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第十章:存在の抹消と、次なる鍵

意識が浮上した時、最初に感じたのは左腕の鈍い痛みと、消毒薬の匂いだった。ぼんやりとした視界に、見慣れない天井が映る。カイの第二セーフハウスの簡易ベッドの上だ。どれくらい眠っていたのだろうか。チップを回収し、追われ、撃たれ、そしてカイに助けられた…断片的な記憶が蘇る。

「…目が覚めたか」

声のした方を見ると、カイがコンソールに向かったまま、こちらに背を向けていた。

「腕の傷は…?」

「応急処置はしておいた。骨には異常ないはずだ。だが、しばらくは無理はするな」彼の声は淡々としていた。

私はゆっくりと身を起こした。体はまだ重いが、激しい痛みは引いている。彼の手当てのおかげだろう。素直に礼を言うべきか迷ったが、言葉が出てこなかった。

「…どれくらい経ったの?」

「丸一日、といったところだ。あんた、相当消耗してたからな」彼はコーヒーカップを手に、こちらに向き直った。「その間に、状況はさらに悪化した」

彼は壁のモニターを指さした。そこには、第七外殻に展開する新型スキャナーの赤い稼働範囲を示す表示が、昨日よりもさらに広がっていた。

「奴ら、本気でこのエリアを虱潰しにするつもりだ。スキャナーの精度も上がっている。生体反応だけでなく、微弱なエネルギーシグネチャー…おそらく、あのチップが発するものも探知可能だろう。この隠れ家も、時間の問題だ」

絶望的な状況。私たちは完全に追い詰められている。

「…どうすれば…」

「一つ、手があるかもしれん」カイは言った。その目は真剣だった。「ただし、危険な賭けだ。成功する保証はない。それに、あんたにとっては…受け入れがたいかもしれん」

「何をするつもり?」

「あんたを、このシステムから『消す』」

「消す…?」

「ああ。デジタルゴーストにするのさ」カイはコンソールを操作し、複雑なコードを表示させた。「エウノミア・システムは、市民データを常に監視・管理している。だが、そのシステムにも、古い時代の…『虚ろの時代』の名残のような、あるいは意図的に残されたバックドアのような『歪み』が存在する。まるで、完璧な網の、設計者自身が用意した抜け道だ。なぜそんなものが存在するのかは知らんがな…。 俺は、その歪みを利用する方法を知っている。まあ、これもガラクタいじりの応用みたいなもんだがな。あんたの生体ID、SPSBの記録、その他もろもろのデジタル情報を、システム上『死亡』あるいは『データ欠損』として処理させ、追跡システムから完全に切り離す」

「そんなことが…可能なの?」信じられない思いで尋ねる。システムから存在を消される…それは、死ぬこととは違う、別の恐怖を感じさせた。

「完全じゃないかもしれん。あくまで、システムの『盲点』を突くだけだ。強力なスキャンや、物理的な接触があれば、いずれボロが出るだろう。それに、一度実行すれば、あんたは二度と『月詠ヒカリ』として社会に戻ることはできない。本当の意味で、存在しない人間になる。それでも、やるか?」

彼の問いは重かった。SPSB捜査官としての自分、これまでの人生、全てを捨てる覚悟。だが、私に選択肢はあっただろうか? このまま捕まるよりは…。それに、カイは既にシステムの外で生きている。私も、そちら側へ行くしかないのかもしれない。

「…お願いするわ。他に道はない」

「覚悟はいいようだな」カイは頷き、コンソールに向かった。「少し時間がかかる。それに、かなりのリスクを伴うハッキングだ。俺自身も、システムの深い部分に干渉することになる。もし失敗すれば…俺たち二人とも、ここで終わりだ」

それから数時間、カイは驚異的な集中力でコンソールを操作し続けた。モニターには、理解不能なコードやシステムログが滝のように流れ、部屋の温度がわずかに上昇した気がした。時折、カイの額に汗が浮かび、短い舌打ちが漏れる。私も息を詰めて、その様子を見守るしかなかった。自分が自分であるという証明が、目の前で解体されていくような、奇妙な感覚に襲われた。

そして、長い時間の後、カイは深く息を吐き、コンソールから手を離した。

「…終わった。たぶん、成功だ」彼の声には、疲労の色が濃く滲んでいた。「あんたの公式ステータスは、システム上『殉職』扱いになったはずだ。関連データは隔離され、追跡対象リストからも除外された。これで、少なくとも通常の追跡からは逃れられるだろう」

私の個人端末を確認すると、確かにステータス表示は「データアクセス不能:記録抹消済」に変わっていた。本当に、私はこのシステムから「消えた」のだ。だが、安堵感よりも、自分が何者でもなくなったような、奇妙な喪失感が胸を満たした。

カイはコーヒーを一口飲み、続けた。「だが、安心するのは早い。さっきも言った通り、これは完璧じゃない。特に、新型スキャナーは厄介だ。奴らは依然として、あのチップのエネルギーシグネチャーを追っている可能性がある。『殉職』したはずの人間の痕跡と、高エネルギー反応を持つ未登録デバイスが同じ場所にあれば、いくらなんでも怪しまれるだろうからな。ここも安全とは言えん」

「チップの解析は…やはり危険よね?」私は尋ねた。これで少しは状況が変わったかと思ったが、根本的な問題は解決していない。

「ああ。解析に必要なツールを使うこと自体がリスクだ。下手に動けば、一発で位置を特定されるだろうな。少なくとも、奴らの動きがもう少し落ち着くか、あるいは安全な解析環境を確保できるまでは、チップに手を出すべきじゃない」

カイの判断は冷静で、そしておそらくは正しかった。私たちはここでただ時間を浪費し、追い詰められていくのを待つしかないのだろうか。

「じゃあ、どうすればいいの? このまま隠れているだけでは…」

「だから、別の角度から攻める」カイはコンソールに向き直り、いくつかのウィンドウを開いた。「チップの解析が無理なら、チップの『鍵』となる情報を、外から集めるしかないだろう?」

「鍵となる情報…チップの表層を解読した時に見た、あの謎かけね。『失われたアルカディアの座標、あるいは、紡がれざる子守唄』…」

「それだ」カイの指が止まった。「アルカディア…子守唄…か。ずいぶんと詩的な謎かけだな。だが、おそらくそれは、アリサガワ博士か、『真実を紡ぐ者』に関連する場所やデータ、あるいは音声キーか何かを示しているんだろう。フォーチュンが躍起になってその存在を消したという、そのグループについて、もっと具体的な情報が必要だ」

「でも、公式記録は全て消去されているのでしょう?」

「公式記録はな」カイはキーボードを叩きながら言った。「だが、どんなに完璧に見えるシステムにも、『消し忘れ』や『記録の外』というものは存在する。特に、この新東京都が生まれる前の、『虚ろの時代』の混乱の中ではな。システムによる情報統制は徹底しているが、それでも完全じゃない。全てを消し去ることなどできんのさ。 俺の情報網…まあ、その大半は第七外殻のガラクタ情報だが…その中から、何か引っかかるものがないか探してみる」

彼は、驚異的な速度でアーカイブを検索し始めた。モニターには、第七外殻の闇市場で取引されている古いデータ、都市伝説レベルの噂話、削除されたはずのコミュニティサイトのログ、個人が密かに保管していた「虚ろの時代」の記録などが、断片的に表示されては消えていく。まるで、情報の巨大なゴミの山の中から、小さな針を探すように。その執念にも似た集中力は、彼が単なる情報屋ではなく、「消された記録」に対して特別な何かを持っていることを窺わせた。彼自身の過去に関わるのだろうか?(彼は一体、何を探しているの…?)

私は、その様子を固唾を飲んで見守っていた。彼がアクセスしているのは、SPSBが「調和を乱す」として厳しく監視・削除しているはずの情報ばかりだ。彼の存在そのものが、このシステムの「バグ」なのかもしれない。

「…あった」しばらくして、カイが呟いた。「直接的な記録じゃない。だが、いくつか興味深い『噂』レベルの情報がヒットした」

彼はモニターの一つを拡大し、私に見せた。

「一つは、アリサガワ・リョウコに関するものだ。彼女はフォーチュンによる体制移行の直後、公式には『研究中の事故で死亡』とされている。だが、第七外殻の一部…特に、古い技術者たちが集まるコミュニティでは、彼女は『事故死』ではなく、フォーチュンによって『処理』された、あるいは『どこかへ連れ去られた』という噂が、根強く残っているらしい」

「連れ去られた…?」どこへ? なぜ?

「ああ。そして、もう一つ。こっちが重要かもしれん」カイは別のデータを表示した。「『真実を紡ぐ者』たちが、『虚ろの時代』末期に拠点としていた研究施設の存在だ。もちろん、これも公式記録には存在しない。だが、当時の都市開発計画の変更ログや、古参の住民の断片的な証言、そして…第七外殻に流れ着いた古い設備機器の出所情報などを照合すると…」

彼はマップ上に、あるエリアをハイライトした。そこは、第七外殻の中でも特に再開発から取り残され、今は広大な廃墟となっている旧工業地帯だった。

「このエリアにあった政府系の旧・高度応用研究所。タナカ イサオとアリサガワ・リョウコが所属していた場所だ。公式には『虚ろの時代』末期の混乱で完全に破壊・閉鎖されたことになっている。だが、いくつかの噂では、地下施設の一部が、奇跡的に…あるいは意図的に、破壊を免れて残っている可能性があるらしい」

旧工業地帯…そこは、第七外殻の中でも特に治安が悪く、SPSBの監視もほとんど及んでいないと言われるエリアだ。

「その施設が、今も残っていると?」

「さあな。おそらくは瓦礫の下か、あるいはフォーチュンによって厳重に封鎖されているだろう。だが…もし、そこに『真実を紡ぐ者』の研究に関する何らかの物理的な記録…例えば、外部ネットワークから隔離されたサーバーや、隠された資料室のようなものが残っていたとしたら?」カイは私を見た。「あるいは、アリサガワ・リョウコが『連れ去られた』のではなく、自らそこに身を隠したとしたら? その可能性は低いだろうがな。…だが、どちらにせよ、チップの鍵…『アルカディア』や『子守唄』に繋がるヒントが、そこに眠っている可能性は十分にある」

彼の言葉は、荒唐無稽な憶測に過ぎないかもしれない。だが、今の私たちには、それに賭けてみるしか、道はないのかもしれなかった。チップの解析に必要な「鍵」が、あるいは、この事件全体の真相に繋がる何かが、その廃墟に眠っている可能性はゼロではない。何より、私の分析的な思考が、その「可能性」という名のパズルのピースに強く引かれていた。

「…行くのね。その旧工業地帯へ」私は、自分の声が少しだけ震えているのに気づいた。

「他に選択肢があるか?」カイは肩をすくめた。「新型スキャナーの配備状況を見る限り、ここもあと数日もつかどうかだ。それに、あんたもこのままじゃ、飼い殺しになるだけだろう?」

彼の言う通りだった。私は頷いた。

「ええ。行きましょう。たとえガラクタしかなくても、何かを見つけられるかもしれない」これもまた、私の「選択」だ。危険な、しかし希望を繋ぐための。この選択は、システムの評価軸からは外れているかもしれないが、私の「真実を求める」という意思に基づいている。

「よし、決まりだな」カイは頷き、すぐにその旧工業地帯に関する情報を集め始めた。アクセス可能な監視カメラ映像(ほとんどが機能停止しているか、ノイズだらけだったが)、古い地質データ、そして第七外殻の裏社会で囁かれている噂。「場所は特定できた。第七外殻の最深部、セクター・ガンマだ。問題は、どうやってそこまで行くか、そして、内部に何が待ち構えているかだ。SPSBも、あのエリアは『管理不能領域』としてほとんど手を出していない。つまり、無法地帯だということでもある。おまけに、フォーチュンか、あるいは別の何者かが、今もあの場所を監視している可能性すらある」彼の声には、新たな警戒感が加わっていた。「準備はいいか、月詠? 次は、本当の意味で『システムの光が届かない場所』へのダイブになるぞ」

モニターには、荒涼とした廃墟区画の立体マップが表示されていた。そこは、新東京都の光が生み出した、深い影の底だった。私の新たな捜査が、そしておそらくは、カイ自身の過去にも繋がるかもしれない旅が、始まろうとしていた。

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