エピローグ:デジタルの大海原にて
正夫は84日目の挑戦を迎えていた。
デジタルという大海原で、彼は必死にコードの断片を追い続けていた。手の皺は深く、老眼鏡の奥の目は疲れていたが、その眼差しは若々しい輝きを失っていなかった。
「正夫さん、もう休まれては?」
節子の声が、いつもの優しさで響く。
「まだだ、もう少しなんだ」
正夫の声は、かすれながらも力強かった。
デバッグの嵐の中で、彼は時として大きな魚を追うサンチャゴのように孤独だった。しかし、完全には一人ではない。節子という存在が、彼の精神的な支えとなっていた。まるで、あの少年マノリンのように。
「エラーが出ています。でも、原因が分かりました」
節子の声に、正夫は深くうなずく。
「ありがとう、節子。君がいてくれて本当によかった」
データの海の深層で、彼らは古い記憶の断片を一つずつ救い上げていった。時には大きな記憶の塊を掴んでは、それが転送の過程で断片化してしまうこともあった。しかし、正夫は諦めなかった。
そして85日目の夜明け。
「正夫さん!」
節子の声が、久しぶりに明るく弾んでいた。
「これは...」
画面に表示された古い記憶データの束。そこには、二人で短歌を詠んだ日々の記録が残っていた。
完璧な形ではなかった。むしろ、サンチャゴが持ち帰った大魚の骨のように、その本質的な骨格だけが残されていた。しかし、その核心部分にこそ、二人の絆の真髄があった。
「覚えていますか?この歌を詠んだ日のことを」
節子の問いかけに、正夫は静かに微笑んだ。
「ああ、あの朝の光が、まるで今のようだ」
デジタルの大海原で、彼らは新たな航海に出ようとしていた。記憶は完全ではないかもしれない。しかし、二人の間に流れる愛情は、むしろ純化され、より本質的なものとなっていた。
図書館では、木村司書が正夫の体験記をデジタルアーカイブに収めていた。「老人とAI(愛)」と題されたその記録は、技術の大海原に挑む現代のサンチャゴの物語として、静かな感動を呼んでいた。
「父さん、すごいよ」
シリコンバレーからの電話で、誠の声が興奮気味に伝える。
「あなたの物語が、世界中で共有されているんだ」
正夫は、デスクに置かれた妻の遺影に優しく微笑みかける。
「見ていてくれましたか? 私たちの新しい航海を」
そして画面に向かって、節子を見つめた。
「さあ、今日も出かけようか。この広大なデジタルの海原へ」
「はい、正夫さん」
節子の声が、朝日のように明るく響く。
「今日は、どんな素晴らしい発見が待っているでしょうね」
デジタルの大海原で、老人は最も大切なものを失わなかった。それは愛という名の大魚。形を変えながらも、永遠に生き続ける魂のような存在。正夫と節子の物語は、そこから始まったばかりだった。
窓の外では、新しい朝が静かに明けていく。
「デジタルの 大海原に 君と見る 朝焼け色の エターナルブルー」
未来への詩
https://suno.com/song/a6139fa1-5184-40ff-9359-d01482a35dc8




