第13話
巨大なファンファーレが場内に鳴り響く。聞き慣れていない音量に、僕は身体を一瞬縮こまらせた。周囲を覗き伺えば、今か今かと待ちわびていた来場者たちの緊張感も最高潮に達していた。張り詰めた一瞬の静寂、簡素な破裂音が鳴ると逞しい馬達の足音が響いた。
「先生、競馬場にでも行ってきたらどうですか?」
今後の予定を相談し終えて雑談を交わしていると、唐突に若い担当編集がそんなことを言った。
「突然どうしたんだ?いきなり競馬場だなんて」
「ほら。馬を見てみたいって、前に先生が仰っていたじゃないですか」
「そんなこと言っていたかな?」
「言っていましたよ!身体を休めなければならない時期ですし、取材も兼ねてと思えば丁度良いじゃないですか」
担当編集の言葉に、自分の右腕に視線を下ろす。そこには白い包帯とギプスに包まれた腕があった。
漫画家にとって利き腕は大事な商売道具だ。道具どころか命と言い切っても良いのかもしれない。そんな大事な物を、突然の事故によって私は失いかけたのだ。
ある日の午後、買い物をするために外出をした。部屋に籠ってばかりの僕にとって、外に出ることは珍しい出来事だった。そんな気まぐれが悪運を呼び寄せてしまったのか、歩道を歩いていると乗用車が突っ込んできた。僕の周囲には何人もの人が居たが、そのほとんどが被害を受けた。その中でも数名、命を奪われてしまった人もいた。後ろから上がった悲鳴で僕もすぐさま振り返ったが、時すでに遅く目の前に大きな鉄の塊が迫っていた。咄嗟に建物のある左手へ飛んだが、回避行動が間に合わず右半身を強打してしまう。いつの間にか地面に倒れ込んでいた僕の目の前を、赤色が少しずつ染め上げていく。そして身体を動かすことが出来ないまま喧騒の中で意識が次第に遠退いていった。
「担当医にも聞きしましたが、先生が咄嗟に避けてくれたおかげで、脳や内臓に後遺症が残るような怪我をされなかったようで安心しました」
担当編集の彼は、つい昨日事故が発生したのだが早速病院までお見舞いに来てくれていた。務めて明るい表情や声高に話をしてくれているが、やはり歯切れが悪かった。
「だが、右手の損傷が激しく、完治出来るかどうかは分からない、と」
僕は彼が言い辛いであろうことを先んじて言葉にする。2人は無言で厳重な治療痕が残る右腕に視線を送る。
犯人は高齢の男性だった。よくあるアクセルとブレーキを踏み間違えての事故だったらしい。止まろうとしたが誤ってアクセルを踏み込み、前後の車を避けようと歩道へ突っ込んだ。私は一回目の突っ込みで突き飛ばされた後、錯乱した犯人がバックをしてきたところで運悪く右腕が巻き込まれた、という形であった。もちろん、当時の私は意識が無い状態だったので、全ては人伝に聞いた話である。
「まぁ、全くダメだと言われたわけではないですし、ゆっくり治療していきましょうよ」
「そうだね。取り敢えずやれることをやっていこうか」
「先生の席はこの私がしっかり守っておきますんで、安心してゆっくり休まれてください!そもそも、ここ最近は落ち着いた休みも取れていなかったことですし、気分転換にはいいかもしれませんよ」
「ありがとう。一旦ここらで一休憩するのも悪くないかもしれないな」
握りこぶしを作り前向きに話をしてくれる彼のお陰で、釣られて私もなんとか悲観的にならずに仕事のことを考えられる気がした。
「取り敢えずここ数日は入院でしょうから、ちゃんと苦い薬だ出てきても飲んでくださいね」
「僕は子どもか」
「お好きなように取っていただいて構いません」
悪戯が成功した子どものように微笑んだ。彼は地面に置いていたカバンを手に持ち、立ち上がる。
「それじゃあ、私はこの辺りで失礼しますね」
「分かった。車に轢かれないように気を付けて帰れよ」
私は仕返しとばかりに意地の悪い表情をしていただろう。
「…先生、それ笑えませんて…」
そんな私に対し、彼は眉を寄せて汚物を見るような顔をしていた。何故こんなにも負けた気がするのだろうか。最後に「絶対安静ですからね」と捨て台詞を吐くと彼は病室を後にした。
静寂が訪れた病室で、私は右手に視線を落とす。白い包帯に数度水滴が落ちた。
数日が立ち、経過も良好で無事退院となった。そして自宅へ帰宅した翌日、担当編集の彼が来た。帰宅する日付等も彼とやり取りをしていたため、退院祝いも兼ねて顔出しに来てくれたようだった。その際に、おもむろに競馬場の話をし始めたのだった。
「だけどギャンブルもしない人間が行っても良いものかね?」
「関係ないですよ。そもそもみんな、周囲の人が馬券を買っているかどうかなんて気にしていないです。気にしているのは自分の財布の中身くらいですよ」
と担当編集の彼は笑った。僕は手に持ったコーヒーカップに口を付ける。鼻に抜けてくるコーヒーの風味を感じながら、彼の言葉を反芻し、確かにそうかと思う。
「のめり込み過ぎるのは勿論ダメですが、気分転換程度の遊びをしてみるのも経験の一部として良いかもしれませんよ」
「君は僕を悪い道に引き込もうとしているのか?」
競馬場へ行かせようとする彼の押しに自然と破顔する。
「先生の担当ですからね!面白い作品を生み出してもらう為になら、法律や人道に反しない限りはこの機会に沢山経験してもらおうと考えてます!」
「じゃあ、そこまで言ってくれるなら、ありがたくアドバイスに従わせてもらおうかな」
「お、そうですか!一応、競馬場の住所送りますんで地図アプリに入れて下さいね。先生は妙な所で抜けているので道に迷いそうで心配なので」
携帯にSNS経由で競馬場の住所が送られてくる。彼のSNSのプロフィール写真は、どこか海外に行った時のものらしく、国内から出たことのない私に事あるごとにその話をしていた。
「なんだか最近、僕に対する君の態度がかなり雑になっている気がするよ」
「それは気のせいですね」
彼は僕の細めた目に視線を合わせず、そっぽを向いてどこ吹く風である。いつもと変わらない担当編集者の姿に肩の力が抜ける。
「本当に頼りになる担当だよ」
一先ず来たからにはと思い、馬券を買うことにした。だが、競馬に触れてこなかった私はどこに行けばいいのか分からず右往左往していた。すると、そんな私に同乗したのか、僕と同年代くらいの男性が声をかけてきた。
「お兄さん、どうしたんだい?」
アロハシャツの上にジャケットを羽織るという独特なスタイルの彼に、僕は少し距離を取ってしまう。
「あの、馬券を買ってみたいのですが、その、初めてなもので全然分からなくて」
「あぁー、確かにお兄さん、こういう賭け事とは無縁そうな感じだもんね。仕方がない、それじゃあ経験豊富なこの俺が、購入の仕方を教えてあげよう!」
腕を組んで胸を張る彼の姿に、大人しい性格だと自負のある僕は逃げ出したくなっていた。そもそも、人付き合いに苦手意識があったことが漫画家の道を選んだ理由の一つでもある僕に、コミュニケーションおばけの様な存在はとても強烈であった。
引っ張られるように人が群がる記入台まで連れていかれる。
「ほら、ここで馬に対応した番号を選んで紙にマークするんだ。それが終わったら、向こうにある機械に読み込ませるんだ」
彼はあまり人の目など気にする様子もなく説明を続ける。だが、どうやら僕が周囲を気にしていることが伝わったのか、数度周りの様子を伺った。流石に不味いと分かってくれたのかと思ったが、僕の想いなど一ミリも伝わらず。
「此処に居る奴ら全員、明日になれば、いや下手をすれば一時間後には俺たちのことなんか忘れちまうよ。だから、あまり気にしなくていいと思うぞ」
と、純粋な笑顔を浮かべた。初対面の人に意見を言うことなど出来ない私は余計、身を小さくするのであった。
「…とまぁ、こんな感じだ。なにか分からないことはあったか?」
大の大人2人が並んでいるのを鬱陶しく思ったのか、時折嫌な目つきをしてくる輩も居たが、そこまで長くない説明が一通り終わったようだった。意外にも、というべきか人と関わっていることが多そうなのがプラスに働いたのか、その説明は要点を押さえシンプルで分かりやすいものだった。
「いえ、特にありません」
「そうか、なら良かった。みんな、あーだこーだ言ったり考えたりするが、基本的には運だ。だから、変にこだわり過ぎるのは良くない。頭に浮かんだ数字とかでパッパと選んだ方がかえって良い結果を生んだりするもんだ」
そうですね、と僕は同意の頷きをする。いかにも感覚派というようなことを彼は言うが、実は僕も同じ考えを持っていた。勢いに任せて書き上げた漫画を賞に応募したら受賞してデビューしてしまったし、何となく送った懸賞や願掛け程度に買う数枚の宝くじも当選することが多かった。同意されたことに嬉しかったのか、彼は僕の背中を軽く叩く。
「お、分かってくれるか!競馬友達とかパチンコ友達に言うと、いつも怒られるから俺だけそう思っているのかなと思っていたよー」
「それは話す相手を間違えているだけじゃ…」
「だって、賭け事の話は賭け事をしている人に話さないと伝わらないじゃん」
彼が口を尖らせる姿を見て、だったら言わなければいいじゃないか、という言葉を僕は口に出さず直ぐに飲み込んだ。
見守る彼の横で、セオリーや馬の知識など全く蓄積されていない僕は、頭の中にぼんやりと浮かんだ数字を紙にマークし、見様見真似で馬券を発券することに成功した。
無事発券できたことに安堵した私は小さく息を吐いた。
「おぉ、無事に発券出来て良かったね」
馬券を手に戻ってきた僕の姿を見て、アロハシャツの彼は微笑んだ。
「色々と教えていただき、ありがとうございました」
思うことが全くないわけではないが一人で心細かったところに現れてくれた彼に僕は素直に御礼を言う。
「いやいやいや、同年代の仲間が増えるのは嬉しいから、ただのお節介でしただけだから気にしないでくれよ」
ハハハと彼は謙遜するかのように手を振った。
「まぁ、また会うことになるだろうし、その時はよろしくしてくれよ」
そして真っ直ぐな瞳になると右手を差し出してきた。僕は自然と手を握り返す。
「あ、最後に忠告だけさせてくれ。勿体なく感じるかもしれないが、あと2レースも見たらここを出て欲しい」
「え?」
彼の唐突な話の内容に僕はつい呆けたような返事をする。
「詳しくは説明も出来ないし、今日会ったばかりの人間の話だが騙されたと思って聞いてくれ」
「…よく分かりませんが、分かりました。そもそも今日は何となく来ただけだったので、長居するつもりはありませんでしたよ」
「そうか。それは良かった。どうか頼む」
真剣な表情で話す彼に気圧されて、意味の分からない話ではあったが僕は頷くしかなかった。
「それと、これを渡しておこう」
彼は内ポケットから名刺を一枚取り出し、右手でフランクに渡してくる。そこには、「私立探偵 卯佐美 界」と書かれてあった。なにか期待した訳でもないが、裏返して裏面も確認する。
「あまり見慣れない仕事だろう?犯罪以外なら、ほぼほぼ何でもする便利屋さ。だから、困ったことがあったら、いつでも連絡してきな。お友達価格で依頼を受けてやるから」
と彼、卯佐美は笑う。そして卯佐美はどこかへと消えていった。
その後、案内図を細かく確認しながら、運良く事前に購入できた指定席へと足を運ぶ。そして、ソワソワしながら初めてのレースが始まるのを待っていた。
結論から言えば、運任せに書いた予想が見事的中した。しかも、オッズの高いかけ方だったこともあり、その配当額は高額なものとなっていた。訳も分からない私は唯一人、興奮と困惑の中に取り残されることとなった。
また馬券を買ってこようかと考えていると、ふと卯佐美が言っていたことを思い出した。何故かは分からないが、直感で卯佐美の言葉には従った方が良いと思い、早めに競馬場を後にすることにした。
自宅に戻った僕はテレビをつける。すると、先程まで居た競馬場の名前がテロップに出ており、瓦礫の山から黒煙が立ち昇る映像を映していた。
今回のお題:大怪我をした漫画家が、競馬場にいる。でした!




