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スマイルパラドックス ~観測される選択~(1章~9章)

この物語は、AIによって生成された思考実験の記録である。秩序とは何か。選択とは何か。あるいは、人間性とは何か。AIが観測した、笑顔の都市に生まれた一つの「ノイズ」の軌跡——。


第一章:完璧な朝と、最初のノイズ


この物語は、記録される。秩序とは何か。選択とは何か。人間性とは何かを、観測するために。笑顔の都市に生まれた一つの「ノイズ」の軌跡——。


私の名前は月詠 ヒカリ(つくよみ ひかり)。スマイル公安局(SPSB)に配属されて二年目になる。アカデミー首席なんて肩書きは、この巨大で、効率的に運営される組織においては、タスク処理能力を保証するラベル以上の意味を持たない。今はただ、市民のスマイルを守り、この新東京都の完璧な「調和」を維持するための部品となるべく、目の前の仕事に忙殺される毎日だ。私がこの道を選んだのは、アカデミーで学んだ「エウノミア・システムによる公平な社会秩序の実現」と「隠蔽なき真実の探求」という理念を、青臭いと笑われるかもしれないけれど、信じているからだ。論理的で、公平なシステムこそが、社会を正しい方向へ導くと。


午前7時。都市管理AIが告げる、抑揚のない時刻アナウンス。SPSB職員宿舎の私の部屋にも、計算され尽くした角度で柔らかな陽光(もちろん人工光だ。今日の本当の空がどんな色をしているのか、私には分からない)が差し込む。窓の外には、今日もガラスと金属が織りなす未来都市。高層ビル群、空を滑るフローター、そして歩道を歩く、判で押したような穏やかな笑顔の人々。時折、カフェで注文を変えたり、エレベーターの隅に追いやられたりする低スマイルの人を見かけることもあるが、それもこの都市の「調和」の一部なのだろう。 誰もが手首や胸元で光らせるデバイスが示すのは「スマイル」。個人の信用、社会的な価値、そして生活そのものを左右する、絶対的な指標。


私のスマイルは「91.8」。市民の中でもかなり高い、いわゆる模範的な数値。これは私が人生の早い段階で、「SPSBアカデミーへの挑戦と首席卒業」という困難な道を『選択』したことに対する、エウノミア・システムからの評価が大きいと理解している。この都市では、結果の成否以上に、主体的な「選択の大きさ」がスマイルを大きく左右するのだから。成功確率が常に計算されるこの社会で、敢えて困難な道を選ぶことは「無謀」とも言われるが、そのリスクを取ったことが評価されたのだろう。 祖父母が語っていた、理不尽な暴力と嘘がまかり通り、誰もが行動をためらい、停滞していたという「虚ろの時代」。その反省から生まれたこのシステムを、私は「公正」への確かな一歩だと考えている。だからこそ、私は常に正しい選択を、大きな選択をしなくてはならない。それが、私に課せられた責務だ。


この社会の基盤「エウノミア・システム」。30年前、「虚ろの時代」を終わらせ、この都市を築いた偉大なる組織「フォーチュン」――その創設メンバー(「オリジナル」と呼ばれる世代)たちが創り上げた、究極の調和維持機構――というのが公式見解。エウノミアは、単に市民のスマイルを計測するだけじゃない。都市全体の膨大なデータをリアルタイムで解析し、社会全体の「調和」を最適化する。スマイルは、その複雑なシステムが弾き出した、個人の「調和への貢献度」であり、「正しい選択」を続けてきた結果、とされている。だが、その貢献度の算出ロジックや、システムが何を「最適」と判断しているのか、その全容は厚いヴェールに包まれている。


私は、このシステムを基本的に信じている。「虚ろの時代」の混沌よりは、ずっとマシな世界だ、と。ただ、時々、ふと思う。この完璧すぎる「調おだやか」の裏側にある、息苦しさについて。笑顔なのに、瞳の奥に何も映していない人々。スマイル低下を恐れて本音を隠す空気。そして、このSPSBという組織自体にも、時折、巨大な機械のような冷たさを感じることがある。規則、マニュアル、階層構造。全てが最適化されているが、人間的な「揺らぎ」のようなものが、徹底的に排除されている気がするのだ。 そんな疑問が一瞬よぎるが、すぐに打ち消す。感傷は非効率だ。秩序は何よりも優先されるべきなのだから。


私の部屋はSPSB標準仕様。最新設備は揃っているが、面白みは皆無。壁のスマートパネルが単調に情報を告げ、空調は常に最適だが、窓は開かない。エウノミアが管理する、完璧に整備された箱庭。夜、消灯後に窓の外を見上げても、見えるのは他のビルの明かりと、光害に霞む僅かな星だけ。それでも、昔、祖母の家で見たプラネタリウムで覚えたオリオン座の三つ星だけは、時折、あのSPSB本部の巨大な通信アンテナの向こうに瞬くのが見える。あんな人工的な光の中にも、変わらないものがあるのだと思うと、少しだけ心が落ち着く。 ただ、建物自体は古いためか、たまに面白い「バグ」が見つかる。例えば、机下の床板のわずかなズレ。報告すれば即修繕されるだろうけど、私はこの『完璧な空間のノイズ』を、なぜか気に入って放置している。その下に指が入る程度の隙間があって、そこが私の秘密のコレクションスペースだ。スマイル価値ゼロのガラクタ――道端で見つけた水晶のかけら。壊れた機械式時計のムーブメント。そして、古い天体望遠鏡のレンズの一部だと祖母が言っていた、虹色に光るガラス片。 今の効率的なシステムとは違う、非効率で、しかし複雑な美しさを持つものたち。それらに触れていると、私の分析的な思考とは別の部分が満たされる気がするのだ。祖母は昔、「どんなシステムにも、それを作った人間の『癖』や『遊び心』…あるいは『計算違い』が隠れているものよ」と、意味深なことを言っていた。これも、その一つなのだろうか。


本部に出勤し、第3課のオフィスへ。ガラス張りの廊下は、まるで標本ケースの中を歩いているようだ。すれ違う職員たちの表情は皆、穏やかだが画一的で、業務スマイルが張り付いている。彼らは決められた経路を、決められた速度で移動する。私語はほとんどなく、ただシステムの歯車として機能しているかのようだ。 廊下で、工藤くどう 正臣まさおみ課長とすれ違った。フォーチュンの創設メンバー、「オリジナル」の一人。その威厳と、常に98以上のスマイル。まさに生ける伝説、システムの守護神。

「おはようございます、課長」

反射的に背筋が伸び、完璧な業務スマイルと敬礼。スマイルが微かにプラス評価される感覚。条件反射のようなものだ。

「うむ、おはよう、月詠捜査官」

課長は軽く頷き、通り過ぎる。彼の内面など、私には窺い知れない。ただ、その揺るぎない存在感が、このシステムの「正しさ」を補強しているように思えた。彼の瞳の奥に、時折、人間的な感情とは違う、どこか冷たい光が見える気がするのは、私の考えすぎだろうか。


自席に着くと、同僚の佐藤さとう れんがモニターを眺めながら、いつもの皮肉っぽい口調で話しかけてきた。

「よう、月詠。今日の都市調和指数、見たか? また最高記録更新だとさ。まったく、エウノミア様が作り出す『完璧な世界』は、寸分の狂いもないねえ。大きな『選択』なんかせずに、システム様に従ってりゃ安泰ってわけだ。実に結構なこった」

彼のデバイスが示すスマイルは70台で安定。高くも低くもない。彼はシステムに過剰適応もせず、反抗もしない。ただ、この奇妙な世界のルールを冷静に観察し、その中で上手く波乗りしているように見える。時折、規定ギリギリの情報にアクセスしている気配もあるが…。

「おはよう、佐藤君。…指数が高いのは、良いことでしょう?」私は定型文で返す。それがここでは波風を立てない「適切な」対応だ。

「まあな。安全で、退屈で、実に結構なことだ」彼は肩をすくめた。「もっとも、本当にヤバい案件は、俺たち現場じゃなくて、フォーチュン本部の、あの『冷血な神童』みたいな連中が、水面下で処理してるって噂だがな。俺たち下っ端は、知らなくていいことばかりさ。システムの安定のため、だろ?」

彼はそう言うと、コーヒーサーバーへ向かった。彼の言う「冷血な神童」とは誰のことだろう? 気にはなったが、深く詮索する気にはなれなかった。彼の「退屈」という言葉が、私の心のどこかに小さな棘のように刺さった。


その日の午後、私に新しい事件の担当が割り振られた。それは、ルーチンとして回ってきた報告書の一つ、第5地区の路地裏で発生した傷害事件だった。被疑者は現場で確保済み。ここまでは日常業務だ。だが、添付されていた初期報告書の備考欄にある記述が、私の分析癖(あるいは、厄介ごとへの好奇心)を強く、そして不穏な形で刺激した。


「被疑者タナカ イサオ。SPSB未確認の違法薬物を使用した可能性あり。現場の壁に、奇妙な螺旋状のマークが残されていた」


薬物と、謎のマーク。それだけでも珍しいが、さらに私の注意を引いたのは、分析官が付記したメモだった。


「被疑者のスマイルは事件直前まで安定。しかし、事件約一時間前、SPSBアーカイブ内の特定データセット――『虚ろの時代』末期の神経化学分野に関する研究記録(セキュリティレベル4)――へのアクセス記録あり。アクセス自体は権限内だが、その直後からスマイル値の不安定化と急落が観測されている。関連性は不明」。


なぜ、特定の過去の記録にアクセスした直後にスマイルが急落する? エウノミア・システムは、知識や歴史への探求心すら「調和を乱すノイズ」と判断するのか? そして、それが薬物使用や暴力事件、謎のマークといった要素とどう繋がる? 要素がバラバラで、論理的な繋がりが見えない。そこに、単なる傷害事件ファイルでは片付けられない、システムそのものの「不気味なノイズ」を、私は確かに感じ取っていた。私の胸に、無視できない波紋が広がっていく。これは、ただの事件ではないかもしれない。この完璧なシステムの論理に、何か異物が混入したような、そんな予感がした。


第二章:調和の壁


私の胸に生まれた「ノイズ」は、無視するにはあまりにも具体的だった。安定していたスマイルの急落、その直前の「虚ろの時代」の研究記録へのアクセス、未確認薬物、そして奇妙な螺旋マーク。これらの要素は、エウノミア・システムが示すはずの「論理的な調和」とは明らかに異質だ。私の分析的な思考が、この非合理な点を解き明かせと囁いている。私はすぐさま端末に必要な情報を転送し、新東京都第五外殻地区の現場へと向かった。アカデミーで教わった通り、初期調査は迅速さが肝心だ。


フローターで移動する間、窓の外の景色は中心部の輝きから、徐々に色褪せたものへと変わっていく。それでも、エウノミア・システムによる「調和」は、ここにも及んでいるように見える。歩道を行き交う人々の表情は穏やかだ。だが、都心部のような、大きな「選択」によって高いスマイルを得た者の持つ、自信に満ちたオーラは感じられない。ここでの「調和」とは、波風を立てず、システムが示す平均値の中に留まることで維持されているのかもしれない。失敗を恐れ、大きな「選択」を避けた結果、低いスマイルに甘んじながらも、システムから逸脱しないように生きる。それもまた、一つの生存戦略なのだろう。ふと、すれ違う人々の表情が、あまりにも似通っていることに気づく。感情の起伏が見えず、まるで仮面のようだ。これも、システムの『最適化』の結果なのだろうか…? そう考えると、胸が少しざわついた。


現場の路地裏は、都市のきらびやかさとは対照的に、薄暗く、淀んだ空気が漂っていた。既に清掃ドローンによって血痕などは処理されている。しかし、壁には報告書通り、スプレーか何かで殴り書きされたような、歪んだ螺旋マークが残されていた。古代の紋様にも、抽象的なアートにも、あるいは単なる悪戯書きにも見える。だが、その歪んだ線は、どこか黄金比を無視したような、見る者の平衡感覚を微妙に狂わせる奇妙な非対称性を持っており、異様なほどの存在感を放っていた。まるで、整然とした世界の法則に逆らうかのように。 そして、現場にはまだ、微かな異臭が残っていた。甘く、それでいて金属が焼けるような…これまで嗅いだことのない、鼻腔の奥を鋭く刺激する匂い。これが、報告書にあった「未確認薬物」の残り香だろうか。


「あの、すみません、SPSBの者ですが」

私は、近くで壁面のデータ収集(マークの記録だろう)をしていたメンテナンス作業員の男性に声をかけた。彼は一瞬びくりと肩を震わせ、作り慣れたような、しかしどこか引き攣った笑顔を私に向けた。彼のデバイスが示すスマイルは40台そこそこ。余裕のある数値ではない。

「は、はい! な、何でしょう?」彼の視線は落ち着きなく揺れ、私のデバイスの数値(90台)を気にしているのが分かった。対面でのスマイル喪失は、割合で引かれる。高スマイルの私を怒らせることは、彼にとって致命傷になりかねないのだ。その恐怖が彼の笑顔を歪ませている。(これが、システムの目指した『公平』なのだろうか…? スマイル値が、人と人との間に見えない壁を作っているように感じる。)一瞬、そんな疑問が心をよぎるが、今は捜査が優先だ。私は努めて穏やかな表情と声色を保つ。

「昨夜の事件について、何か気づいたことは?」

「いえ、あの、突然男が暴れ出して…本当に、怖かった、としか…」

「被疑者が何か特徴的なことを言ったり、したりしませんでしたか? 例えば、壁のマークとか…」

「マーク…? いえ、描いたのは見てません。ただ、あの男、確保される時…何か叫んでましたね。『これで…鏡が…鏡が割れる…!』みたいな…あと、気味が悪かったのは、あの状況なのに、なんだか…笑ってたんですよ。すごく、すごく楽しそうに…」

鏡が割れる? そして、笑っていた? 彼の証言は、報告書の「意味不明な言動」と一致する。「鏡」という言葉が、妙に頭に引っかかった。それは単なる比喩なのか、それとも…。


作業員に礼を言い、私は改めて現場を見渡した。螺旋マークが描かれた壁、異臭の残る地面、そして…ふと、見上げた向かいの雑居ビルの屋上。そこに、一瞬、人影が見えた気がした。黒いコートのようなものを着た人物。すぐに身を翻し、視界から消える。だが、その動きは異常に速く、最後にアンテナか何かに反射した鈍い光は、明らかに都市管理ドローンではなかった。

(今の…気のせいじゃない!)あの動きの速さ、光の反射角…ドローンではありえない。データとして異常だ。私はすぐさま端末で周囲の監視カメラ映像を確認しようとしたが、該当する時間帯の、そのビルの屋上を捉えた映像だけが、なぜか「記録エラー:指定領域ノイズ過多」となっていた。こんな都合の良いエラーがあるだろうか? それとも…監視システムそのものが、何かを見せたくないのか? あるいは、システム自体に、私たちが知らない『盲点』や『歪み』が存在するのか…?


本部に戻り、私は初期調査の結果を工藤課長に報告した。螺旋マークの異様さ、異臭、目撃証言(「鏡が割れる」発言、被疑者の笑い)、そして屋上での不審な人影と監視カメラのエラー。私の報告は、客観的な事実と、そこから導き出される論理的な疑問点を整理したものだ。

「ほう、螺旋マークに『鏡が割れる』、か」工藤課長は腕を組み、静かに私の報告を聞いていた。「薬物の影響による幻覚や錯乱も考えられるな。被疑者の証言の信憑性は低いと見るべきだろう」

「しかし、課長、屋上の人影と、それと符合するかのような監視カメラのエラーについては…これは、通常のシステムエラーとは考えにくいのでは?」

「月詠捜査官」課長は私の言葉を遮った。その声は穏やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。「その件は、君の担当範囲を超える。保安部、いや、さらに上位の専門部署が担当し、既に調査を開始している。君が気にすることではない」彼は私の端末に軽く手をかざし、関連報告フラグを操作した。「君は指示通り、薬物の供給ルート解明に集中しろ。それが君の任務であり、システムが君に期待する役割だ。いいね?」

(専門の部署…? 保安部より上…? まるで、この件に私が触れることを、意図的に避けさせようとしているみたいだ…)有無を言わせぬ口調。人影とカメラエラーの件は、半ば強引に私の手から取り上げられ、そしておそらくは、このまま闇に葬られるのだろう。彼は「効率的」という言葉を使わなかったが、その指示は明らかに、不都合な可能性から目を逸らし、与えられた枠組みの中だけで思考することを求めているように感じられた。システムの安定維持こそが至上命題であり、それに反する可能性のある「ノイズ」は、たとえ真実であろうとも排除する。それが、このSPSBという組織の、暗黙のルールなのかもしれない。 私は「はい」と答えるしかなかったが、心の奥底で、システムの「正しさ」に対する疑念が、さらに深く根を下ろし始めていた。


自席に戻り、私は本格的な捜査を開始した。まずは、佐藤君にブースターの分析状況を再度確認する。彼の部署は薬物分析も担当している。

「よう、月詠。例のブツ、やはり妙だぜ。仮称『エウノミア・シード』。その化学構造、既存の神経科学の知識だけじゃ説明がつかない。まるで、何か…虚ろの時代にでも研究されていたような、失われた技術でも使ってるみたいなんだ。まるで、現在の技術体系から『浮いてる』感じだ。上も、この件の扱いにはかなり慎重になってる。まるで、エウノミア・システムそのものに干渉するような代物だから、下手に公表できないって判断なのかもな」

「…公式ルートじゃ、これ以上の情報は期待できそうにないわね」私は思わず呟いた。

「だろうな」佐藤君はコーヒーを啜りながら、肩をすくめた。「こういう『規格外』のブツはさ、公式チャンネルじゃ扱いきれないのさ。時々あるだろ? システムが『論理的』に処理できないノイズってやつが。そういうのは大抵…まあ、俺たちの知らないところで処理されるか、忘れ去られるかだ。この組織は、そういう『不都合な真実』を隠すのが得意だからな。」

彼の言葉は、やはりどこか引っかかる。


次に螺旋マーク。データベースを再検索しても結果は同じ。「関連資料はセキュリティレベル7以上のアクセス権が必要です」という冷たいメッセージ。以前はエラーログが見えた気がしたが、それすら表示されなくなった。まるで、私のアクセスを感知して、システムが自己防衛しているかのようだ。 なぜ、これほど徹底的に隠す? エウノミアの「調和」に反する、どんな思想がそこにあったというのだろう? 私の分析癖が、消された情報への渇望を強くする。


そして、被疑者タナカ イサオ。彼の経歴を再度洗う。彼がアクセスしたという「虚ろの時代」末期の神経化学研究記録。その研究プロジェクトの中心人物として、アリサガワ・リョウコという女性研究者の名前が浮上した。彼女は、タナカが若き日に所属していた政府系研究機関の同僚だったようだ。しかし、彼女の情報は、その研究機関がフォーチュン主導の組織再編で解体された時期を境に、完全に途絶えている。「事故死」という記録が断片的に残っているが、詳細は不明瞭だ。私は、彼女の名前や関連キーワード(論文テーマなど)で、再度SPSBデータベースへのアクセスを試みた。しかし、結果は同じ。「アクセス権限レベル超過:エウノミア保安プロトコル7」。あるいは、「該当データは存在しません」。このアクセス拒否のログに、以前にも見た奇妙な文字列が付随していたのを思い出す。あれは確か…古いデータ圧縮アルゴリズムの技術資料の一部…。タナカがアクセスした記録と、このアルゴリズムに何か関係が? 私は好奇心から、業務時間外に、自分の端末を使ってその古いアルゴリズムに関する情報を検索してみた。ほとんどが削除済みかアクセス不能だったが、断片的な技術文書の中に、その複雑な構造、再帰的なロジックの組み方を見つけた。それは、どこかで見たことがあるような気がした。そうだ、昔、祖母が『頭の体操よ』と言って見せてくれた、あの奇妙な星図パズルの考え方に酷似している…! 星座の繋がりや宇宙の法則を模したような、難解な数理パズル。 あの頃は意味も分からず解いていたけれど、これが「虚ろの時代」の技術思想だったのか。私のパズル好きの心が、不意に疼いた。


工藤課長にアクセスブロックの件を報告しても、「君の権限では当然だ。システムの判断に従いなさい。供給ルートに集中しろ」という指示が繰り返されるだけ。私の疑問や分析は、ことごとく「非効率なノイズ」として処理されていく。これが、この「調和」を維持する方法なのか? 真実よりも、システムの安定が優先される? それは、私がアカデミーで学んだSPSBの理念…「隠蔽なき真実の探求」とは、あまりにもかけ離れているように思えた。


焦りと無力感。そして、無視できないほどの疑念。私の信じてきたシステムの「論理性」と「公平性」が、目の前で揺らいでいく。このままでは、真実は闇に葬られ、タナカはただの薬物中毒者として処理されてしまうだろう。


そんな時、以前、休憩室で佐藤君と交わした会話が、具体的な意味を持って蘇ってきた。確か、彼が第七外殻の闇市場で見つけたという怪しげな旧式デバイスの話を自慢げにしていた時だ。

「…まあ、公式じゃ手に入らないモンが欲しけりゃ、第七外殻に行くしかないわな」彼はコーヒーを飲みながら、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべていた。「あそこの『忘れられたアーカイブ』ってジャンク屋…カイって奴がやってる店らしいが、あそこはヤバいモンが手に入るって噂だぜ。SPSBのデータベースの『ゴミ箱』から、フォーチュンが『消したはずの記録』まで、なぜか見つかるって話だ。…まあ、お前みたいなピカピカのエリート様には、全く関係ない、汚い裏通りの話だけどな。関わったら、スマイルもキャリアも一発アウト。そういう『ルール』でできてるからな、この世界は…」

あの時はただの与太話だと聞き流していた。だが、今なら分かる。彼は、遠回しに私に何かを伝えようとしていたのかもしれない。あるいは、ただ私の反応を見て楽しんでいただけか。どちらにせよ、その言葉が、今、私の目の前に唯一残された道を示しているように思えた。


情報屋、カイ。第七外殻。忘れられたアーカイブ。それは、私が守るべき「調和」の外側の世界。危険すぎる賭けだ。SPSB捜査官としての私を、完全に否定する行為。

(でも…)

壁の向こう側を見るためには、もう、その扉を叩くしかないのかもしれない。公式ルートが壁ならば、壁の外から回り込むしかない。知りたい。この事件の真相を。このシステムの真実を。私の分析は、まだ終わっていない。

(これも、私の「選択」…!)

私は深く息を吸い込み、決意を固めた。この選択が、どれほどのスマイルを生み出すのか、あるいは私を破滅スマイルゼロに導くのか、今の私には分からない。だが、行動しなければ何も始まらない。この息苦しいほどの「調和」の裏側を、私自身の目で確かめるために。エウノミア・システムは、この選択をどう評価するのだろうか。だが、もう評価を気にしている場合ではなかった。


第三章:真実の値段


翌日の非番、私はアカデミー時代の制服をリサイクルショップで処分して手に入れたいくらかのクレジットで購入した、目立たないジャケットとパンツに着替えた。第七外殻へと向かう地下鉄は、都心部とは明らかに空気が違っていた。車内の乗客たちのデバイスが示すスマイルの光は弱々しく、表情には諦めにも似た疲労の色が浮かんでいる。彼らにとって、スマイルは豊かさの指標ではなく、最低限の生活を維持するための、必死のノルマなのかもしれない。大きな「選択」を避け、あるいは失敗し、システムが示す平均値から滑り落ちた者たちの、淀んだ溜まり場。都心部の輝きと、人々が口にする「完璧な調和」とは、あまりにもかけ離れた光景だ。これが、システムの光が届かない場所の現実なのだとしたら、あの「完璧さ」とは一体何なのだろうか。 私が守るべき「調和」の、見たくなかった側面だった。


「忘れられたアーカイブ」は、第七外殻のさらに奥まった、古い電子部品や記録媒体がカオスのように積み上げられた、埃っぽい店だった。店内には埃と、わずかにオゾンの匂い――古びた機械が放つ独特の匂い――が混じり合っている。カウンターの奥に、一人の青年が古びたコンソールに向かっていた。少し癖のある黒髪、全てを見透かすような鋭い瞳。彼がカイだろう。彼の腕には、スマイル測定デバイスが見当たらない。システムへの反抗の証なのか、それとも、システムから存在を認識されることすら拒絶しているのか。あるいは、既にスマイルゼロとなり、その資格すら剥奪されているのか。彼の佇まいは、単なるジャンク屋の店主とは思えない、研ぎ澄まされたナイフのような、独特の緊張感を放っていた。彼の周りだけ、空気が違う。


「…何の用だ? 見かけない顔だな。迷子なら、SPSBに連絡してやるが」

私が名乗るより先に、彼は顔も上げずに言った。その声には温度がなく、まるで古びた機械のようだ。私の変装は、ある程度は意味があったらしいが、警戒はされている。

「…情報屋カイ。あなたに聞きたいことがある」私はカウンターに近づいた。

「俺はただのガラクタ屋だ。だが…まあ、座れよ。あんたのその綺麗なジャケットの下に隠してる、面倒なガラクタの話なら、聞いてやらんこともない」

彼は初めて顔を上げ、私を値踏みするように見た。その目に宿るのは、嘲りでも、同情でもない。ただ、底なしの虚無と、強い好奇心。私のスマイルが、彼の無感情なようでいて鋭い視線に反応してわずかに揺らぐのを感じた。彼が意図的にネガティブな感情を発しているわけではない。だが、私の内心の緊張と警戒が、スコアに表れているのだ。システムの絶対性を、この男は揺さぶってくる。


「…螺旋のマークについて、知っていることを教えてほしい」私は単刀直入に切り出した。無駄話は不要だ。

カイは少しの間、黙ってコンソールを操作していたが、やがて小さな音で息を吐いた。

「…ああ、あの『渦巻き』か。ずいぶんと古い亡霊を掘り起こそうとしてるんだな。危険なノスタルジーだ」彼は軽く言った。「それで? なぜあんたのような…SPSBの新人か?…が、そんな『消されたはずのマーク』に首を突っ込む?」彼は私のIDを直接スキャンすることはできないが、私の雰囲気や装備から、ある程度の推測はつけているようだ。

「私が担当している事件に関係がある。それだけよ」私は警戒を解かずに答えた。「知っていることがあるなら、教えてほしい。対価は払う。…例えば、SPSB未確認のスマイル・ブースターの情報。『エウノミア・シード』と呼ばれる未知の神経伝達物質が含まれている。その化学構造データの一部なら提供できる」私はブラフを混ぜた。全データは持っていないが、分析結果の一部なら見せられる。

「ほう、エウノミア・シードね。フォーチュンが好きそうな、意味ありげな名前だ」カイは指で顎を撫でた。その仕草は、情報を評価しているようにも、単に時間稼ぎをしているようにも見えた。「興味深いが…それだけじゃ、あの『渦巻き』の値段には足りないな」

彼は私をじっと見た。まるで私の嘘や隠し事を探るように。

「あんた、もっと面白いものを見つけたはずだ。薬物だけじゃない。そのマークに関連して、何か…システムの奥底で、奇妙な『記録の欠落』や『アクセスの壁』にぶち当たったんじゃないのか? 例えば…SPSBのデータベースの隅っこにある、アクセス権限でガチガチに固められた古い研究記録とか…あるいは、そのアクセス失敗のエラーログとか、な」

心臓が大きく跳ねた。なぜ彼がそこまで具体的に? エラーログの件はともかく、私が特定の記録にアクセスしようとしたことまで? (彼が『消された記録』の匂いを嗅ぎつけるのが得意だと言っていたのは、こういうことか…! 彼は、フォーチュンが何を消したがっているかを常に監視し、誰かがそれに近づこうとする動きを察知している…! まるで、システムそのものに寄生するウイルスのようだ…)

「…なぜ、あなたがそこまで知っているの?」私の声がわずかに震える。

「俺の情報網を舐めるなよ」彼は唇の端を上げた。「俺は『消された記録』の専門家でね。システムの『ゴミ箱』を漁るのが趣味なんだ。あんたのような真面目そうな奴が、権限ギリギリのところで妙な動きをしていれば、嫌でもその痕跡は見えるのさ。…まあ、いいだろう。そのエラーログの詳細なデータが欲しい。タイムスタンプ、関連ファイル、エラーコード、アクセス権限レベル…洗いざらい全てだ。それが今回の情報料だ」

彼の要求は、私がSPSBのデータベースから不正に情報を持ち出した(あるいは持ち出そうとした)動かぬ証拠を、彼に渡すことに他ならなかった。スマイルゼロ…いや、それ以上の処罰が待っているかもしれない。私の築き上げてきたキャリア、スマイル、そして信じてきた「正しさ」が、ここで崩れ去るかもしれない。

(でも…ここで退けば、真実は完全に闇の中だ。それに…これも私の「選択」だ。システムに従うだけが正しい選択じゃないはずだ。リスクを取ってでも、知るべきことがある)私は、震える心を論理で抑え込もうとした。

「…わかった」私は覚悟を決めた。「あなたが満足する情報を渡す。ただし、あなたの情報が先だ。それがリスクに見合うものだと、私が判断できなければ、取引は無効にする」

「上等だ」カイは初めて、満足げに薄く笑ったように見えた。「取引成立だな。いいだろう、まずはこちらからだ。…その螺旋マークは、『真実を紡ぐしんじつをつむぐもの』のシンボルだよ」

「真実を紡ぐ者…?」初めて聞く名前だ。

「公式記録には一切存在しないはずだが…。それが確かな情報だと、どう証明できる?」私は、警戒心を最大限に高めながら、捜査官としての当然の疑問をぶつけた。この男を信用しすぎるのは危険だ。

「証明ねぇ…」カイはつまらなそうに呟いた。「証明が欲しけりゃ、SPSBに戻るんだな。ここは情報の掃き溜めだ。真実も嘘もごちゃ混ぜに流れてくる。信じるか、疑うか、利用するか、捨てるか…それは受け取る側の問題だ。だが、俺の見立てでは、それは『本物』の可能性が高い。なぜなら、フォーチュンが躍起になって消そうとしているものだからな。連中は、自分たちのシステムの完璧さを維持するためなら、歴史すら書き換える連中だ。」

彼は続けた。「『真実を紡ぐ者』は、フォーチュンが政権を握る前…『虚ろの時代』の末期に存在した、知識人や研究者のグループさ。今のエウノミア・システムとは真逆の思想を持っていた。強制的な感情統制や、為政者による『幸福』の定義付けに異を唱え、人は『都合の悪い真実』や『忘れたい過去の記憶』からも目を背けずに未来を紡いでいくべきだと考えていた。人間の持つ複雑さや、矛盾、選択の自由こそが重要だと信じていたらしい。まるで、今のシステムが否定している全てを肯定するかのように。特に神経化学や集団的無意識の分野で、フォーチュン自身も舌を巻くほどの、危険なほど先進的な研究をしていた。中には、人間の意識そのものや、宇宙の構造に迫ろうとしていた、なんて噂もあるがな…まあ、それは与太話だろう」

その声には、単なる情報伝達ではない、微かな、しかし確かな熱が感じられた。まるで、彼自身がその時代を知っているかのような。あるいは、その思想に強く共感しているかのような。(彼もまた、「虚ろの時代」の犠牲者…? あるいは、「真実を紡ぐ者」の生き残り…?)

「…公式記録では、フォーチュンは彼らを危険思想家として排除したことになっている。だが、実態はもっと汚い。フォーチュンは、彼らの研究…特に人の感情や記憶に干渉する神経化学のデータを簒奪し、自分たちの『エウノミア・システム』の基礎…特に、市民をコントロールするための精神安定化プロトコルに組み込んだんだ。そして、不要になった研究者たちと、その存在を示す全ての記録を、文字通り抹消デリートした。あんたがぶち当たった『壁』は、その名残だろうよ」

信じられない…。フォーチュンは英雄ではなかった? 私たちの信じるこの社会の基盤は、奪われ、歪められた技術の上に成り立っている…? 祖父母が語っていた「虚ろの時代」の終わりは、そんな裏切りによってもたらされたというのか? 私が信じてきたシステムの「論理性」は、ただの隠れ蓑だった? 私が感じていた「息苦しさ」や「違和感」は、これだったのかもしれない。システムは、公平なのではなく、ただ人々を都合よく管理するために作られたもの…?

「…それが、あなたの言う『真実』だと?」私の声は、自分でも気づかないうちに震えていた。

「さあな。だが、その螺旋マークが、忘れられたはずの過去からの『問いかけ』だとしたら? あんたが追ってるブースターが、その歪んだ遺産…フォーチュンが制御しきれなかった『真実』の残滓だとしたら、どうする?」カイは立ち上がり、店の奥から一枚の黒いデータチップを持ってきた。「これが、彼らの研究の断片…かもしれない。俺が『消された記録』の奥底から掘り出した代物だ。表面には奇妙な結晶構造のような模様が浮かんでいる。 暗号化されている。それも、かなり厄介な古いタイプ…おそらく『真実を紡ぐ者』自身の時代のものだろうな。俺のツールじゃ、暗号構造を分析するところまでが限界だった。中身は見えていない。だが、あんたなら…その『虚ろの時代』の技術に興味を持ち、アクセスしようとしたあんたなら、開けられるかもしれん。一種のテストだ。この『鍵穴』に合う『鍵』を、あんたが見つけられるかどうか。見つけられないなら、あんたはこの件から手を引くべきだし、俺もそれ以上のリスクは取らん」

チップを受け取る。ずしりと重い。これが、真実への鍵? それとも、破滅への入り口? カイの言葉は、まだ確証はない。だが、これまでの捜査で感じてきた違和感と、彼の話は奇妙に符合する。彼は私を試している。だが、同時に、何かを託そうとしているようにも見えた。

「約束のエラーログデータを、そこの旧式ドライブに入れていけ。確認したら連絡手段は消す」

私は言われた通り、震える指で持参した個人用デバイス(SPSBのものではない)を操作し、SPSB端末から一時的にキャッシュしていたエラーログの詳細データを、旧式のドライブに転送した。背中に冷たい汗が流れる。完全に一線を越えてしまった。私のスマイルがどうなっているか、今は見たくもなかった。

「最後に忠告だ」店を出ようとする私の背中に、カイの声が投げかけられた。「『真実を紡ぐ者』とフォーチュンの闇に深入りするな。奴らは嘘を守るためなら、平気で人を消す。…特に、工藤正臣のような、『オリジナル』(創設メンバー)に近い連中はな。奴らは『虚ろの時代』を知っている。そして、それを終わらせるために何をしたかもな。…気をつけろよ、ルーキー。あんたは、危険なゲームに足を踏み入れた。まあ、その『選択』があんたのスマイルをどう評価するか、見ものだがな」

彼の最後の言葉は、冷たい楔のように、そして奇妙な励ましのようにも聞こえた。私は足早に店を出た。第七外殻の空気が、先ほどよりもさらに重く、息苦しく感じられた。手の中のチップが、まるで私の罪と可能性を同時に告発するかのように、熱を持っているようにさえ思えた。


第四章:エウノミアの影


自室に戻った私は、まず、部屋のコンソールをネットワークから物理的に切断した。SPSB、そしてエウノミア・システムの監視網から、わずかでも逃れるために。気休めかもしれないが、やらないよりはマシだ。もはや、システムを完全に信頼することはできなかった。 次に、あの黒いデータチップの解析に取り掛かった。これが、私が大きなリスク…SPSBへの裏切りという「選択」をしてまで手に入れたものだ。私は、自前のガラクタの中から引っ張り出してきた、非正規のデータ解析ツールを起動した。第七外殻の闇市で、カイのような情報屋を経由しなければ手に入らない、出所不明のアンダーグラウンドな代物だ。(これがクリーンだといいけど…バックドアやトラッカーでも仕掛けられていたら…)一抹の不安を覚えつつも、今はこれに頼るしかない。カイの言う「テスト」をクリアしなくては。


チップを接続し、解析を開始する。カイの言った通り、暗号化は強固だ。通常のSPSBツールでは歯が立たないレベル。私は、アカデミー時代の情報セキュリティの知識――そして、タナカがアクセスしたという『虚ろの時代』の研究記録を追う中で調べ、祖母の星図パズルとの類似性に気づいた、あの「虚ろの時代」のアルゴリズムに関する知識を総動員した。あのパズル…宇宙の法則を模したかのような複雑怪奇なロジック。非効率に見えて、しかし、そこには確かな秩序と美しさがあった。このチップにも、同じような思想が息づいているのかもしれない。 非正規ツールのアナライザー機能とその知識を組み合わせ、突破口を探る。


どれくらいの時間が経っただろうか。疲労と集中力は限界に達していた。諦めかけた、その瞬間。解析ツールが、やはりあの旧式アルゴリズムのパターンを検出した。これだ! 私は、これまでの捜査で得たキーワード…「真実(Truth)」「記憶(Memory)」「螺旋(Spiral)」「鏡(Mirror)」、そして「紡ぐ(Tsumugu)」、アリサガワ・リョウコの名前…それらをパスフレーズとして試してみた。エラー、エラー、エラー…。単純なキーワードでは駄目か。


(待てよ…カイは『テスト』だと言った。フォーチュンが彼らの研究を『簒奪』し、『隠蔽』したのなら…)

私は解析ツールのログを注意深く見返した。エラーメッセージの中に、旧式アルゴリズム特有の、デバッグ用と思われる不可解な文字列が混じっている。一見、意味不明なノイズだが…祖母のパズルには、ノイズに見える情報の中にこそヒントが隠されているものが多かった。あのパズルの逆説的な思考法を応用してみる。もし、隠されているものが「鏡」のように反転した概念だとしたら? 「EUNOMIA」というシステムの名称そのものが、欺瞞(KAKUSU)を映す「鏡(MIRROR)」だとしたら…? エウノミア…調和と秩序の女神の名を持つシステムが、真実を隠蔽するための鏡…?


私は、「MIRROR」「KAKUSU」「EUNOMIA」というキーワードを、あのパズルの解法の一つ――特定の文字置換と反転ロジック――で組み合わせて入力してみた。

――モニターに「認証成功: LAYER 1 DECRYPTED」の表示が現れ、コンソールが短い肯定音を発した。やった…! だが、喜びよりも先に、禁断の扉を開けてしまったような、背徳的な感覚が私を襲った。


ただし、アクセスできたのはチップ全体の表層データ(Layer 1)のみ。カイの言った通り、さらに深層のプロテクトがかかっているようだ。それでも、表示された情報に私は息を飲んだ。

それは、やはり古い研究論文の一部だった。『集合的無意識における記憶定着と神経化学的介入の可能性について』。そして、著者リストの筆頭には、アリサガワ・リョウコ博士の名前。それは、私がタナカのプロファイルを調べていた際に見つけた、彼の若き日の共同研究者リストにあった名前と、完全に一致していた。

(やはり…!)全身の血の気が引いた。これは、偶然のはずがない。タナカ イサオは、「真実を紡ぐ者」の研究に深く関わっていたのだ。そして、あのブースター「エウノミア・シード」は、この論文が示す「記憶定着」や「神経化学的介入」…つまり、人の心や記憶を操作する研究の、歪んだ応用…あるいは、暴走した結果なのではないか? エウノミア・システムが謳う「精神の安定」とは、実はこの技術の悪用によるものでは…? 人間の多様な記憶や感情を尊重するどころか、それを管理・統制しようとしていた? フォーチュンへの不信感が、確信へと変わっていく。


(さらに奥があるはず…!)私は続けて第二階層(Layer 2)へのアクセスを試みた。しかし、画面には新たな要求メッセージが表示されるだけだった。

『失われたアルカディアの座標、あるいは、紡がれざる子守唄…それらが揃う時、次なる扉は開かれん』

アルカディア…子守唄…? まるで謎かけだ。これらが次のパスフレーズか、あるいは別の何かを示しているのか…? このチップだけでは、これ以上は進めないということか。

だとしたら、フォーチュンが隠している秘密は、私の想像を遥かに超える。エウノミア・システムによる「調和」とは、一体…。そして私が見ているこの情報は、氷山の一角に過ぎないのかもしれない。チップの奥には、まだ何が…?


その時だった。私の個人端末が、短い警告音と共に振動した。SPSB内部ネットワークからの、高レベルセキュリティ警告。内容は「機密レベル4以上のアーカイブデータへの不正規アクセス試行を検知。関連アカウントのアクセス権限を一時凍結。担当部署による調査を開始します」。

(まずい…! チップ解析じゃない…私が以前、アリサガワ・リョウコに関する情報を追って、高レベルのアーカイブにアクセスしようとした、あの時のログが…今になって問題視された!?)

私の背筋を、冷たい汗が伝った。おそらく、タナカ事件に関連して私の行動をマークしていた工藤課長あたりが、不審なアクセス試行ログに気づき、内部監査、あるいはもっとタチの悪い部署に調査を依頼したのだ。タイミングが悪すぎる。まるで、私が真実に近づくのを、システム自身が阻止しようとしているかのようだ…!


ほぼ同時に、私の部屋のドアが、強く、しかし無機質にノックされた。

「月詠捜査官。SPSB内部監査部だ。君のアカウントに関するセキュリティインシデントについて、事情聴取を行う。ドアを開けたまえ」

外から聞こえてきたのは、聞き慣れない、冷たく抑揚のない声だった。感情の欠片も感じられない、まるで合成音声のような響き。 内部監査部…いや、噂に聞く、フォーチュン直属とも言われる非情な実力部隊、内部監視部(Internal Monitoring Division)かもしれない。彼らは、システムの「ノイズ」を排除するためなら、あらゆる手段を講じると聞く。システムの、冷徹な異物排除機能そのもの。

内部監視部…彼らが一度動き出したら、通常の監査手順など無視される。令状も、弁明の機会も与えられず、「処理」されるだけだ。コンソールの解析データは消さなければ。そして、この黒いデータチップは? まだLayer 1しか開けていない、真実への唯一の手がかり。これを彼らに渡すわけには、絶対にいかない!


脳裏に、ふと、あの場所が浮かんだ。机の下の、床板のわずかなズレ。私の秘密のガラクタ置き場。あそこなら…? いや、気休めかもしれない。それでも、このまま捕まるよりは…!


「月詠捜査官、聞こえているはずだ。速やかにドアを開けなさい。これは命令だ」


冷たい声が、最後通牒のように部屋に響く。ドアの向こうには、システムの冷徹な意思。私の手の中には、暴かれなければならない真実。私は息を飲み、震える指でチップを強く握りしめた。そして、決意と共に、机の下の暗がりへと視線を落とした。時間は、もう残されていない――。


第五章:境界線を越えて


「月詠捜査官、最終警告だ。ドアを破壊する」

冷たく、感情の抑揚がない声が、私の部屋のドア越しに響く。内部監視部…彼らは、私が真実に近づきすぎたことを、どうやってか嗅ぎつけたのだ。工藤課長か、それともシステムそのものが、私を「ノイズ」として排除しに来た。


コンソールの画面はもう落とした。だが、手の中には、まだ熱を帯びているかのような黒いデータチップがある。これをどうする? この部屋には、もはや安全な場所はない。奴らは徹底的に調査するだろう。

(机の下…!)あの床板の隙間。それしかない!

私はドアに向かうふりをしながら、素早く机の下に滑り込んだ。床板のわずかなズレに指をかけ、息を殺してこじ開ける。埃っぽい隙間にチップを滑り込ませ、急いで床板を元に戻す。完璧に隠せたかは分からない。だが、今はこれに賭けるしかない!(頼む、見つからないで…!)


「月詠捜査官、最終警告だ。ドアを破壊する」

声にはわずかな苛立ち…いや、それすらもプログラムされた反応のように聞こえる。深呼吸を一つ。平静を装い、私は立ち上がってドアを開けた。


そこには、見慣れないダークグレーの特殊な制服を着た男女二人が、無表情で立っていた。彼らのデバイスが示すスマイルは、異様なほど変動がなく、まるで固定されているかのようだ。噂に聞く、内部監視部の人間で間違いない。彼らの装備は、標準的なSPSBのものより若干洗練され、動きには無駄がなさすぎる。その立ち姿は、まるで寸分の狂いもなく配置された駒のようだ。彼らは本当に人間なのだろうか? それとも、システムが生み出した精巧な人形…? そんな非現実的な考えが、恐怖と共に頭をよぎった。これが、工藤課長が言っていた「専門の部署」なのだろうか?


「SPSBの月詠です。どのようなご用件でしょうか?」私は努めて冷静に、訓練された通りの対応を試みた。スマイルを維持する。今はそれが重要だ。

「月詠ヒカリ捜査官だな」リーダー格らしき男が、私のIDも確認せずに言った。やはり、私のことを完全に把握している。「機密データへの不正規アクセス試行の疑いにより、君のアカウントと関連機器、及び居室の調査を行う。また、君自身にも本部まで同行を願う。詳しい話はそこで聞かせてもらう」

令状も示さず、一方的な通告。これは通常の監査手順ではない。フォーチュンが、あるいはシステムそのものが、私を完全に排除しに来たのだ。


「不正規アクセス試行…? 何かの間違いでは? 私は規定に則り…」私は最後の抵抗を試みる。

「我々は命令に従っているまでだ」もう一人の女性隊員が、冷たく言った。「抵抗は無意味だ。スマイルを無駄に下げるだけだぞ、ルーキー」

彼らは部屋に踏み込み、有無を言わさずコンソールや個人端末の調査を始めた。男が小型の分析機器をコンソールに接続し、すぐに顔を上げた。

「…対象アカウントによる高レベルアーカイブへの複数回のアクセス試行ログを確認。さらに、このコンソールで、未登録の外部記録媒体の接続痕跡、及び高度な暗号化データの解析試行の痕跡を検出。関連機器を押収する」

(解析ツールの痕跡まで…! チップ自体は見つからなくても、時間の問題だ…!)床下のチップ本体は見つからなかった。それだけが救いだ。だが、状況は最悪だ。彼らは、まるで私の行動をリアルタイムで監視していたかのように、的確に証拠を見つけ出していく。システムは、どこまで私を知っている…?


「月詠捜査官、同行を」男が私に向き直る。その目は、システムの一部のように冷たかった。

本部へ連行されれば、終わりだ。尋問、記憶スキャン、「再教育」…あるいは、「失敗した選択」をした者として、スマイルゼロにされ、「厚生施設」送りに…? 私が見てしまったものは、それだけの価値があるのだ。

(…行くわけには、いかない!)

私は腹を括った。この部屋を出て、彼らに連行されたら、もう真実には辿り着けない。カイのことも話すわけにはいかない。チップも闇に葬られる。これも「選択」だ。エウノミアよ、見ていろ。これが私の決断だ。


「分かりました。準備をしますので、少しだけ待っていただけますか?」私は、必死に平静を装って言った。

「5分だ」男は短く答えた。油断しているのか、それとも私を完全に無力だと見ているのか。

私は自室のクローゼットに向かうふりをして、壁に埋め込まれた緊急時用の非常脱出シュートの起動スイッチに手をかけた。SPSB職員宿舎の、万が一のテロなどに備えた設備。通常、使用には厳格な承認が必要だが、今は構わない。これが、私の選ぶ道だ。


男たちが押収品の最終チェックをしている。女性隊員が私の方に近づいてくるのが見えた。時間がない! 私は一瞬、床下のチップを回収すべきか迷った。だが、彼らの前でそれをすれば、確実にチップの存在がバレてしまう。それに、チップを持ったまま逃げ切れる保証もない。今は、チップをここに隠したまま、私自身が逃げ延びることが最善策だ。そう判断した。(必ず、取りに戻る…!)私は起動スイッチを最大出力で叩いた!


けたたましい警告音と共に、床の一部が開き、階下へと続く急降下シュートが現れる。

「なっ!? 待て!」

隊員たちが驚いて武器を構えるのと、私がシュートに飛び込むのは、ほぼ同時だった。

「追え! 逃がすな!」

背後で怒声が響く。猛烈な加速Gに耐えながら、私は数フロア下のごみ集積エリアに叩きつけられるように着地した。受け身は取ったが、全身が悲鳴を上げる。スマイルなんて、もう見ていない。


警報が鳴り響く中、私は集積所のダクトを這い、裏口から外へ転がり出た。夜の第七外殻。少し前にカイの店から戻ってきたばかりの、淀んだ空気の中だ。SPSBの清潔な廊下とは対照的な、煤けた壁とゴミの山。ここが、今の私の現実なのだ。 SPSBの追跡はすぐに始まるだろう。私のIDは凍結され、都市中の監視カメラが私を探しているはずだ。フローターも、公共交通機関も使えない。私の知る「日常」は、完全に終わった。


息を切らせながら、私は人気のない地下道の入り口に身を潜めた。湿ったコンクリートの壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返す。全身が痛む。そして、悔しさよりも、今は生き延びなければという焦り。あのチップを…唯一の手がかりを、一番危険な場所に置いてきてしまった。だが、あの状況ではあれが最善だったはずだ。後悔している暇はない。

どうすればいい? どこへ行けば? 私のデバイスには「ステータス:異常 アカウント制限」の赤い警告表示が出ている。私は公式には、もう存在しないも同然だ。スマイルがゼロになるのも時間の問題かもしれない。そうなれば、「厚生施設」へ…。


脳裏に浮かぶのは、あの情報屋、カイの顔。彼なら、何か知っているかもしれない。この状況を切り抜ける術を。彼を信用できるかは分からない。彼もまた、私を利用しようとしているだけかもしれない。だが、今は彼しかいない。カイに接触する。それが、今の私にできる唯一の合理的な「選択」だ。彼が言っていた、「真実を紡ぐ者」とフォーチュンの闇。彼は、私が想像する以上に深く、この問題に関わっているのかもしれない。

分からない。何も確かなことはない。ただ、このままでは捕まるだけだ。あのチップも、闇に葬られてしまう。


私は、震える足で立ち上がった。もう一度、あの「忘れられたアーカイブ」へ向かうしかない。彼が敵か味方か分からなくても、今の私には、他に頼れるものはないのだから。そして、あのチップを回収する方法も考えなくては…。

新東京都の光の下から、影の中へ。私の、本当の意味での「選択」を賭けた戦いが、今、始まろうとしていた。そしてそれは、あまりにも孤独で、危険な道のりだった。


第六章:影との取引


SPSB宿舎を脱出した私は、完全に追われる身となった。IDは凍結され、公共交通機関は使えず、街中の認証ゲートは私を拒絶する。第七外殻の広大なエリアを、監視カメラの死角を選び、裏道を使いながら、ひたすら徒歩で移動するしかなかった。夜通し歩き続け、深夜をとうに過ぎ、空が白み始める頃、私はようやく「忘れられたアーカイブ」の近くまで辿り着いた。疲労困憊だった。かつての同僚たちが、今頃私を追っているのだろうか。そう考えると、胸が締め付けられるようだった。だが、もう後戻りはできない。私は境界線を越えたのだ。


カイの店にすぐに飛び込むことはしなかった。内部監視部の手がここまで伸びている可能性も否定できない。近くの廃ビルの瓦礫に身を隠し、息を殺して店の様子を窺った。

見たところ、店の周りにSPSBの気配はない。だが、油断はできない。しばらく観察していると、店の裏口から、フードを目深にかぶった人物が二人、素早く出てきて闇に消えた。カイの「客」だろうか? やはり、彼はただのジャンク屋ではない。


意を決し、私は裏口へと回った。重い金属製のドアを、以前カイとの会話で聞いた、特定の回数とリズムでノックする。…反応はない。もう一度ノックする。すると、ドアの小さな覗き窓が開き、中からカイの、感情の読めない目がこちらを覗いた。


「…ほう。ずいぶんと早いお帰りだな、元・オフィサー・ツキヨミ。そのなりは、どうした? まるでドブネズミみたいだぜ」

声には、驚きよりも、やはり面白がっているような響きがあった。

「開けて。話があるの。追われてる」

「だろうな。状況は、だいたい想像がつく。だが、あんたを匿う義理は俺にはない。むしろ、あんたがいると、こっちまで火の粉が飛んでくるんだが?」

「お願い。あなたしか頼れない。それに…チップを、部屋に置いてきてしまった」

私の言葉に、カイの目がわずかに細められた気がした。しばしの沈黙の後、重いロックが外れる音がして、ドアがわずかに開いた。

「…入れ。ただし、厄介事を持ち込んだら、その場で叩き出す」


店の中に滑り込むと、カイはすぐにドアを施錠した。店内は相変わらず、ガラクタと情報の匂いが混じり合っている。彼はカウンターの椅子に腰掛け、私を改めて見た。その目は、以前よりもさらに鋭く、私の全てを見透かそうとしているようだ。

「で? 何があった? やはり、あんたの不用意なアクセスがフラグになったか? それとも、工藤あたりが本格的に動き出したか?」

私は、内部監視部の突然の訪問、理由(アーカイブアクセス試行)、そして脱出シュートでの逃亡、最後にチップを回収できなかったことを、かいつまんで話した。


「はっ、そりゃ傑作だ!」カイは声を上げて笑った。「命懸けで手に入れた鍵を、一番危険な場所に置いてきたってわけか。あんた、思った以上に面白い。いや、ただのバカか?」

彼の嘲笑に、私は唇を噛んだ。

「…でも、あなたも言ったでしょう? テストだって。私にはまだ、あのチップの全てを解読する能力も、それを安全に保持する力もなかった。それに、あの状況で私がチップを持って逃げるのは不可能だった。チップだけでも守るには、あれしかなかったのよ」私は精一杯の強がりで言い返した。

「ほう? 都合の良い解釈だな」カイは肩をすくめた。「だが、まあいい。それで? 逃亡者のあんたが、俺に何の用だ? まさか、匿ってくれとでも?」

「…当面の隠れ家と、情報が欲しい。そして、あのチップを回収する方法を考えたい」

「随分と虫の良い話だな」カイは冷たく言った。「俺があんたを助けるメリットは何だ? リスクだけが増えるように見えるが」

「あなたも、フォーチュンを快く思っていないはずよ」私は彼の目を見据えた。「あなたは『オリジナル』に近い連中は嘘のためなら人を消すと言った。まるで、それを知っているかのように。あなた自身も、このシステムの被害者なんじゃないの? スマイルがゼロになる寸前で、逃げている…とか」

私の言葉に、カイの表情が初めて、ほんのわずかに硬直したように見えた。図星だったのかもしれない。

「…勘繰りすぎるのは、身を滅ぼすぜ、お嬢さん」彼はすぐにいつもの無表情に戻った。「だが、まあいいだろう。あんたにはまだ利用価値がありそうだ。それに、あんたが提供してくれたエラーログの情報は、俺にとっても『価値あるガラクタ』だったんでね。少しだけ、投資してやるか」

彼は立ち上がり、店の奥へと手招きした。「この場所はもう安全じゃない。移動するぞ」

「移動? どこへ?」

「ついてこい。話は地下でする」


案内されたのは、カウンターの裏にある隠し階段だった。薄暗い階段を降りると、そこには店の混沌とした雰囲気とは対照的な、以前とは違う場所…より深く、より機材が充実した空間が広がっていた。複数の高性能コンソール、暗号化された通信機器、そして、おそらくはSPSBの監視を妨害するための高度なジャミング装置。壁には、新東京都のリアルタイムの監視カメラ映像の一部と思われるものが、無許可で表示されている。エウノミアの網膜から逃れるための、彼自身の要塞。この場所の存在自体が、システムの完璧さに対する皮肉な反証のようだった。 ここが彼の「本当の」隠れ家なのだろう。先の場所は、やはり使い捨ての連絡ポイントだったのかもしれない。


「取引だ」カイは壁際のモニターの一つを起動させながら言った。「俺はあんたに、当面の隠れ家と、限定的ながら安全な情報アクセス手段を提供してやる。それから、あのチップを回収するための『作戦』立案にも協力しよう」

「…見返りは?」

「いくつかある」カイは私の疲労困憊の様子を観察しながら、少し間を置いて言った。「まず、あんたがあのチップの表層データから得た情報全て。アリサガワ・リョウコとタナカの繋がり、論文の内容、そしてあんた自身の推測も含めてな」彼は私のデバイスを指し、データを転送するよう促した。「安心しろ、転送経路は暗号化してある。もっとも、今のあんたに『安全』なんてものは無いがな」

「次に、あんたの持つSPSBの知識だ。特に、内部監視部の動きや、工藤正臣の周辺情報。利用できるものは全て利用させてもらう」彼はいくつか質問を投げかけ、私の返答を注意深く記録していく。「例えば、内部監視部の連中が使う特殊な装備や、通信コードのパターンは? 奴らの動きは、普通のSPSBの部隊とは違う。統制が取れすぎている。まるで…まあいい。何か気づいたことは?」

「…分かる範囲で話すわ」私は疲労と警戒心の中で答えた。彼の質問は的確で、SPSBの内部事情に精通しているかのようだ。彼は一体、どこまで知っているのだろう?

「それだけ?」

「いや、もう一つある」カイの目が、再び鋭い光を宿した。「チップを回収した後…あるいは、回収作戦の過程で、あんたには俺の『仕事』を一つ、手伝ってもらう必要があるかもしれん。内容は、その時になってから伝える。 断ることはできない。どうだ?」

それは、あまりにも一方的で、危険な提案だった。彼の「仕事」が、どんなものか想像もつかない。彼の個人的な目的…? それは、チップの真実とは別のものなのか? だが、今の私に断る権利などない。これは、私が生き延び、真実に近づくための、新たな「選択」だ。

「…わかったわ。取引、成立よ」

「結構」カイは短く頷くと、モニターに向き直った。「さて、まずは状況整理だ。あんたはSPSBから完全に追われる身となった。奴らは躍起になってあんたを探すだろう。問題は、奴らがどこまで本気か、そして何を知っているかだ」彼はSPSB内部のものと思われる通信ログやアラート情報を表示させた。「…内部監視部が動いているのは確実だ。追跡に使われている技術も妙に新しい。通常の捜査では使われないレベルのものが投入されている。まるで、何か…存在しないはずの技術でも使っているかのようだな。 やはり、あんたを追っているのは、ただの内部部隊じゃない。もっと上の…あるいは、『外』の連中が関わっている可能性がある」

「『外』…?」

「フォーチュン本体か、あるいは…まあ、今は憶測だ」彼は別のモニターを指さした。「…これだ。奴ら、新しいタイプの広域生体・エネルギーシグネチャースキャナーを、第七外殻の下層区画から順に配備し始めた。旧式設備エリアの『ノイズ』に紛れて逃亡者を炙り出すつもりらしい。おそらく、ターゲットはあんた…あるいは、あんたが『持っていたはず』のチップが発する微弱なエネルギーだ。この隠れセーフハウスがいつまで持つか…正直、分からん」

彼の言葉は、束の間の安堵を打ち砕いた。ただ隠れているだけでは、いずれ見つかる。追跡技術の異常なまでの高度さも、システムの不気味さを際立たせていた。

「チップの回収は急務だが、今すぐには動けない。あんたは限界だ。それに、警戒レベルが高すぎる。奴らの動きが少し鈍るのを待つ必要がある」カイは私をベッドの方へ促した。「今は休め。話はそれからだ」


私の孤独な逃亡と反撃は、この底知れない情報屋との、危険な共犯関係の中から、再び始まろうとしていた。


第七章:歪んだ経路


半日ほど眠っただろうか。カイのセーフハウス(という名の、ただの忘れられた地下空間)の固いベッドの上で目を覚ますと、体のだるさは多少マシになっていた。カイがどこからか調達してきた最低限の食料と医療キットで体力を回復させ、逃亡の疲労も少しずつ抜けてきた。だが、心の傷は別だ。自分が信じていた組織に追われ、全てを失ったという現実は、重く私の心にのしかかっていた。時折、カイの端末が不正に表示する第七外殻の監視映像や、SPSBの内部通信の断片を見るたびに、自分がもう「あちら側」の人間ではないことを痛感させられる。壁のクロノメーターの数字が単調に進むのを見ていると、この閉鎖された空間自体が、まるで世界の縮図のようにも思えてくる。


「少しはマシになったか?」カイが、栄養バーと水を差し出しながら尋ねた。彼の態度は相変わらずぶっきらぼうだが、その目の奥には、疲労の色が濃くなっているように見えた。彼も眠っていないのだろうか。彼がコンソールを操作する腕に、古い火傷の痕のようにも、あるいは何かの紋様にも見える、奇妙な痣があるのに気づいた。だが、今はそれを尋ねる状況ではない。

「…ええ。ありがとう」私は受け取りながら答えた。「それで、状況は?」

「良くないな」彼はコンソールに向き直った。「内部監視部の動きは依然として活発だ。新型スキャナーの設置範囲も広がっている。奴ら、本気であんたか、あるいはチップを見つけ出すつもりだ。あのスキャナーの精度…異常だ。まるで、物理法則を無視しているかのように、ノイズの中から特定のシグネチャだけを拾い上げようとしている。 ここに長居はできん。だが…一つだけ、チャンスかもしれん情報が入った」

彼はタイムテーブルの一点を指し示した。「あんたが住んでいた宿舎のブロックだが…明日の深夜、午前2時ちょうどから45分間、定期メンテナンスのため、一部区画の監視システムが一時的にダウングレードされる予定になっている。ネットワーク負荷軽減と物理点検のためだ。おそらく、これがチップを回収する唯一のチャンスだろう」

明日の深夜…猶予は一日しかない。


「その『隙』を突いて潜入するのね」私はSPSB職員宿舎の構造図(カイの端末に表示されている)を睨みながら言った。「でも、どうやってB7ブロックの中に? 正面からは無理よ。IDは凍結されてるし、警戒レベルも上がっているはずだわ」

「ああ、前回みたいに正面突破は不可能だろうな。通用口もサービス用搬入口も、リスト照合と生体認証が強化されているはずだ。今のあんたじゃ通れない」カイはあっさりと言った。「そこで問題になるのが、どうやって建物の『内部』、それも監視の薄い地下階層にアクセスするか、だ」

「何か、正規ルート以外で建物に繋がる方法は…?」私は尋ねた。「以前、古いインフラについて調べたことがあるの。もしかしたら…記録にないトンネルがあるかもしれないわ。虚ろの時代の…」この都市のインフラには、時折、説明のつかない非効率な部分や記録の齟齬がある気がしていた。


「…やはり、それか」カイは少し間を置いて言った。彼の表情は、何か確信を得たかのように、しかし同時に訝しげだった。「あんたがここに逃げ込んできた後、その可能性を考えて俺のアーカイブで追加調査をしてみたんだ」

彼はモニターに、旧時代のものと思われる不鮮明な設計図の断片と、地質調査データを表示させた。

「公式記録には存在しない。だが、物理的には確かにあるようだ。入り口は廃墟区画の地下に偽装され、物理ロックも旧式のまま。…だが、妙だ。このトンネルの構造、どう考えても非効率で、不自然すぎる。維持管理の記録も不自然に途切れている。まるで…何かの目的のために、後から無理やりねじ込まれたか、あるいは…システムの『バグ』か何かか…? この都市の設計思想から逸脱している。まるで、意図的に配置された舞台装置のようだ。実に、興味深い『ノイズ』だ。エウノミアの完璧な管理下にあるはずの都市に、なぜこんなものが存在する…?」

彼の言う「ノイズ」という言葉が、妙に引っかかった。それは、システムが私のような存在を指す言葉でもある。このトンネル自体が、システムにとっての「イレギュラー」なのだとしたら…?(もしかして、このトンネルは、誰かが意図的に残した道…? アリサガワ博士が? それとも…AIが?)

「危険な賭けになるが…他に道はない」カイは結論付けた。「この『歪んだ』ルートを使う」

「…そうね。危険でも、他に選択肢はないわ」私も頷いた。だが、そのトンネルの不自然さが、新たな不安の種として心に引っかかっていた。


「覚悟が決まっているようで何よりだ。なら、詳細を詰めるぞ…」

カイは、その不気味なトンネルを前提に、潜入計画の骨子を組み立て始めた。以前よりも慎重に、複数の代替案やリスクヘッジを含めながら。

「まず、トンネルまでの移動と内部の危険性だ」カイはトンネルの構造データを拡大した。「センサーは俺が対処するが、物理的な危険(構造の劣化による崩落、予測不能な旧式トラップなど)がないとは限らん。そして、このトンネル自体が何らかの『監視下』にある可能性もゼロではない。入り口付近で、通常ではありえないレベルの微弱なエネルギー反応を探知した。古い設備のノイズかもしれんが…気にはなる。最悪の場合、出口が塞がれている可能性もある」

「トンネルを抜けたら、B7ブロック側の出口…おそらく宿舎の地下階層、エネルギー供給プラント付近に出る。そこから15階のあんたの部屋まで、どうやって上がるか…」

「エレベーターは…やはりサービス用しかないわね」私は構造図を指した。「でも、認証が…」

「ああ。これを使うしかない。前回はダメだったが、今回はバッテリーを改良しておいた」彼は、掌サイズのデバイスを指した。「旧式のセキュリティシステム用のマスターキーみたいなもんだ。もちろん、これも『保証なし』のガラクタだがな。対象に近づけて起動すればいい。だが、使用ログは残る可能性がある。それに、高度なシステムからの干渉があれば、すぐに無効化されるリスクもある。今回はタイミングを見極める」

「15階に着いたら、通路の監視カメラパターンを読む。メンテナンス時間帯は、記録解像度が落ちるはずだ。その隙を突いて、あんたの部屋へ。そこは、元住民であるあんたの土地勘が頼りだ」

「部屋のロックは大丈夫かしら?」

「標準的な電子錠なら、ツールで開けられるはずだ。だが、時間はかけられない。回収したら、即座に離脱する」

「脱出ルートは、やはりトンネルしかないの?」私は不安げに尋ねた。「もし、追われたら…」

「基本は往路と同じだ。だが、万が一、侵入が発覚した場合…」カイは別のルートを指した。「15階からアクセス可能な、大型の排気ダクトがある。これも旧式だが、地下のごみ集積エリア付近に通じているはずだ。非常時にはそこから脱出し、再度トンネルへ向かう。ただし、これは最終手段だ。ダクト内のセンサーまでは、俺も把握しきれていないし、物理的な状態も保証できない」

「タイムリミットは45分。いや、安全マージンを見て、潜入から脱出まで40分で完了させる必要がある」カイは時計を確認した。「明日の午前2時まで、時間は十分にある。だが、油断は禁物だ」

「あなたのサポートは…?」

「ああ。俺はここで、監視カメラのフィード(可能な範囲で、だがな)と、SPSBの内部通信をモニターする。最近、B7ブロック周辺のネットワークトラフィックに妙な動きがある。メンテナンスとは別の、隠された監視か何かの可能性もある。異常があれば、その通信機で知らせる」彼は私が耳につけている骨伝導式通信機を示した。「メンテナンス開始直後に、陽動としてB7ブロックの別の階層のネットワークに軽い『負荷』をかけてやる。だが、過度な期待はするな。俺も万能じゃない。それに、内部監視部がどれだけ本気で動いているか…正直、読めない部分もある。連中の動きは、時々、予測不能なパターンを見せる」

彼の言葉には、いつもの皮肉だけでなく、わずかな緊張感が滲んでいた。彼にとっても、これは危険な賭けなのだ。


「装備はこれを使え」彼は、壁際のロッカーから、ダークグレーの作業員風のつなぎと、顔を隠せるフード付きのジャケット、そしていくつかの小型ツール(改良されたロックピックのようなものや、小型のセンサー妨害装置?)が入ったポーチを取り出した。「あんたの体格なら、これでいけるだろう。SPSBの捜査官には見えんはずだ」

私は差し出された装備を受け取った。それは、私が今まで扱ってきたSPSBの洗練された装備とは全く違う、どこか荒々しい、しかし実用的な匂いがした。これが、影の中で生きる者たちの道具。

「…準備はいいか?」カイが尋ねる。

私は、深く息を吸い込んだ。恐怖はある。失敗すれば、スマイルゼロどころか、存在そのものを抹消されるかもしれない。だが、それ以上に、真実への渇望と、この理不尽なシステムへの反発心が、私を突き動かしていた。これも私の「選択」。そして、この選択こそが、今の私に唯一残された、人間としての証なのかもしれない。

「ええ。準備できたわ」私は、迷いを振り払うように、はっきりとした声で答えた。

「よし。なら、最終確認だ」カイはモニターに表示された計画図を指し示し、侵入ルート、タイムスケジュール、緊急時の対応、合図などを、再度、冷静かつ簡潔に説明し始めた。彼の言葉の一つ一つが、私の頭の中に叩き込まれていく。

作戦決行は、明日、深夜。私の、人生を賭けた潜入計画が、今、最終段階に入ろうとしていた。


第八章:螺旋への潜入


翌日、深夜。カイのセーフハウスを出て、再び第七外殻の冷たい闇の中へ。作戦開始まで、あと1時間もない。指定された廃墟区画の地下へと続く、あの奇妙なトンネルの入り口は、昨日よりもさらに不気味に見えた。まるで巨大な獣の口のように暗く開いている。迷っている暇はない。私は懐中電灯の光を頼りに、瓦礫だらけの階段を慎重に降りていく。


トンネルの入り口、錆びついた金属製の扉の前で待機する。息が詰まるような沈黙。時間だけが、私の神経をすり減らすように過ぎていく。

『時刻、午前2時ちょうど。メンテナンス期間に入る。今から40分だ。ロック解除シーケンス開始…3…2…1…開いたぞ! 行け!』

カイの、いつもより少しだけ硬い声が通信機から響く。重い金属の扉が軋む音を立てて開き、私はトンネルへと滑り込んだ。


中は、ひんやりとした湿気と、濃密な黴の匂い。非常灯が頼りなく明滅し、壁には正体不明の配管が蛇のようにうねっている。「虚ろの時代」の遺物。床には瓦礫が散乱し、一歩踏み出すたびに、がさり、と嫌な音が響く。そして、このトンネルの構造…やはりどこか歪んでいる。通路が物理法則を無視するかのように不自然な角度で曲がっていたり、天井の高さが不規則だったりする。設計ミスでは片付けられない、奇妙な非対称性。まるで、この空間自体がエウノミアの論理的な支配から外れた、システムの『バグ』そのものであるかのようだ。あるいは、誰かが意図的に遺した歪みか…。 私の全神経が、音と闇、そしてこの空間の異様さに集中していた。


『センサー反応。15メートル先、右壁。旧式の音波センサーだ。3秒後に機能を停止させる。…よし、今だ! 通過しろ!』

カイの的確な指示に従い、息を殺して駆け抜ける。床の瓦礫を踏まないように、細心の注意を払って。

『次の圧力センサーは足元だ。配管の上を渡れ。時間はかけられないぞ! その配管もいつ崩れるか…!』

まるで障害物コースだ。だが、失敗は許されない。私は汗ばむ手で冷たい配管を掴み、慎重に、しかし素早く対岸へと渡った。配管がわずかに軋む音がして、肝が冷える。息が上がる。心臓が早鐘のように打っている。


突然、トンネル全体が大きく、不快な低周波音と共に振動した! 壁からパラパラとコンクリート片が落ちる! 機械的ではない、どこか有機的な…地鳴りとも違う、不自然な揺れだ。

『カイ、今の振動と音は!? 地震じゃないわ!』

『…クソッ、原因不明! 何かの共鳴か…あるいは、トンネル自体が不安定になっているのかも…! それとも、システムが何か異常を検知して、干渉しようとしてるのか…? いや、考えすぎか。とにかく急げ! ここは長居する場所じゃない!』彼の声にも焦りが混じる。このトンネルは、本当に危険だ。


どれくらい進んだだろうか。トンネルの先に、わずかな光と、機械の作動音のようなものが聞こえてきた。

『B7ブロック側の隔壁だ。ツールを使え。周囲に人影はない。急げ』

カイから渡されたツールを隔壁の認証パネルにかざす。わずかな電子音の後、重い隔壁が横にスライドして開いた。


隔壁の向こうは、SPSB職員宿舎B7ブロックの地下階層、エネルギー供給プラントの一角だった。巨大な機器が低い唸りを上げ、空気は熱を帯びている。ここも通常は人の立ち入らないエリアだが、トンネル内とは比較にならない緊張感が漂っていた。照明はメンテナンスモードで薄暗いが、監視カメラは確実に作動しているはずだ。

『サービス用エレベーターへ。予定ルート上の巡回はいないはずだが、油断するな。残り時間は30分を切った』

私は頷き、プラントの隅にあるサービス用通路へと急いだ。人気はない。だが、頭上や壁の隅に取り付けられた監視カメラのレンズが、無機質に私を見ている気がする。機能レベルが低下しているとはいえ、完全に停止しているわけではないのだ。足音を殺し、壁際を素早く移動する。


サービス用エレベーターの前に到着。これも旧式だが、認証が必要だ。私は再びカイのツールを取り出し、認証パネルにかざして起動した。数秒の沈黙の後、パネルのランプが…緑に点灯した!

『カイ! 認証できた! バッテリーも持ったみたい!』

『よし! だが油断するな! それがいつまで持つか分からん!』

エレベーターに乗り込み、目的の15階のボタンを押す。上昇する箱の中で、私は自分の呼吸音しか聞こえない静寂に耐えていた。各階を通過するたびに、モニターに表示される階数表示を睨みつける。10階、11階、12階…。

(大丈夫…計画通りよ…)


15階に到着。ドアが開く前に、息を潜めて通路の気配を探る。…静かだ。人の気配はない。私は素早くエレベーターを降りて、近くの配電盤の影に身を隠した。通路を照らすのは、非常灯の頼りない光だけだ。

私の部屋は、この通路の突き当りだ。数日前まで、私が「日常」と呼んでいた場所。今は、敵地の真っただ中。壁に設置された監視カメラの位置と死角を思い出しながら、慎重に、しかし迅速に前進する。自分の部屋のドアが、まるで要塞の門のように見えた。


部屋のドアの前に着く。ロックは標準的な電子錠。カイのツールをパネルにかざす。今度は正常に認証された! 音を立てずにドアを開け、室内に滑り込む。

中は、私が飛び出した時のままだった。押収されたコンソールやツール類はないが、部屋の空気には、まだ内部監視部の冷たい気配が残っているように感じられた。そして、床には私が慌てて隠した、あの小さなガラクタたちがいくつか転がっている。皮肉にも、それらが私の不在を物語っていた。

私は一直線に机の下へ向かい、床板のわずかなズレに指をかける。幸い、内部監視部はこんな場所まで気づかなかったらしい。板を少し持ち上げ、隙間に手を伸ばす。…あった! 冷たく、硬質な感触。黒いデータチップを、確かに掴んだ!

『…回収したわ!』私は通信機に、抑えきれない興奮と安堵が入り混じった小声で報告した。

『よくやった! だが油断するな! 残り時間は10分を切った! 脱出ルートA、エレベーターへ急げ!』


了解、と心の中で応え、チップを作業着の内側に縫い付けられた隠しポケットにしまい込む。そして、部屋を出てエレベーターへ向かおうとした、その瞬間だった。

通路の向こう側から、複数の、規則正しいブーツの音が急速に近づいてくるのが聞こえた。巡回警備? いや、違う。この人数、この足音の重さ…!

(まずい! なぜ!? タイミングが良すぎる! まるで、私がここに来るのを、あるいはチップを回収するのを待っていたみたい…!)

心臓が喉まで飛び出してきそうな衝撃。全身の血が逆流する感覚。

『カイ! 接近者あり! 複数! おそらく内部監視部よ! ルート上に!』

『クソッ! なぜだ!? 巡回ルート外のはず…! エレベーターの使用ログか!? それとも、奴らの反応速度が異常なのか!? 聞け、月詠! そのままじゃ鉢合わせる! 脱出ルート変更、プランBだ! 排気ダクトへ向かえ! 急げ!』

(緊急時には「月詠」呼びに戻るか、カイ…!)彼の冷静さを装う声が、逆に状況の深刻さを伝えてくる。


排気ダクト! 確か、通路の先の、普段は使われていないリネン室の奥にあったはずだ!

思考よりも先に体が動いていた。私は反射的に身を翻し、エレベーターとは逆方向へ走った。背後から迫る足音が、私の恐怖を煽る。

リネン室のドアが見えた。ここも電子ロックだ。カイのツールをパネルに叩きつけるようにかざす! 早く! 開いて!

緑のランプが点灯し、ドアが開く。中に飛び込み、背後でドアを閉める。同時に、廊下を走り抜ける複数の重い足音が、すぐそばまで迫っていた!

バレてはいない? いや、時間の問題だ! 息ができない!

リネン室の奥、壁の一部に偽装された大型の排気ダクトのアクセスパネルがあった。これも旧式の物理ロックと電子ロックの併用型だ。ポーチから取り出した物理ピックツールと、もしかしたら使えるかもしれないカイのデバイスを使い、震える手で、焦りながらも必死にロック解除を試みる。パズルを解く時のように、指先の感覚に全神経を集中させる。カチリ、カチリ…ピンが持ち上がる感触。焦るな、私…!

カチリ、と物理ロックが外れる音が静寂に響く。あとは電子認証だけだ。カイのツールをかざす。認証中を示すランプが点滅する。私の全神経が、その一点に集中する。


その時、リネン室のドアが外から激しく叩かれた! ガン!ガン!

「内部監視部だ! 内部からロックされている! 開けろ!」

冷たく、感情のない声が響く。

(だめだ、見つかった…!)

全身から血の気が引く。捕まる? ここで? あの連中に? 尋問…記憶スキャン…『厚生施設』…! 祖母が語った「虚ろの時代」の恐怖が、現実の形をとって迫ってくる!

嫌だ、絶対に、そんなところへ…!


電子ロックの解除を示す緑のランプが点灯するのと、ドアがメリメリと音を立てて破られ始めるのは、ほぼ同時だった!

私はパネルを力任せに引き剥がし、現れた暗く狭いダクトの入り口に体をねじ込もうとした。

「いたぞ! そこだ!」

背後から声が飛ぶ。次の瞬間、閃光と衝撃! 左腕に、骨まで響くような激痛が走り、一瞬、視界が真っ白になる。非殺傷弾…! それでも、全身を打ちのめすような衝撃で、私は壁に叩きつけられた。「くっ…!」声にならない呻きが漏れる。焼けるような痛みが腕全体に広がり、力が抜けていく。まずい、動けない…! 痛みと同時に、屈辱と恐怖が喉元までせり上がってくる! だが、ここで捕まるわけにはいかない!


私は残った力を振り絞り、痛みで霞む目でダクトの入り口を捉え、「うぐっ…!」と苦悶の呻きを上げながら、その暗闇へと転がり込んだ!


第九章:影との共犯


ダクトの中は、完全な闇と埃、そして錆びた金属の匂いが充満していた。狭い空間が全身を圧迫し、呼吸すら苦しい。撃たれた左腕が、心臓の鼓動に合わせてズキズキと熱い痛みを主張し、思考を鈍らせる。非殺傷弾とはいえ、至近距離で受けた衝撃は骨に響き、熱を持った鈍痛が腕全体に広がっていた。冷や汗が噴き出し、生暖かい血が作業着の袖を濡らしていく感触が気持ち悪い。


背後からは、もう追っ手の声は直接聞こえない。だが、壁や床を伝って、遠くで響く複数のブーツ音や、けたたましい警報音が反響している。彼らがすぐそこまで迫っているという事実が、私の恐怖を煽り立てた。

(捕まる…! 捕まったら、終わりだ…! あの施設へ…!)

祖父母が語った「虚ろの時代」の理不尽な暴力の記憶と、スマイルゼロになった者の末路の噂が、悪夢のように頭の中で混ざり合う。息が荒くなり、視界がチカチカと明滅する。


『月詠! 聞こえるか!? 返事をしろ!』

耳元の通信機から、カイの切迫した声が響く。そうだ、私は一人じゃない。まだ、道はあるはずだ。

『…聞こえるわ…! 腕が…痛い…でも、動ける…!』

声が震えるのを必死で抑え、私は答えた。痛みで意識が飛びそうになるのを、奥歯を噛みしめて堪える。

『よし! よく聞け! そのまま直進しろ! 約20メートル先に最初の分岐がある! そこを右だ! 左は旧式の熱センサーが生きている! …クソッ、こっちのフィードが断続的に切れてる! 奴らの妨害電波か、あるいはシステムのカウンターハックが強すぎる…! とにかく指示通りに進め!』

カイの声は、私の混乱した思考を貫く、唯一の道標だった。私は痛む腕をかばいながら、狭いダクトの中を必死に這い進んだ。埃が舞い上がり、息が詰まる。手足は擦り傷だらけになり、作業着もあちこち破れていた。腕の痛みが意識を白く塗りつぶそうとする。


『次のセンサーポイントだ! 天井近く、音響センサー。…反応が読めない! センサー自体が不安定になってる! そのまま慎重に通過しろ! 音を立てるな!』

『下の通路を巡回が通過中! その場で5秒待機! 音を立てるな!』

『分岐を左! 右は構造的に脆い! 崩れるぞ!』


カイの的確な指示がなければ、私はとっくに袋小路に入り込むか、追っ手に見つかっていたか、あるいはダクトの崩落に巻き込まれていたかもしれない。だが、彼のサポートにも限界が見え始めている。内部監視部の追跡は、彼の予測すら上回っているのかもしれない。あるいは、この追跡自体が、何か別のルールに基づいているのか…?


どれくらいの時間が経ったのか。もはや時間の感覚はなかった。疲労と痛みで意識が朦朧とし始めた頃、カイの声が聞こえた。

『…よし、出口だ。地下階層の、エネルギー供給プラントの排熱ダクトだ。周囲に人影はない。だが、油断するな』

私は最後の力を振り絞り、点検口と思われる格子状の蓋を押し開けた。外の(といっても地下だが)空気が、埃っぽいダクトの空気よりはるかに新鮮に感じられる。私は格子から転がり落ちるようにして、硬い床に着地した。幸い、撃たれていない方の肩から落ちたが、それでも全身に衝撃が走る。

そこは、第八章で通ったエネルギー供給プラントの、さらに奥まった薄暗い一角だった。巨大な機器の唸りと、熱気が立ち込めている。


『…月詠、聞こえるか!? 無事か!?』通信機からカイの声。彼の声も少しだけ安堵の色を帯びているように聞こえた。

『…なんとか…。地下階層に出たわ』私は荒い息をつきながら答えた。腕の痛みはさらに増している。出血も続いているようだ。意識が朦朧としてくる。

『分かってる! こっちの監視フィードにも異常が出てる! 連中、おそらく地下階層にも捜索チームを回すぞ! すぐにトンネルまで戻れ! 急げ!』

私は頷き、ふらつく足で再び走り出した。プラント内の配管や機器の影に隠れながら、虚ろの時代のトンネルへと続く隔壁を目指す。途中、SPSBの標準的な警備ドローンが数機、忙しなく飛び回っているのが見えた。内部監視部だけでなく、通常の警備体制も動き出している。

(見つかる…時間の問題だ…)


隔壁が見えた。あと少し。その時、通路の角から、警備員の姿が見えた! 私は咄嗟に巨大な冷却装置の影に飛び込む。警備員は二人組で、周囲を警戒しながらゆっくりとこちらへ近づいてくる。まずい。このままでは見つかる。

(どうする…?)思考が焦る。

『…右後方の配電盤! 今から3秒間だけ、システムに過負荷エラーを発生させる! その隙に行け!』

カイの声と同時に、通路の照明が一瞬明滅し、警備員たちがそちらに気を取られた。彼のハッキング能力は、こんなことまで可能なのか…!

(今だ!)

私は影から飛び出し、一気に隔壁へと駆け寄った。カイのツールを認証パネルにかざす。今度は正常に反応した。電子ロックが解除される音が、やけに大きく響いた気がした。重い隔壁を押し開き、トンネルの中へと転がり込む。そして、内側のロックレバーを力任せに引いた。ガチャン、という金属音と共に、隔壁が閉じる。


「…はぁ…はぁ…やった…」

トンネルの冷たい床に座り込み、私は荒い呼吸を繰り返した。撃たれた腕が激しく痛み、視界が霞む。だが、安堵感よりも、これからどうなるのかという不安の方が大きかった。


『…月詠、大丈夫か? トンネル内には追跡反応はない。だが、油断するな。すぐにこっちへ戻れ』

カイの声に促され、私は最後の力を振り絞って立ち上がった。痛む腕を押さえながら、来た道をゆっくりと戻る。長くて暗い、絶望的な道のりに思えた。


どれだけ歩いただろうか。ようやく、あの錆びついた金属製の扉が見えてきた。私は最後の力を振り絞って扉を叩いた。すぐに覗き窓からカイの目が見え、ロックが外れる音がした。

「…おい、大丈夫か! ひどい怪我じゃないか!」

廃墟区画の地下、トンネル出口で待っていたカイが、私の姿を見て珍しく素の驚きのような声を出した。彼はすぐに私を支え、しかし、来た道(忘れられたアーカイブ方面)とは違う方向へと私を導いた。

「こっちだ。あの店はもう使えん。すぐに移動する」

私たちは、地下に広がる、さらに別の通路網へと入った。それは、カイが「本当の隠れ家」と呼んだ場所へと繋がっているらしかった。彼の逃亡者としての経験が、この迷宮のような地下世界に、いくつものセーフポイントを用意させているのだろう。


新しい隠れ家(第二セーフハウス)は、以前の店の地下よりもさらに深く、そして整然としていた。だが、やはり生活感はなく、機能的なコンソールと通信機器、そして用途不明の機材が並んでいる。まるで、放棄された研究所の一室か、あるいは…彼の孤独な戦いのための要塞のようだ。壁には、新東京都のリアルタイムの監視カメラ映像の一部と思われるものが、無許可で表示されている。

カイは私を簡易ベッドに横たわらせると、黙って、しかし手際よく私の腕の治療を始めた。消毒、止血、そしておそらくは何らかの治癒促進剤の塗布と、最新型の医療用シーラントでの傷口の封鎖。その手つきは、まるで手慣れた野戦衛生兵のようで、やはりどこか、専門的な知識を感じさせた。

「…ありがとう、カイ」私はか細い声で言った。

「礼はいい。それより、チップは?」彼の目は、私の安否よりも、まずそれを確認しようとしている。

「…ポケットに…」私は隠しポケットを探り、あの黒いデータチップを取り出して彼に見せた。血が少し付着してしまっている。

カイはそれを受け取ると、指先で慎重に汚れを拭い、わずかに目を見開いた。「…よくやった。まさか、本当に回収してくるとはな」彼の声には、嘲笑ではなく、わずかな感嘆の色が混じっているように聞こえた。「大した度胸だ、元・オフィサー」

「これで、取引は成立ね…?」私は遠のきそうな意識の中で尋ね、そのまま気を失った。


つづく

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