十一匹目
走れ。
脳内で、誰かがそう叫んでいる。いや、自分自身が、そう命じているのだ。
この歪んだ公園のどこかにあるはずだ。あのおキツネ様が、念話で確かに伝えてきた『礎』というものが。
観奈月 直矢は、息を切らしながらも、赤い夕闇に沈む異形の公園を駆ける。おキツネ様が、己の妖力で作り出した直矢の幻影――それが、あの恐ろしい魔物の目を欺き続けていられる時間は、そう長くはないはずだ。幻が破られる前に、必ず見つけ出さなければならない。
おキツネ様と魔物との激しい戦闘が始まった直後、直矢は六花と目配せをし、二人から託された使命を果たすべく、戦場からこっそりと離脱していた。
『よいか、主よ。ここは函と呼ばれる、特殊な結界空間の一種じゃ。じゃから、この公園は異常なまでに広がり、出口も見当たらぬようになっておる。この種の結界には、その存在を維持するための礎が必ずどこかに存在する。主には、それを見つけ出し、破壊してもらいたいのじゃ』
おキツネ様の念話が、今も鮮明に耳の奥に蘇る。
礎が具体的にどんな形をしているのかは分からない。だが、大妖と契約できるほどの魂の器を持つ直矢ならば、その異質な存在を必ずや見破れるはずだ――あの小さな妖狐は、そう断言していた。
走りながら、ふと先ほどのおキツネ様の姿を思い返す。夕闇に映える金色の髪、くるくると感情豊かに動くモフモフの尻尾、そして絶体絶命の状況でさえ浮かべていた不敵な笑み。思わず、直矢の口元にも苦笑に近い笑みが零れた。
見た目こそ、か弱く愛らしい幼女そのもの。だが、自分と六花をあの絶望的な状況から救い出してくれたのは、紛れもない事実だ。
それに、彼女が現れてくれたおかげで、六花や苑未さんと、あれほど自然に笑い合えたのは、一体何年ぶりのことだっただろうか。
いつからだろう。確か、高校に上がる少し前あたりからか。
あの頃から、伏間姉妹とはどこか疎遠になっていたような気がする。単純に進学した高校が別々になったという物理的な距離もあった。
いや、それは言い訳に過ぎない。本当は、彼女たち二人を、明確に異性として意識し始めた時からだ。その時から、昔のように屈託なく、ただの幼馴染として接することができなくなってしまった自分がいた。それが一番大きな原因だった。
このまま、かけがえのない幼い日々の思い出も、彼女たちとの大切な繋がりも、全て失われていってしまうのではないか。そんな漠然とした焦燥感に駆られ、何かを変えるきっかけを掴もうと、半ば意地になって鏡田神社の物置整理のバイトを引き受けたのだが……。
あのおキツネ様は、そんな澱んでいた自分たちの関係性を、いとも容易く引っ掻き回し、そして結果的に取り戻してくれた。彼女のおかげで、失わずに済んだのだ。
自分は、六花のように霊力という特別な力を使えるわけではない。異形の魔物を前にして「お前の盾くらいにはなってやる」などと大見得を切ったが、本心を言えば、今すぐにでも安全な場所に逃げ出したいほど怖かった。
今この瞬間でさえ、自分がこうしてコソコソと動き回らなくても、あのおキツネ様であれば、一人で何とか事態を打開できてしまうのではないか、などと考えてしまう。
それでも――あの恩人の負担を、ほんの少しでも軽くできるというのなら。
「……やるしか、ないよな」
恐怖を振り払うように、あるいは、彼女のどこかコミカルな仕草や、ラムネ(油揚げ味)を至福の表情で味わっていた姿を思い出したのか。再び直矢の口元に、今度は確かな決意を伴った笑みが浮かんでいた。
なぜ、直矢がこの極限状況で、過去の感傷に浸るような余裕を見せていたのか。
それは、目の前に広がる光景が、あまりにも現実離れしていて、そして何よりも――怖かったからだ。
歪んだ公園の奥深く、遊具の残骸が散らばる中、土くれの上に無造作に突き立てられた、一本の折れた刃。
赤黒く錆びつき、刀だったのか、あるいは別の何かだったのか、もはや原型を留めていないその鉄塊。だが、今は見る影もなく朽ち果て、刃渡りの半分も残ってはいない。
にも関わらず、それが放つ異様なまでの存在感、禍々しいまでのプレッシャーは、直矢の矮小な存在など瞬く間に飲み込んで消し去ってしまうのではないかと錯覚させるほど、圧倒的だった。
これこそが、おキツネ様の言っていた礎に違いない。
『よいか、礎を見つけたら、それをほんの僅かでよい、元の位置からずらすのじゃ。それだけで結界は大きく揺らぐはずじゃ』
念話でそう指示したのは、おキツネ様ではなく、六花だった。いつの間にか、彼女も念話のようなもので意思を伝えてこられるようになっていたらしい。
正直なところ、こんな呪物じみた代物には指一本触れたくない。それが放つ不吉なオーラは、触れたが最後、魂ごと汚染されてしまいそうなほど強烈だ。だが、六花の言葉を信じるならば、直接触れて「ずらす」以外に、この状況を打破する選択肢はない。
案の定というべきか、先ほど試しに小石を投げてみた際には、礎の周囲に見えない壁のようなものがあり、あっけなく弾き返されてしまっている。遠距離からの干渉は不可能と見ていいだろう。
六花から託された、あの青白く光り輝く霊力の短刀。それを、それを隠すために無造作に巻かれていた布切れから、直矢は慎重に取り出す。冷たい金属の感触が、緊張で汗ばむ手のひらに吸い付いた。
『礎に手を出せば、あの魔物は必ず気づく。じゃから、少しでも動かしたら、何があっても振り返らず、急いでその場から逃げるのじゃぞ』
幼女のの声が脳裏に蘇る。彼女の言う通りならば、この礎に手を出した瞬間、間違いなくあの異形の魔物が、おキツネ様や六花本人を無視してでも、全速力でこちらに襲いかかってくるだろう。あの常軌を逸した速度で迫られたら、一瞬の躊躇が命取りになる。
だが、迷っている暇など、もう残されてはいなかった。
直矢は、霊力の短刀を逆手に握り締めると、意を決して、先ほど小石を弾いた不可視の壁に向かって力任せに振り下ろした!
パリンッ! と、硬質なガラスが砕け散るような甲高い音が、静まり返った異空間に響き渡った。
(まずい……! 礎に直接手を出さなくても、この段階で既に気づかれたかもしれない……!)
焦りが直矢の全身を貫く。彼はすぐさま、剥き出しになった礎の折れた刃へと霊力の短刀を伸ばし、それをテコの原理で動かそうとした。
「くっ……!?」
しかし、直矢の行動を予測していたかのように、礎の刃は自ら赤黒いオーラを立ち昇らせると、まるで生きているかのように宙へと浮かび上がり、鋭い切っ先を直矢へと向けて襲いかかってきたのだ!
(動かすだけでいいって言ったじゃないかよぉっ!)
直矢は心の中で絶叫する。
礎の刃は、意思を持った凶器と化し、不規則な軌道で宙を舞い、幾度となく直矢の命を狙って襲いかかってくる。錆びついているとはいえ、その斬撃は鋭く重い。掠めただけで、皮膚が裂け、肉が抉られるだろう。
直矢は、父親から叩き込まれた剣術の基礎と、火事場の馬鹿力でそれを必死に避け続ける。刃が頬を掠め、熱い感触が走る。肩口の服が裂け、赤い線が走る。
何度も、何度も、死の刃が迫る。その度に、直矢は持てる全ての集中力と反射神経を総動員し、紙一重でそれを回避し続けた。
そして、数合打ち合った後、ついに好機が訪れる。直矢の左肩を狙って直線的に突っ込んできた礎の刃を、霊力の短刀で強引に弾き飛ばす!
カンッ、と甲高い金属音と共に、礎の刃は勢いを失って地面へと落下した。
直矢は、その千載一遇の好機を逃さなかった。即座に落下した礎の刃を踏みつけ、その自由を奪うと、ありったけの力を込めて、霊力の短刀をその錆びついた刀身へと叩きつけた!
ガキンッ! という鈍い破壊音と共に、礎の刃は中央から真っ二つに折れ、禍々しいオーラが霧散していく。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
激しい息切れを起こしながらも、直矢はすぐさまその場を離れようとする。礎を破壊した以上、いつ魔物が襲ってきてもおかしくない。
だが──。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああっっっ!!!」
突如として、背中に焼け付くような、身を引き裂かれるような激痛が走った。
何が起こったのか理解できないまま、反射的に痛みの走った箇所を手で触れる。指先に、何か硬質で、そしてぬるりとした生温かい液体の感触があった。
嫌な予感を胸に抱きながら、ゆっくりと手を目の前に戻すと──その手は、おびただしい量の深紅の血で、真っ赤に染まっていた。
次の瞬間、直矢の視界がぐにゃりと歪み始めた。赤い夕焼け空が、まるで巨大な渦潮のように捻じれ、空間そのものが悲鳴を上げているかのような軋みを立てる。
結界が、解ける──。
気づけば、直矢は元の公園の、見慣れた地面の上に倒れ込んでいた。
そして目の前には、先ほどまで死闘を繰り広げていたはずの、あの忌まわしき異形の魔物と、金色の髪を振り乱してそれと対峙する幼女、そして驚愕に目を見開いてこちらを見つめる六花の姿があった。