第16話
ぎこちないピアノの旋律がホールに響いている。観客席のあちこちからソワソワとした気配が感じられる。かくいう私自身も所在なさ気な1人であった。
「お母さん、お姉ちゃんなら大丈夫だよ」
隣の席の4歳になる長男が私の袖を引っ張りながら言う。純粋な光を内包した瞳は、真っ直ぐに私を見つめている。
「そうだよね。お姉ちゃんは練習いっぱい頑張ったもんね」
私よりも落ち着いているその姿に、ふと成長を感じ頬が緩んでしまう。そのお陰か鼓動の速度は下がり、改めて周囲を見渡すことが出来た。
そこかしこに我が子を思う親たちの心配そうな目が幾つも浮かんでいる。もし心強い騎士様が居なければ、私もずっと同じような表情をしていただろう。
「はい、お母さん」
息子に声をかけられ視線を戻すと、その手には犬のぬいぐるみのポンタを持っていた。それを私に差し出していた。
「ポンタ、どうしたの?持っていなくていいの?」
ポンタは息子の小さい頃からの親友で、寝るときもご飯を食べるときもいつも一緒だった。
私が好きな事もあり家には様々な動物のぬいぐるみが置いてある。息子は、私や旦那が与えるわけでもなく、物心つくかどうかの頃に自然とポンタを気に入り、手離さなくなっていた。また、ポンタという名前は息子が勝手に付けた。私自身、動物のぬいぐるみは好きだが、一体一体に名前を付けるような人間ではない。名前の由来を息子に聞いてみたこともあるが、ポンタは自分でポンタと名乗ったという。流石私の血を引いているだけのことはあるかと笑ったものだった。
「うん!お母さんが泣いちゃいそうな顔をしてるから貸してあげる!」
「ありがとうね」
どこで覚えてきたのか息子は私を気遣ってくれたようだった。私は息子の好意に応え、ポンタを受け取った。毎日見ているつもりでも親の知らぬところで子どもは成長していくんだな、と先程までとは別の理由で涙が流れそうになる。
「あ!お姉ちゃんだ!」
それから何人もの子ども達の演奏を聞き終わり、いよいよ息子も暇になり足をブラブラさせた頃、見覚えのある恰好をした女の子がステージ袖から現れる。その姿を見た瞬間、私は声援を上げたくなるがグッと堪えて声を飲み込んだ。
張り詰めた空気の中でも手慣れた様子で椅子の高さを調整し、椅子に座る。細い腕がゆっくりと持ち上がり、小さな手が鍵盤の上に置かれた。そして鍵盤が鳴り響く。
「お姉ちゃん、凄かったね!」
表彰式も終わり、事前に話をしていた場所で待っていると息子は興奮した様子で私に話しかけてくる。
「そうだね。凄いね、お姉ちゃんは」
無邪気に喜んでいる息子に対して、外面もあるため私は落ち着いているように見せているが、内心では息子に負けず劣らず歓喜をしていた。
前々から通っているピアノの先生やその関係者にも良い評価を受けていた娘だが、本人たっての希望もありレベルが高いとされている今日のコンクールへと参加した。結果は、大人も顔負けの演奏を披露し、見事金賞を獲得することになった。
私も旦那も共に音楽経験の無い家庭だったが、突然変異ともいうべき才能を受け持った娘が生まれた。赤ん坊の頃から娘は少々不可思議なところはあったが、生きてく上で不便になるどころか力になるだろうと、本人が望むのであればその才能を伸ばそうと前向きに協力した。娘と私たちの努力が実ったことに、安心すると同時に胸を撫で下ろしていた。
抱き着いてくる息子の頭を撫でていると、少し先の曲がり角から少女が現れる。少女でありながらも、どこか落ち着いた雰囲気を纏うのは先程表彰式で主役となった私の娘・綺夏である。
「あ、ちゃんと待っていてくれたんだ」
開口一番に綺夏は意外そうに口を開く。
「何言っているのよ、当たり前でしょ。それよりも、今日は本当におめでとうね」
私は両手を広げ綺夏を抱きしめる。
「うん、ありがとう」
綺夏も少し遅れて抱き返してくる。
「あ、僕も僕も!」
仲間外れにされたと思ったのか、息子が脇でピョンピョンと飛び跳ねた。私ははいはい、と笑いながら綺夏を差し出す。すると息子は間髪入れずに姉を抱きしめた。
「お姉ちゃん、おめでとー」
「ありがとうね」
綺夏と背の小さな息子が互いに抱きしめ合っている姿を見て、心の奥がじんわりと温かくなる。
「よし!それじゃあ、帰ろうか」
私が手をパンと叩くと、2人は離れて、それぞれ頷いた。
「今日はパパにお願いして綺夏の食べたいものを食べにいこう。何が食べたい?」
夕焼けが街並みを橙色に染め上げる中、私達3人は並んで歩いていた。どのような結果になろうとも今日は綺夏の食べたいものを夕飯にしようと、昨夜旦那と話をしていたため希望はあるか隣を歩く綺夏に聞く。
「んー、何でもいいよ」
「もー折角のお祝いなんだから何でもいいのよ。お寿司でも焼肉でも」
「私じゃなくて、遼の食べたい物で良い」
綺夏は私を挟んで反対側にいる息子を見る。
「え?僕の食べたい物でいいの?じゃあ、お母さんの作るカレーが良いな」
「もう今日は綺夏のお祝いなのよ」
遠慮のない息子に私は唇を尖らせながらいう。
「でも、お姉ちゃんもそれでいいんだよねー?」
「うん」
「ほらー、じゃあやっぱりカレーだ!」
息子は心底嬉しそうな表情を浮かべる。
「綺夏は本当にそれでいいの?」
「うん、遼が喜ぶなら」
綺夏の様子を伺うと、はしゃぐ息子の姿を見て優しく微笑んでいた。
「なら、仕方ないか」
私は諦めたように柔らかい溜息を吐く。私と小さな2つの影はオレンジ色に染まる街並みを家に向かって軽やかに進んでいった。
今回のお題:動物好きな母が、演奏会場にいる。でした!
これまで登場した人物の過去の話になります。ここから先の展開は考えているので、早く書ける機会が来て欲しいです。




