宿っていた。
彼は、魔物へと視線を向けると、ただ一足飛びに距離を詰め、その異形の拳を叩きつけた。鈍い音が響くと、魔物は先ほどまでの余裕が嘘のように、いともたやすく吹き飛ばされる。さらに追い打ちをかけるように、直矢の手のひらから、玉総が操っていたものと同じ、しかし比較にならぬほど強大な蒼き狐火が放たれた。
「……もう、大丈夫だ」
「ちょっ……直矢!? アンタなの!? も、戻れるよね、ちゃんと!?」
六花が、驚愕と混乱の入り混じった表情で問いかける。
「…………」
沈黙する直矢。自分の今の姿を直接見ることはできないが、この異形の姿のままというのは、人間として非常にまずい状況であることだけは理解できた。
『安心せい。これは一時的な妖怪化に過ぎぬ。妾の仮初の体を妖力に戻し、その上で術を用いて、主の肉体に混ぜてあるだけじゃからのう。理屈は長くなる故に省くが、妖力を抜けば元に戻るとだけ覚えておけばよい』
玉総の落ち着いた声が、直矢と六花の頭の中に再び響いた。
「フざケルな、フザけるナ、ふザケるナァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
無様に地面を転がっていた魔物が、全身から黒い瘴気を立ち昇らせ、怒りと絶望の入り混じった咆哮を上げる。
『終いと行こうか、主よ』
玉総の言葉と共に、直矢の目の前に炎が生じ、一際大きく燃え上がる。その灼熱の炎の中から、ゆっくりと姿を現したのは、直矢自身の身長よりも遥かに長い、漆黒の両刃の大剣だった。
『九尾の神宝が一つ、名を崩天。今の妾の力では、これ一つを呼び出すのが精一杯じゃが、剣を学んだという主にとっては、最も相性が良い宝じゃろうて』
「……ああ。これならっ!!」
直矢は、その漆黒の大剣 崩天を手にすると、軽い木の枝でも持ったかのように、片手でたやすく振った後に鋭く構えた。
先ほどまでの体の痛みは嘘のように消え失せ、全身に力がみなぎっている。これが玉総の力によるものか、それとも彼女が言っていた神薙の力の恩恵なのかは分からない。だが、今なら戦える。それどころか、この魔物を圧倒できると、確信できた。
異形が、最後の悪あがきとばかりに、再び直矢へと襲いかかってくる。
しかし、覚醒した直矢にとって、もはやその動きは緩慢にしか感じらない。
「───ッ!」
迫る魔物の歪な刃が、直矢が手に握る漆黒の大剣によって薙ぎ払われる。刹那、空間が震えるほどの轟音が炸裂し、衝撃波が周囲の大気を切り裂いた。
魔物は、悲鳴を上げる間もなく吹き飛ばされると、公園の硬い地面を何度もバウンドしながら転がっていった。
「これで、本当のお終いだ」
『うむ』
小さく呟くと、彼は凄絶な|膂力≪りょりょく≫を込めて、両手で握りしめた崩天の切っ先を、自らの足元へと深々と突き立てた。
公園の地面が激しく震動し、巨大な亀裂が縦横無尽に迸る。地面が砕け、土砂が噴き上がり、地殻変動と呼ぶに相応しい、圧倒的な破壊の奔流が引き起こされた。
その凄まじい天変地異の如き衝撃によって、かろうじて体勢を立て直そうとしていた魔物の身体が、なすすべもなく木の葉のように宙へと放り出され、力無く虚空を舞う。
「イ、いヤだ……イやダァァぁァァァぁぁぁぁぁぁぁぁアアあア……!!」
ここに来て魔物は、初めて心の底からの恐怖に染まる。その声は、もはや魔の物と呼ぶに値しない、狩られる側の嘆きの声でしかなかった。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおっ!!」
直矢は、地面に突き刺さっていた崩天を、獣が如き咆哮と共に地面を切り裂く。そのまま地面に剛剣の軌跡を刻みながら、天を切るかのように振り抜いた。
それに応えるかのように、大地から天へと向かって、巨大な黄金の雷の柱が、万雷の轟音と共に昇り詰める。公園全体が真昼のように眩い光で染め上げられ、その中心にいた魔物は、声にならない悲鳴と共に、一瞬にして塵へと還した。
最後に残ったのは、わずかな焦げ臭い匂いと静寂のみ。
街の中に人知れずに存在していた怪異は、こうして討伐されたのだった。