第6話
見上げれば水を吸った綿の様に重ったるい空が広がっている。遠くに視線を送れば、荒れ狂う鉛色の波が離岸堤に衝突し立ち昇る。
「ったく、こんなところに来て本当はなにをするつもりなのか」
いつものように客を目的地に降ろし、駅前へと戻っている途中だった。少し先に身体を半分投げ出すようにして手を上げる小さな影が見えた。冷やかしかと思い一瞬ムッとするが、もしかすると、とも思い車を停めた。案の定、小学校高学年くらいの少年だった。後部座席の自動ドアを開けると、緊張した様子で車内に乗り込んでくる。
「あ、あの、海まで連れて行ってもらえませんか?」
小さな客は眉を下げながら不安気に聞いてくる。
「あー、金があるならいいぞ」
「お金ならあります。どうかお願いします!」
「金があるなら立派な客だ。どこへでも連れて行ってやるよ」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
安心したように笑顔で頭を下げる姿に、将来はコイツも偉そうに何処どこに行けとか言うようになっちまうのかなぁ、などと妙な感傷に浸る。
「海っていっても、行く場所は決まっているのか?」
「いえ、取り敢えず海であればどこでも良いみたいなので、運転手さんの行きやすいところで大丈夫です」
「おう、分かった。取り敢えず一番近い海岸にでも向かうからな」
「よろしくお願いします!」
俺の言葉に朗らかな笑みを返す少年。自分にもこんな時期があったのではと思うが、今と変わらずひねくれた言動しか思い出せず小さく鼻で笑う。タクシーは柔らかく走り出し、車の流れへと入り込んだ。
横目でバックミラーを確認すると、流れ過ぎていく風景に少年は目を奪われていた。
「で、お前さんはどうして海なんかに行きたいんだ?」
ふいに話しかけられた少年は身体を少し震わせる。
「きゅ、急に海が見たくなって」
「疲れた大人みたいなことを言うんだな」
俺は少年の返事に笑い声をあげる。
「そうですかね。運転手さんも急に海を見たくなることってありませんか?」
「俺はなぁ、毎日の生活を考えるだけで精一杯で、そんな事を考える余裕もなかったな」
「僕の両親も毎日頑張っているみたいなんで、大人の人はみんなそうなのかもしれないですね」
「お前の親は立派な仕事でもしてるのか?」
「多分そうなんだと思います。お父さんもお母さんも家にあまり帰ってこないのでよく分からないです」
つい俺はしまったという表情をしてしまう。様子を確認するも、少年は運良く窓の外を眺めていた。見られていなかったことに安心し、すぐさま表情を取り繕った。
「家族の為、世の為に必死に働いているなんて立派じゃねーか」
「そう…なんですかね…」
「そうだ、そうだ。坊主も苦労しているかもしれないが、親御さんを誇っていいと思うぞ」
「…はい」
少年の短い返事には飲み込み切れない感情が籠っているように思えた。残りの道中は、好きな人はいるのか、学校は楽しいかなど他愛のない会話をしていた。少年の話の端々から察するに、学校生活は最近まで上手くいってはいなかった。だが、なにかきっかけがあり好転したようだった。学校の話をする時の少年の声は明るかった。
海から吹く風は冷えていた。分厚い鉛色の雲を映しながら荒々しい波が沖から近寄ってくる。少年が砂浜を歩いていく姿を眺めながら、煙草を1本取り出して火をつけた。口から吐き出した紫煙は、すぐさま風に乗って消えていく。
「今時難儀な子どもも居るもんだな」
家に帰っても誰も居ない、学校でも同級生と何かしらの問題があり、何処にも居場所が無かった少年。だが、やっと学校に居場所を見つけられた。運転手と客という一瞬の関係だが、俺よりも先の長い少年のこれからの人生に幸せが訪れることを願わずにはいられない。
そんな感慨に耽っていると、波打ち際で何かをしていた少年が前のめりに倒れ込むのが見えた。
「何してんだ、あの坊主は」
起き上がった少年はびしょ濡れになった服を、握りしめて絞っている。
「まったく、世話が焼けるお客様だ」
俺はタオルを取りに車へと戻る。ついでに車内を暖めておこうとエンジンも点けた。後ろを振り返ると少年がすぐ近くまで来ていた。
「おう、坊主。大丈夫か」
丁度良いタイミングだと少年にタオルを投げ渡した。
「あ、ありがとうございます。あの、濡れてしまったんですけど帰りもお願いできますか…?」
髪の毛を拭きながら少年は申し訳なさそうに訪ねてくる。
「まぁ、乗りかかった船だ。家まで送ってやるよ」
俺がニヤッと笑うと、少年も安心したような笑みを浮かべる。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「とは言ってもシートを濡らされるのは困るから、何か敷くから、ちょっと待ってろ」
はい、という少年の返事を受けながら、トランクへと回る。丁度入っていた段ボールを取り出して後部座席に敷く。
「ほら、もういいぞ」
礼を改めて言いながら少年は車に乗り込んだ。乗ったのを確認すると俺も運転席へと座った。
「もう用事は済んだのか?」
バックミラー越しに少年に尋ねる。視線に気がついたのか、少年と鏡越しに目が合う。
「はい。ちょっと軽いトラブルはありましたが無事に終わりました」
その微笑みはどこか晴れ晴れとしている。
「なら、良かった。必要になればいつでも呼べよ。また連れてきてやるよ」
「是非、お願いします。そういえば運転手さんのお名前、教えてもらっても良いですか?」
俺は照れ臭さを感じつつも名前を教える。
「坊主、お前の名前は?」
「僕は桜庭 遼と言います」
「分かった、遼な。ちゃんと俺を指名するんだぞ。俺の稼ぎのためにな!」
「はい、その時はよろしくお願いします」
2人で声を揃えて笑い合う。重い空を割いて降り注ぐ日差しを受けて車は走り出した。
今日のお題:お人好しなタクシー運転手が、海水浴場にいる。でした!