【書籍化記念SS:2】ナミルの生い立ち
これはナタリーとケヴィンの結婚直前のこと。
スラスター騎士団副団長にして、ナタリーの護衛騎士を務めるナミル・スターンは、ナタリーと共にアンカー辺境伯邸の宝物庫を訪れていた。
「それで? 何で宝物庫なんかに?」
「できればアンカー辺境伯家に由来のあるものを結婚披露パーティーの飾りとして使いたくて。その方が辺境伯家の立場や歴史が強調できるでしょう?」
「あー。でも宝物庫っつっても名前だけで、最低限の手入れしかされてないと思うぜ? あんま期待しない方がいい。売り払っちまったもんもあるだろうしなぁ」
「まあそうなの⁉︎ 辺境伯家がかつて王国だった歴史を示す、とても大事なものなのに……」
話しながらナタリーが宝物庫の扉を開けると、王国時代の絵画やタペストリー、戴冠式に使われただろう王冠や宝珠、王笏といった品々が二人を出迎える。
長らくこのアンカー辺境伯邸で過ごしているナミルとて、王国時代の宝はそう何度も見たことがある訳ではない。
実際、幼い頃にケヴィンやユリウスと一緒に宝物庫に忍び込んで以来だ。
「なんだ、ナミルってば意地悪ね。ちゃんと綺麗にしてるわ」
「まあ、主立ったところはな」
宝物庫はそれなりの広さがある。それこそ、ちょっとした舞踏会でも開けそうな程だ。
中央には王国時代の貴重な宝物が鎮座し、まさしく宝物庫の名に相応しい様子だ。しかし端の方に行くと、もはや何に使ったものかも分からないガラクタもどきが積んであったはずだ。
ナタリーと並んで部屋の隅に歩いていくと、ナミルの記憶に違いなく、そうした有象無象に行き当たる。
全体的に埃っぽく、どことなく薄暗い。
思わずナミルは眉をしかめ、高い鼻をつまんだ。
「確かにこれはちょっと……。落ち着いたら、全部綺麗に整理したいわね。これじゃあ、宝物庫というより船の貨物室よ」
その言葉に、ナミルは思わず動きを止める。
まるで記憶の蓋が無理矢理こじ開けられて、中身が一気に溢れ出てくるよな感覚を覚えた。
ナミルがずっと心の中に閉じ込めていた記憶。
まだ幼き頃、数か月を過ごした、あの船の貨物室を――。
『いい? ナミル、ティニン。絶対に騒いではだめよ。ただ静かにしていれば、きっと全てが良くなるからね』
『うん。分かったよ母さん』
『こんなとこにずっといなきゃだめなの? ぼくもうここやだぁ』
『我慢してくれティニン。父さんも母さんも、兄さんも一緒だからな』
ゴツゴツとした貨物の感触、濃い潮の香り。うっそりと暗く、これまで感じたことのないほどの肌寒さ。
ナミルはその時のことを、よく覚えている。
西の国から帝国へと亡命するために乗り込んだ船の貨物室は、決して心地のいい場所ではなかった。
それでも不快な記憶として残ってはいないのは、きっと、ナミルを抱きしめる両親の腕の温もりと、繋いだ弟のティニンの掌の熱があったからだろう。
ナミルの生い立ちを一言で表すならば、「波瀾万丈」の四文字に尽きる。
ナミルの生まれた西の国は、彼が二十代半ばになる頃クーデターにより政権が覆るまで、暗黒の時代が続いていた。
横暴で独裁的な王による圧政が敷かれ、重すぎる課税に搾取される人々は、日々飢え死と隣合わせで生きていた。
ナミルの父は近衛騎士だった。国王の盾となる近衛騎士は西の国でも地位が高く、同時に裕福でもあった。
しかし王による暴政に、いつかは国が破綻すると、ナミルの父は西の国に見切りをつけた。命を懸けてまで守るほどの価値を、王に感じなかったというのもあるのだろう。
ナミルたち家族は国を捨て、新天地で暮らす決意を固めたのだ。
こうして亡命という手段を講じることができたのも、裕福であったからこそ。本当に貧しい人々は、そんな手段を選択することすらも出来ず、ただ今日を生き延びることに精一杯だった。
ナミルの父は帝国行きの貨物船の船員たちに金を渡し、海を渡った。
決して楽な船旅ではなかったが、ふんだんに手間賃を弾んだことと、ナミルの父が元騎士であり剣の腕が立ったために、船員たちからの扱いは悪くなかった。
船に揺られること、およそ三月。長い航海の果てに、ナミルたち一家は帝国へと辿り着いた。
ナミル・スターン、八歳の年である。
帝国に渡った、最初の一月は良かった。
両親はたっぷりと財産を持ってきていたし、安宿で身を寄せ合いながらも穏やかな生活だったとナミルは記憶している。両親は帝国の地で生活の基盤を整えようと必死だったものの、まだ余裕があったからだ。
しかし、父親はなかなか仕事に有り付けず、徐々に両親から焦りが見え隠れするようになっていく。
『駄目だ。碌な仕事なんてありはしない。せいぜいが船の荷役の手伝いくらいのもんだ。家を探すのも上手くいかないし、これじゃあ、家族が食べていくのは難しい』
『ごめんなさい……。私が病気になってしまったばっかりに……』
ある深夜のことだ。
すやすやと寝息を立てているティニンの横で、ナミルは毛布に包まれていた。
なかなか寝付けずにいたナミルは、両親の話す深刻そうな声を聞き、思わず息を殺して目をぎゅっと瞑った。
こほこほと咳き込む母親の背中を、父親がさする音が聞こえた。
長い貨物室の生活が悪かったのか、帝国に渡ってすぐ、母は肺の病を患った。金銭的に余裕があるうちは薬を買うことができるものの、増える金がほとんどないとなれば、いつかは完全に行き詰まることは目に見えている。
『やはり西の国出身というのが仇になっているようだ。……帝国は他国の文化の流入が多いから、そこまでではないと踏んだんだがな』
西の国の人々にとって、帝国は楽園のように語られている。
それは他の国と切り離された別の大陸に属するという地理上の特徴故に、伝聞でしか情報が伝わらないというのもあるだろう。
実際、あらゆる国との貿易が盛んであり、西の国と国境を接する国よりも余程、外国人を受け入れる素地があるのは確かだった。
だが結局、それは比較論であって、現実はそう甘くなかった。
帝国民にとって、西の国は未だ怪しい未開の地という印象があるのも否めない。
『そこで……皇都に行くのはどうかと思ってるんだ』
『皇都に? そっちの方が、仕事がありそうなの?』
『ああ。聞けば皇都にはあらゆる商業が集まっているし、人の数も多いらしい。もしかすれば、騎士は無理でも、傭兵か商会の護衛の仕事にはありつけるかもしれない』
『でも……上手くいくかしら』
寝たふりに徹しながら、ナミルはじっと両親の会話を聞いていた。
浅黒い肌に赤褐色の髪は、ナミルたちが西の国出身であるということを如実に語っている。
この様々な国の船が着く港町でも、それをジロジロ見られることは、少なくない。
果たして皇都では、一体どうなるのか。ナミルは嫌な予感しかしなかった。
それから数か月の時間をかけて、ナミルたちは皇都へと移り住んだ。
確かに、その判断は間違ってはいなかったのだろう。
ナミルの父はとある商会の護衛の仕事に就くことができ、古く狭いながらも、きちんとアパートの一室を借りることできたからだ。
――だがそれも、半年と経たずに破綻することになる。
『くそっ! なんでこんなことに……。俺は盗みなんてやってない‼︎』
『ゴホッゴホッ……そうね、私は分かってる。分かってるわ……ゴホッ』
『……お父さん、牢に入れられちゃう?』
『大丈夫だよティニン! 父さんは絶対そんなことしてないんだから! 無実の人が牢に入れられるなんて、そんな馬鹿なことある訳ないだろ!』
『そうだぞ。父さんがやったなんて証拠があるはずがない。だってやってないんだからな。だから大丈夫だ』
不安そうにするティニンを慰めながら、ナミルは実際のところ不安で仕方がなかった。
父が護衛を務める商会で、売上金が盗難にあった。そしてナミルの父は、真っ先に犯行を疑われたのだ。
当然父が盗みなどしていないことは分かっていたが、周囲の人間がどう捉えるかは、ナミルもよく知っていたから。
外国人だから。西の国出身だから。
まだ商会にとって新参者だというのもあるだろう。これまで盗難など一度も起きたことがないのに、今になってこんな事件が起きるとは、こいつのせいに違いない、という訳だ。
結局、真犯人は分からぬまま、ナミルの父は護衛の仕事を首になった。
それだけだけではない。噂が巷に広がって、ナミルの父は他のどんな仕事にも就けなくなってしまったのだ。
『これからどうしたら……ゴホッゴホッ』
『無理に喋るな。いいからお前は寝てろ。……情けない。こんなつもりでは……』
狭苦しいアパートの一室で頭を抱える父を、ナミルは初めて小さいと思った。
この頃、母の病はより悪くなっており、それまでは内職をするくらいの体力はあったものの、もはやベッドから起き上がれる日の方が少なくなっていた。
母は病に臥せり、父は当分働く目処が立たない。先行きは真っ暗だった。
『ねえ、最北のアンカー辺境伯領に行くのは? 帝国最大の騎士団があって、身分にかかわらず実力で騎士に登用してくれるんだって』
その話をナミルが聞いたのは、偶然だった。
買い物に行った帰り、肉屋の店主が大きな声で、息子がアンカー辺境伯領のスラスター騎士団に入団したと話していたのだ。
父は騎士団の中でもかなりの実力者だった。スラスター騎士団なら、きっとまた騎士の仕事に就けるのではないか。
ナミルはそんな希望を抱いていた。
『それはだめだ。彼の地は魔獣蠢く大地に近すぎる。そんな危険な所に、お前たちを連れて行けない。それにあそこは厳しい極寒の地だそうだ。母さんがそんな場所で暮らすのは不可能だろう』
魔獣蠢く大地。
それは西の国の民にとって、噂でしか聞いたことのない、悍ましく恐ろしい場所だ。
そもそも魔獣蠢く大地と地続きであるこの帝国は、それだけで他の国よりも奇異な立場にある。
そんな恐ろしい土地にありながら、この帝国は世界的に見ても発展した国なのだ。だからこそ、他の国々から羨望の眼差しを向けられている。
中でも、魔獣蠢く大地と接するアンカー辺境伯領は、とりわけ特殊だ。
西の国の民であるナミルたちにとって、アンカー辺境伯領に行くなど、自ら死地に赴くようなものであることは、間違いなかった。
『じゃあ、俺が働くよ』
『ナミル! お前はまだ子供じゃないか。そんなの無理だろう』
『でも子供の方が、小さな手伝いとかさせてくれる店はあると思うんだ。きっと生活の足しにはなるよ』
ナミルは覚悟が出来ていた。
再び土地を移ろうにも、母親の病を考えればまた長い時間をかけての移動はかなりの負担になる。
父も母も働けないのなら、ナミルがどうにかするしかない。
それにティニンはまだ小さい。ティニンを守れるのは、自分しかいないと思った。
その宣言通り、ナミルは翌日から必死に仕事を探した。
まだ子供だということが人の警戒心を解いたのか、同情心を誘ったのか、ちょっとした雑用や荷物運びなど単発の仕事ばかりでも、なんとか小銭を稼ぐことはできた。
徐々に蓄えが消えゆく中で、ナミルが稼ぐ日銭だけが、家族の唯一の収入となっていた。
そんなことが数か月ほど続いた。そんなある日。
(今日は割の良い仕事にありつけたぞ。これなら少しは生活の足しになる)
心持ち上機嫌にナミルが家に帰ると、アパートの入り口に人だかりが出来ていた。
人だかりの奥から、泣き声混じりの叫び声が聞こえる。
ただならぬ様子に、ナミルは慌てて人波を掻き分けた。人だかりを抜けた先には、異様な光景が広がっていた。
『父さん、母さん!! 起きて! 起きてよ……!』
ティニンが地面に臥して、必死に声を上げている。
ティニンが覆い被さっているのは、母親の背中だった。
その母の下には、父親が倒れている。
うつ伏せで顔が反対を向いているためナミルからは表情が分からなかったが、間違いなく、ナミルの父と母だった。
『男の方が急に頭を抱えて倒れたらしい。それを見た女の方が駆け寄って男を揺さぶってさ、途端咳き込んだと思ったら苦しみ出して、あの様だよ』
『なんだぁ? 奇病か? 流行病じゃないだろうな?』
『あの男あれだろう? ジョッシュの商会で盗みを働いて辞めさせられた』
人々は助けるでもなく父と母を見下ろし、ヒソヒソと話している。
その様子に、ナミルは酷く腹が立った。
『おまえらあっちに行け!!!!』
ナミルは振り返り大声で怒鳴り付けると、ティニンに駆け寄った。
近くで見た父親の口からは泡が覗き、頭から血を流していた。母親は苦しげに顔を歪めたまま動かない。
その二人の顔は、これまでに見たことがないほどに真っ白だった。
『お兄ちゃん! お父さんとお母さんが……! どうしよう! どうしよう‼︎』
泣き叫ぶティニンに、ナミルはなんと答えたんだったか。ただティニンを抱きしめながら、呆然と座り込んでいた。
ある日突然、ナミルたちは孤児になってしまったのだ。
何故二人が死んでしまったのか。今となれば、おおよその予想は付く。
父は精神的負荷が重なった故か、脳の血管が詰まったか何かで倒れ、その際に運悪く、頭を強打してしまったのだろう。
そんな父の最期を目撃した母は、衝撃で発作を起こして呼吸が出来なくなり、そのまま後を追うように死んでしまったのだ。
けれど、当時のナミルには何も分からず、「どうしてお父さんとお母さんは死んでしまったの」と泣きじゃくるティニンに、何も言ってやることができなかった。
むしろ、自分が聞きたいとさえ思った。
そこから、ナミルの記憶は朧げだ。
父と母の亡骸を共同墓地に埋葬すると同時に、ナミルは幼いティニンと二人、皇都を放浪することになった。
アパートにそのまま住み続けることはできなかった。既に父親が収入を得ていた訳でもないのに「金を払えるあてがないから」という理由で追い出されたのだ。
金ならあると言っても、聞く耳を持ってはもらえなかった。まだ二桁の年にもなっていない子ども二人だ。当然と言えば当然だろう。
家がなくなり、新たな住処を得る目処も立たず、ナミルとティニンは路上で生活せざるを得なくなった。
そんな生活をしていれば、どうしても身なりが汚くなる。浮浪者を雇ってくれる所などありはせず、小銭を稼ぐことすら難しくなった。
それでも残った金銭を切り崩し食料に有り付いていたが、路上に住む幼い兄弟が、そんな纏まった金銭を持ち続けられる訳がなかった。
寝床にしていた路地裏の壁に隠していた全財産は、ある日跡形もなく消えていた。
それからナミルは、生きるため、たった一人残った家族であるティニンを守るために、なんでもやった。
真っ当な仕事は諦めて、スリや盗みを覚えた。粗野な言動を覚え、暴力に対抗するための暴力も覚えた。
『お兄ちゃん、もうそんな危ないことしないで。お兄ちゃんまで死んじゃったら、僕どうすればいいの?』
ティニンはよくそう言ったが、ナミルは軽く笑うだけで全て聞き流した。
決してティニンの手を汚させまいと必死だったから。自分が手を汚さなければ、生きていくことができなかったから。
兄として、弟を守ることだけが、ナミルの生きる意味になっていた。
そんな日々が、一年半は続いただろうか。
けれど、珍しく皇都に雪が降った、ある冬の朝。
前日から熱を出していたティニンは、ボロ切れ同然の毛布に包まれたまま、冷たくなっていた。
ナミルは吼えた。
何故神は、自分から全てを奪うのか。
家族みんなで、ただ生きようとしただけだというのに。
『幸せになるために、これからも家族で生きていくために、この国に来たんじゃなかったのか。なのに、何故、俺は一人なんだ? 何故……‼︎』
悲痛な「何故」を何度叫んでも、寒空に溶けて空虚に消えていく。
ナミル・スターン、十一歳の冬。
ティニン・スターンは、享年八歳だった。
父と母の墓の横に勝手に穴を掘り、ティニンを埋葬したナミルは、逃げるように皇都を飛び出した。
家族の近くに居たら、自分が一人である現実を突きつけられるような気がしたから。いっそ、自分は元から一人なのだと、家族など元から居なかったと思った方が、幾分かマシだった。
それからというもの、ナミルは各地を転々とすることになる。
どの地にも孤児はいたが、ナミルのような明らかな異国人は少ない。真っ当な人々からだけでなく、路上で暮らす孤児たちにも疎ましがられ、一箇所に長くはいられなかったのだ。
ただ一人、死なないから生きているだけの生活が、一年続いた。
よく一年も続いたと言えるだろう。ナミルは既に生きる意味も、価値も、何も見出せていなかったのだから。
それはどこの街だったか。皇都よりも北にある街だったとだけ記憶している。
ぱらぱらと冷たい雨が降った日だった。
黒い雨雲を虚な瞳で見上げながら、ナミルは思った。
(魔獣ってどんなやつなんだろう。そんなに恐ろしいものなのか? あの時の親父の判断は、正しかったんだろうか)
もしあの時こうしていれば、もしあの時この選択をしていたらという、「もしも」は何度も頭をよぎった。そのほとんどは、もう既に確認する術のないものばかりだった。
けれど、アンカー辺境伯領には、行こうと思えば行くことが出来る。
ナミルがその思い付きを行動に移したのは、言って見れば人生の答え合わせをしたいという衝動だっただろう。
アンカー辺境伯領に行けば、魔獣を一目見れば、答えが分かるかもしれない。
ナミルがその時にアンカー辺境伯領行きを決意したのは、運命だったのかもしれない。
当時のナミルには知りようもなかったが、冬になり雪深くなると、アンカー辺境伯領と他領を隔てる山脈を越えることができず、完全に隔絶されてしまう。そのため、冬前のその時期、冬支度のため辺境伯領まで向かう荷馬車は数を増すのだ。
アンカー辺境伯領行きの荷馬車を探し出したナミルは、こっそりと荷台に忍び込んだ。
そこから数週間。飢えと寒さに耐えながら辿り着いたアンカー辺境伯領は、噂に違わぬ、極寒の地であった。
どこか陰鬱とした暗い空気。冬本番はまだだというのに、凍えるような寒さ。
太陽が年中降り注ぐ暖かな西の国出身のナミルにとって、そこは地獄ような場所だった。
ナミルはふらふらと、街の郊外を目指して歩いていった。
彼が降り立ったのは、アンカー辺境伯領の中心街であるシャンク。
魔獣蠢く大地は縦に細長く続く領地をずっと北上した先だとは露知らず、ただ森の方に行けば魔獣に会えるのではないかと思ったのだ。
魔獣を目にしてどうするかは、何も考えていなかった。
万一魔獣に出会したら、命が危ないかもしれないという予感はあった。しかしむしろ、ナミルはそれを望んでいたのかもしれない。
ナミルは、生きることに疲れ果てていた。
もしも魔獣が本当に恐ろしいもので、出会った瞬間に命の危険に陥るようなことがあれば、父の判断は正しかったということだ。
つまり最善の選択の先で、たまたま不幸に見舞われただけなのだと。そう考えれば、ナミルも仕方がなかったと、全てを諦められる気がした。
ナミルの足には、穴の空いたブーツがはまっていた。寒さに悴み、やがてうまく足を動かせなくなり、その場で倒れ込んだ。
街の外れはもの寂しく、人など誰も通りはしない。
荷馬車に揺られた数週間、持ち込んだ僅かな食料だけで食い繋いだナミルは、もう限界だった。
腹が減って、寒くて、もう一歩も動けなかった。
このまま、魔獣に会うこともなく、ただ凍え死ぬのだろうか。
そう思った時だ。
民家の屋根の向こう側に、城が目に入った。お伽話に出てくる優美な城とは一線を画すような、どこか人を寄せ付けない厳しさを感じる城。
ずっと俯いていたナミルは、その時初めて、城の存在に気付いたのだった。
(あの城……一体どんな奴が住んでるんだか……)
朦朧とする意識の中で、ナミルは思った。
きっとあの城に住んでいる奴は、怪物のように恐ろしい奴に違いないと。
『ユリウス! 大変だ、あそこに人が倒れてる!』
『ケヴィン様、待ってください〜!』
遠くから子供の声が聞こえた。
ナミルはその声をただの幻聴だと思った。
しかしそうではなかった。しばらくして、霞む視界の中に、二人の小さな少年が現れたのだ。
『君、大丈夫か⁉︎ 何でこんなところに』
『この髪と肌の色……。ケヴィン様、どうやら彼は西の国出身のようですよ』
『それならこの地の寒さは堪えるだろうな……。よし、屋敷に連れて行こう』
『え⁉︎ 本気ですか⁉︎』
(やたらと綺麗な顔の奴らだな……。特に、黒髪の方。灰色の髪の奴、ティニンと同い年くらいかな……)
二人が真剣に話しているのを、ナミルはぼんやりとそんなことを考えながら眺めていた。
ナミルとケヴィン、ユリウスの初めての出会いだった。
その後、アンカー辺境伯邸へと迎え入れられたナミルは、十分な食事と世話を受けて、徐々に回復していった。
かなり衰弱していたが、元より体力がある方だったことが幸いし、一月もすればすっかり元通り動けるようになった。
ナミルはそのまま、屋敷に残り雑用係の使用人として働いた。
しかし元々騎士であった父譲りの恵まれた体格と、並外れた運動神経を持ち合わせていたナミルに、ケヴィンは一緒に剣の訓練を受けることを提案した。
やがて二人は共に剣の腕を磨き、目覚ましい成長を遂げていく。
そして時は流れ。
ナミルは実力で、スラスター騎士団の副団長の地位まで上り詰めたのだった。
「――ミル! ナミル! どうしたの、ぼうっとして」
ナタリーの声で、ナミルは記憶の海から一気に意識を浮上させる。
彼女の様子から、自分がそれなりの時間、考えに耽っていたことが窺い知れた。
「ああ悪い悪い。ちょっと昔のことを思い出してた」
「昔のこと? ああ、ケヴィン様とここに忍び込んだ時のことね」
ナタリーのその言葉に、ナミルは曖昧に笑って返した。
もう今となっては、遠い記憶だ。
ナミルにとって、このアンカー辺境伯領でケヴィンたちと過ごしてきた時間の方がずっと長い。
今のこの状況は、単純に運が良かっただけだ。あの時ケヴィンがナミルを見つけなければ、間違いなく、ナミルはあそこで命を落としていただろう。
そう考えれば、父親の判断が間違っていたとは言えない。
それでも。
「まあ……なんつーか、ここに来てよかったなと思ってさ」
ナミルは俯きながら目を細め、小さく笑いながら頬を掻く。
「なあに、それ。そんなに宝物庫に思い出があるの?」
くすくす笑うナタリーを見たナミルは、ふっと笑って、天井を見上げた。
(お前にも見せてやりたかったなあ、俺の剣さばきをさ。ティニン)
今なら、お前を守ってやれるのに。
後悔と苦しさの滲むその言葉を飲み込んで、ナミルはナタリーと共に宝物庫を後にする。
宝物庫は、ナタリーの指示ですぐに綺麗になることだろう。
あの船の貨物室は、ナミルの心の中だけに残される。
きっと、それでいいのだ。
明日はナタリーのケヴィンと出会う前のお話です!




