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十匹目

 この絶望的な異空間において、まともに戦力として数えられるのは、皮肉にも最もか弱い姿をした、かつての大妖のみ。


 戦端が開かれ、真っ先に異形の前に躍り出たのも、金色の九尾を揺らす幼女──おキツネ様だった。


「せいっ!」


 凛とした気合一閃。おキツネ様の手にした雅やかな扇子が、鋭い風切り音を立てて異形へと振るわれる。


 しかし、異形はその攻撃を慌てて受け止めるでもなく、まるで踊るようにひらりと身をかわし、紙一重で扇子を避けるのみ。その動きには、まだ余裕すら感じられた。


一見すれば、扇子などというものは、およそ実戦には不向きな弱々しい武器にしか見えないだろう。


 だが、それはあくまで常識的な観点からの話。かつてとはいえ大妖とまで謳われたおキツネ様が手にする扇子だ。その扇面には、凝縮された妖力が渦巻き、触れればただでは済まないであろう凶器と化している。


 それを受け止めようとしなかったのは、目の前の異形が、決して油断などしていないという何よりの証左だった。


 おキツネ様の真の姿を知らずとも、その幼い外見に不釣り合いな底知れぬ力量の片鱗を、本能で鋭敏に感じ取っているのだろう。この極限状況で、相手の力量を見誤るような愚を犯すはずがない。


(……小賢しいヤツじゃ)


 おキツネ様は内心で毒づきたい気分だったが、その苛立ちを表情に出すことなく飲み込み、流れるような動きで再び扇子を振るう。


 だが、先ほどの一撃とは明らかにその質が異なっていた。あくまで相手の出方を探り、動きを制限するための、牽制の域に収まる軽やかな連撃。


 先の一撃は、万に一つの油断を期待して放った渾身の大振りだった。もしあれが決まっていれば、この戦いの最大の勝機となり得たはずだが、やはりそう甘くはなかったようだ。


「ほっ、せいっ、やっ!」


 おキツネ様は小気味よい掛け声と共に、牽制の打撃を繰り返す。扇子が宙を舞い、風を切り、時に鋭い斬撃となって異形を襲う。しかし、それらが異形の体に触れることは一向にない。いや、仮に数発掠めたとしても、今のおキツネ様の妖力では、決定的なダメージを与えることは難しいだろう。


「……どうシタノかなァ? さっきまでの威勢ハ、どこへ行っタンだイ?」


 異形の裂けた口から、相変わらず複数の声が不協和音となって反響し合う、くぐもった声が発せられる。その声音には、明らかにおキツネ様の攻撃を見切ったという嘲弄の色が滲んでいた。


「なに、ちーとばかし、準備運動に手間取っておるだけじゃよ」

「ふゥン……? それは、ご苦労なこったネ」


 異形は、さらに挑発の色を混ぜて揺さぶりをかけてくるが、おキツネ様がそれに乗ってくる気配はない。


 そのことに異形はわずかな不満を感じながらも、次々と繰り出される扇子の舞を、まるで蝶が花の間を飛び回るように、ひらりひらりと的確にかわし続ける。


 攻めあぐねているのは、お互い様だった。


 妖狐と魔物。両者の間には、目に見えない緊迫した駆け引きの糸が張り巡らされ、状況は完全に膠着していた。


 どちらも、その体躯は決して大きくはない。遠目から見れば、それはまるで子供同士のじゃれ合いか、あるいは舞踊の一場面のようにも見えるかもしれない。


 だが、これは紛れもなく、互いの存在を賭けた真剣勝負。一瞬の油断が、即、死へと繋がる過酷な戦いだ。


 ──全く、入り込む隙がない……!


 直矢と六花は、少し離れた場所から、固唾をのんでその常人離れした戦いを見守っていた。


 六花は、多少なりとも戦い方は学んでいる。それでも、あの次元の異なる殺し合いに割って入ればどうなるか。おキツネ様は、自分たちを守りながら戦うという、あまりにも大きなハンデを背負わねばならなくなるだろう。

下手をすれば、助けるどころか、致命的な足手まといになりかねない。


「……おキツネ様のやつ、こっちは全然見てないな」


 直矢が、緊張を押し殺した声で呟く。


「大丈夫。アイツは、私たちが何かしようとしてるの、分かってるから」


 六花もまた、視線は戦場に注いだまま、静かに答えた。


 異形は、確かに直矢たち二人の存在を常に意識の片隅に置いている。それが、おキツネ様に対して一気に攻勢に出られない、見えない(かせ)となっているのは間違いなかった。


 だが、この膠着状態がいつまでも続くわけではない。それがおキツネ様にとって有利に働くとは限らないのだから。


 ブランクが、あまりにも長すぎる。


 やがて、全盛期の力と現在の衰えた力のギャップが、おキツネ様の集中力を削ぎ、致命的なミスを誘発しかねない。その時が来るのは、時間の問題かもしれなかった。


「六花、無茶はするなよ。絶対にだ」


 おキツネ様は、依然として異形と対峙したまま、こちらに視線を向けることはない。だが、直矢たちの存在は常に感じ取っているはずだ。そして、直矢自身は、この戦いにおいて戦力として数えることすらおこがましいほどの力量しかない。


 だが、だからこそ、そこに付け入る隙が生まれる可能性もあった。


「大丈夫だって言ってるでしょ。アンタこそ、自分の心配だけしてなさいよ。……アンタにも、やんなきゃいけない仕事があるんだから」


 六花は、常の勝気な表情をわずかに緩め、直矢に向けて力強い笑みを向けた。

命のやり取りなどとは無縁の世界で育ってきた、まだうら若い二人。その心に、余裕などあるはずもない。


 それでも、彼らは互いの覚悟を確かめ合うように、一瞬だけ、柔らかな笑みを交わし合った。


 *


 戦いは、依然として均衡を保ったまま、一進一退を繰り返している。


 おキツネ様はこれまで、妖力の消耗を極力抑えるため、力を込めすぎないように、技のキレと手数で扇子を振るい続けてきた。


 だが、その戦法も長くは続かない。どれほど効率的に立ち回ろうとも、疲労は確実に蓄積していく。


(むぅ……少々、息が上がってきたのう)


 おキツネ様の額に、じわりと汗が滲む。


 封印によるブランクは、彼女の肉体と精神を、想像以上に蝕んでいた。体が、思うように動かない。イメージ通りに技が出せない。そして何より、全力で戦うことができないという焦燥感。


 もし、直矢との正式な契約が完了していれば、もう少しマシな戦いができたかもしれない。だが、今はない物ねだりをしても詮無いことだ。


 いかなる不満があろうとも、この逆境を乗り越えねば、未来はない。


「ほっ!」


 再び、おキツネ様の手から青白い狐火が放たれる。先ほどとは異なり、明確な意志を持って魔物へと飛んでいく、妖力の塊。


「オッ、よウヤく本気ヲ出す気ニナったかナァ?」


 異形は、その狐火を、右腕から伸びる長大な刃でこともなげに一刀両断にする。まるで熟練の剣士が果物を斬るかのような、鮮やかな手際だった。しかし、その声にはどこか、待ち望んでいた獲物がようやく動き出したかのような、愉悦の色が混じっていた。


 それに対し、おキツネ様は不敵な笑みを深めた。


「ふん。貴様ごときに、本気など出す必要もなかっただけじゃよ」


 異形の言葉を鼻で笑い飛ばし、おキツネ様はさらに挑発を重ねる。


「さてさて、その自慢の鈍、いつまで妾の舞に付いてこられるか、じっくりと見物させてもらうとしようかのう」


 その言葉と共に、おキツネ様の動きが一瞬だけ、ほんのわずかに大雑把になったように見えた。


(やはり、そうじゃったか。読み通りじゃ)


 おキツネ様は、内心でほくそ笑んだ。確信したのだ。


 この異形は、これまでの戦いで、自分よりも格下の相手ばかりを嬲り殺してきたに違いない、と。


 そのような一方的な蹂躙は、もはや戦いとは呼べない。それは、単なる狩りだ。


 表現は悪いが、狩りの神髄とは、いわゆる弱い者いじめに他ならない。抵抗する力を持たない相手を、一方的に、そして確実に仕留めることにある。


 もちろん、それを卑劣だと断じるつもりは毛頭ない。命を奪われそうになっている相手に、反撃の隙すら与えずに仕留めるのだから、そこには卓越した技術と知性が必要となるだろう。


 だが、その狩りに慣れ過ぎてしまえば、いざ本物の戦いに直面した時、致命的な支障をきたすことになる。


 戦いとは、互いに同じ土俵に立ち、互いの全てを賭して命を奪い合う、極めて純粋かつ苛烈な行為だ。


 決して、一方的な展開を狙う狩りと同じ土俵で語って良いものではない。


 だが、これまで狩りしか知らなかった者にとっては、その本質を見誤らざるを得ないだろう。


 なぜなら、敵に危害を加え、自らの生存を確保するための知恵が、彼らにとっては狩りという手段しか存在しなかったのだから。


(ふふっ。これで勝算は、さらに高くなったと見てよいじゃろう)


 おキツネ様は内心で勝利の算段を立てながら、視線だけは異形に固定しつつ、意識の半分を背後へと向ける。


 我が主(仮)が仕事を終えるのを待つ。それまでは、何としてもこの場を支え切る。


 その後ろに立つ、六花と直矢。二人の小さな背中を、金色の妖狐は全力で守り抜きながら。

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