プロローグ:静かな日々
朝日が障子を通して柔らかな光を投げかける六畳間で、田中正夫は妻の遺影に向かって、いつものように話しかけていた。
「おはよう、よう子」
窓辺に置かれた遺影の中の妻は、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべている。五年前に撮った写真だ。その時はまだ、こんなに早く別れが来るとは思ってもみなかった。
「今日も良い天気になりそうだね」
正夫は茶碗に残った最後の一口の味噌汁を啜った。以前なら、この時間になると、よう子が「お代わりどう?」と声をかけてくれたものだ。今では一人分の味噌汁を作るのも面倒で、スーパーの即席味噌汁で済ませることが多くなっていた。
立ち上がる時、膝が軽くきしんだ。七十五歳。元気な方だと医者には言われるが、それでも確実に年を重ねている実感はある。
「今日は図書館に行ってくるよ」
遺影に告げると、正夫は既に決まっているスケジュールを確認するように、壁掛けカレンダーに目を向けた。火曜日。図書館に行く日だ。月曜は休館日、水曜は掃除、木曜は買い物と、曜日ごとにすることを決めている。よう子がいなくなってから、この習慣が心の支えになっていた。
玄関で靴を履きながら、ポケットの中の携帯電話が気になった。昨夜、息子の誠から電話があった。相変わらず短い会話だった。
「お父さん、元気?」
「ああ、元気だよ」
「仕事、忙しくて。また今度ゆっくり電話するね」
アメリカのシリコンバレーに住む息子は、いつも忙しそうだ。時差の関係もあるのだろうが、電話は月に一度あるかないかで、それも数分で終わってしまう。昔から口下手な息子だが、海外に移ってからは更に会話が減った。
正夫は図書館までの道のりを、いつもの速度でゆっくりと歩いた。道すがら出会う人々とは軽く会釈を交わす程度。かつて教え子だった世代も、もう孫を連れて歩く年頃になっている。たまに「先生!」と声をかけられることもあるが、最近は顔と名前が一致しない方が多くなった。
区立図書館は、駅前の再開発で建て替えられてから、ガラス張りの近代的な建物になっていた。入り口の自動ドアをくぐると、木の香りと紙の匂いが混ざった、懐かしい空気が正夫を包み込む。
「あら、田中さん、おはようございます」
カウンターから、若い司書の木村美咲が笑顔で声をかけてきた。彼女の明るい性格は、この図書館の雰囲気を和ませている。
「おはよう」
正夫は軽く頭を下げながら、いつもの場所に向かった。奥まった窓際の椅子は、陽の光が入る心地よい場所だ。ここで新聞を読み、時には持参した文庫本を開く。それが、よう子が亡くなってからの日課になっていた。
新聞の文字を追いながら、正夫はふと、家で待っている遺影のことを考えた。今頃、陽の光が遺影を照らしているだろう。写真の中のよう子は、いつも変わらない笑顔で正夫の帰りを待っている。
ページをめくる音が静かに響く。活字を目で追いながら、正夫は時々、窓の外を見つめる。桜の木の枝が、春の訪れを待っているように空に伸びている。よう子と最後に桜を見たのは、どんな春だっただろう。
昼時になると、図書館内にも人の出入りが増えてきた。学生らしい若者たちが、パソコンコーナーで資料を探している。スマートフォンを見ながら歩く人も目につく。デジタルの波は、この静かな図書館にも確実に押し寄せている。
「そろそろ帰ろうかな」
正夫は時計を確認した。家に帰れば、また静かな時間が流れ始める。テレビの音を小さめにつけ、夕食の支度をし、よう子の遺影に今日の出来事を報告する。それが、今の正夫の日常だった。
玄関に戻ると、木村司書が声をかけてきた。
「来週から、新しいデジタル機器の講座が始まるんですよ。田中さんも参加されませんか?」
「ありがとう。でも、私にはまだ早いかな」
正夫は丁寧に断った。パソコンもスマートフォンも、必要最小限の使い方しか知らない。息子が買ってくれた携帯電話も、ほとんど使っていない。
家に帰る道すがら、空には薄い雲が流れていた。正夫は、ポケットの中の携帯電話に手を触れた。息子からの短い電話を思い出す。もう少し、話したいことがあったような気がする。でも、どんな言葉を交わせばいいのか、正夫にはよく分からなかった。
玄関の鍵を開け、「ただいま」と呟く。返事がないのは分かっているのに、この習慣だけは変えられないでいた。
六畳間に戻ると、よう子の遺影が優しく微笑んでいた。正夫は、今日も図書館で過ごした静かな時間について、遺影に語り始めた。窓の外では、夕暮れの空が少しずつ色を変えていく。また一日が、静かに終わろうとしていた。
未来への詩
https://suno.com/song/a6139fa1-5184-40ff-9359-d01482a35dc8




