第5話
陽が傾き始めると、気温が一気に下がり冷えた空気が肌を刺す。無為に息を吸い込んでしまい咳が出た。アウターだけではなく、インナーもしっかり着込まなければならないのかと億劫になる。ステージが公開されるまでの残り日数も少ないため、面倒臭いとは言えずもどかしいが、それが嬉しくもある。
サラリーマンが早足ですれ違っていく。その忙しなさは会社への帰属意識なのか、はたまた反抗心なのか。社会の大多数が属する、そんな“普通”の枠に私はハマることが出来なかった。本来であれば学もない私は、道端に転がる石のように生きていく予定だった。だが、昔から好きで続けてきたダンスが、寸でのところで私を救い上げてくれた。
そのきっかけとなったのは、学生時代の先輩との再会だった。会社を辞めたその日の夜に行きつけの居酒屋で飲んでいると、隣の席に偶然座ったのが先輩だった。
奇妙な縁のおかげで、バックダンサーで実入りは少ないながらも仕事が続けられていた。また、あれ以来、恩人でもある先輩と時折居酒屋で遭遇しては昔話や愚痴に花を咲かせるのが、1つの楽しみになっていた。
「お、また来たね」
暖簾をくぐると、どちらかといえば女性に寄った中性的な顔がこちらを向き、手を振っていた。
「お疲れ様ですー。でも、また来たって、それ先輩もじゃないですか?」
「そういえばそうだ」
カウンター席に座る霞先輩はケラケラと軽やかに笑った。私もいつもの様にその隣りへと腰掛ける。大将にいつもの、と言うと威勢の良い掛け声がいつものように返ってくる。
「最近、仕事も頑張ってくれているみたいだね。紹介した手前、頑張ってくれて僕も鼻が高いよ」
「まあ、紹介してもらった仕事ですし、それに私も好きな事なので頑張らせてもらっていますよ」
「うんうん、君も満足しているようでよかった」
半分ほど飲み干したグラスを私のグラスへぶつけながら、人懐っこい笑顔を浮かべる霞先輩。
「ところで先輩のお仕事の状況はどうですか?」
「あー相変わらずだよ。もう、いいように毎日こき使われてヘトヘトだねー」
霞先輩はうつ伏せにテーブルの上へ倒れ込んだ。
「やっぱりそうなんですね…。転職するって選択肢はないんですか?」
「そうだね。君と同じで好きな仕事だから転職は…うーん…」
苦虫を噛みつぶしたような顔をする先輩を見て、私は笑う。先輩の仕事は激務の様で、以前から大変だという愚痴を何度も聞いていた。確か、薬品関係の仕事をしており、新しい薬の開発に携わっているとのことだった。私には別世界の話であり、何をするのか全く想像がつかない。
「いやー、しかし。君とこうやって親睦を深めるようになるとは思いもしなかったよ」
「本当にそうですよ!学生の時は全く…あ!」
「いやいや、そこは気を使わなくていいよ。君の良いところは、正直なところだからね」
ハハハと彼は朗らかに笑った。私は咳払いをして話を仕切り直す。
「全然関りがなかったですからね。そもそも、サークルでだって先輩の姿を見た記憶がないくらいですよ!逆によく私を覚えてくれていましたよね~」
「君はサークルの中心にいたからね。嫌でも目に入っちゃうよ」
「嫌でも!?なんか言葉に棘がありませんか!?」
「気のせいだよ」
「本当ですか?」
ああ本当さ、と誤魔化すように霞先輩はグラスに残った酒を一気に煽る。
実際のところ私は茶化すために出した言葉ではなく、本当に霞先輩のことを覚えていなかった。霞先輩の“影が薄かった”と言い切ってしまっていいのかもしれないが、本当に影が薄い存在だったのかと思う自分もいた。だが、話をしてみればサークルの話題も通じたし、もちろん共通の友人もいた。加えて、先輩の何処か掴めない軽妙な性格に、些細なことはどうでもよく思ってしまうようになった。とことん霞先輩は不思議な存在だった。
「あ、先輩、ちょっとお手洗いに行ってきてもいいですか?」
「ん?全然いいよー。行ってきなさい、行ってきなさい。ついでにお代わりも頼んでおくね」
御礼を言い、席を立つ。すると先輩のお代わりを頼む声が後ろから聞こえた。
席に戻ると新しいグラスが既に置かれていた。
「お帰りなさーい。はい、それじゃあ早速仕切り直しといこうか!」
霞先輩は気の抜けた声でグラスを持ち上げて乾杯を促してくる。
「本当に先輩は自由な人ですね」
自由に立ち振る舞うその姿に自然と笑みが零れてしまう。2人で再びグラスをぶつけあう。視界の端に私がお酒を飲む姿を実験動物を観察するかのようにジッと眺めている霞先輩が居たような気がした。
その後も冗談を言い合いながら霞先輩と気分よくお酒を酌み交わした。
「あ…」
だが途中で身体の違和感に気が付いた。唐突にそれが来た。目がかすみ、身体に力が入らない。鼻から垂れてきたものを拭うと、それは真紅の色をしていた。
「ちょっと、ちょっと、君!どうしたのさ!」
「すみません…急に身体の調子が…」
「きっと仕事の疲れが出てきたんだよ…。今日はもう早く帰って休みな」
心配そうにかいがしいしく世話を焼いてくれる霞先輩に促され、私は帰路につくこととなった。大将も看病をしてくれ水を飲ませてくれたり、頭を冷やしたりしてくれた。それだけでも体調は少し落ち着きを取り戻していた。霞先輩は先んじて外に出てタクシーを拾ってくれた。
「住所は言えるね?」
「はい、大丈夫です。さっきよりも幾分か良くなりました」
「そうか、そうか、それは良かった。でも、あまり無理はしないようにね」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、すみませんでした。先輩また改めて飲みましょうね」
「もう次の約束かい。まあ、君が元気になったら飲み直そう」
霞先輩は嬉しいような悲しいような、はたまた、しょうがないなぁというような表情をしていた。タクシーが走り出すと先輩の姿はすぐに見えなくなった。
「うーん、思ったよりも一次症状は早く出るんだねぇ」
走り去ったタクシーを眺めながら、ニヤついた顔で霞は言う。
「まぁ、計画の範囲内と言えば範囲内かな、うん。経口摂取した彼女だけ症状が出たのも素晴らしい。変に空気感染しなくて良かったよ。抗体のある僕は関係ないけど、モルモット以外が発症しちゃったら経過観察も対応の方も収拾がつかなくなってしまうからね」
霞はうんうん、と腕を組みながら頷く。
「どうなるのか本当に楽しみだなー。テキトーに話を合わせてたら勝手に先輩とか慕ってくる馬鹿なモルモットも実験に使えたし。でも、ボマーもレイスも好き勝手してるし、他の皆も準備は進めているみたいだから、負けないようにしないと!」
傍から見れば有名なネズミのキャラクターのようなコミカルな動きで霞は腕を掲げた。そして、その名前の通りに暗闇に溶けるように姿を消していった。
今回のお題:ウイルスに感染したダンサーが、居酒屋にいる。