a last summer
a last summer
ずっと朝と昼と夜が続いていた。下から朝がグラデーションを作って、上の方は満点の星空が夜を支えている。薄く白桃色の朝焼けが夜の闇を照らして押し戻そうとしているのか、煌めく星空が朝を吞み込んでいこうとしているのか。見るものが見れば幻想的で美しい世界とまで言われるその世界は雲海に包まれていて、更なる美麗な幻想世界へと華を添えられていた。広く、どこまでも広く世界を満たす雲海に一本の枯れ木が生えており、その頂上で佇む女性がいる。
服毒自殺したみすゞは死んだ後、空の世界に閉じ込められていた。周りに誰もおらず、今はただずっとその一本の枯れ木に宿っていた。死んでからどの位の時間が経ったかも分からない。雲海は果てしなく続き、昼と夜とを繰り返す。寒さもなく、暑さもなく、ただひたすらに繰り返す。暇も続けばその体には毒となる。下界へ降りる術を見つけるべく雲海へ近づこうとすると、とんでもない風が女性を襲い、吹き荒び、体を一本の枯れ木へと押し戻してしまう。雲海から吹き出る風は正に霞を払うようで、振り払おうとしても何も変化はない。むしろ、自分の体に質量が無いかのようだった。雲海の上を歩くことはできず、泳ぐこともできず、空を飛ぶ鳥も見えず、結局この一本の木へ宿るしかできない。思えばこの木は何なのだろう。雲の高さをゆうに超えるこの木は考えるに5000mを軽く超えている。例え高い山脈の上に成っている木だとしても、雲海の下へは行けない。こんなにも長い間雲海のかかる、朝も夜も昼もない世界で、こんなに高い木が生えている場所なんて、聞いたこともない。どこかで風聞があったとてつもなく大きくなる豆の木のようなお話があったが、それなのかもしれない。
ふと、どこか、遠くから声が聞こえた。音も風もないこの世界では、音が聞こえるというのは大事件だ。その音はどうやら木と雲海の狭間から聞こえるようだった。小さなくぐもった声であほか、何をしとんねん、というような声が聞こえる。これは懐かしい、人の声というものではなかろうか。声の鳴る方へ近づこうとすると、いつもの強い風が吹く。雲海との間に近づけば近付くほどとてつもなく強い風になる。一本の枯れ木の枝を手で、足で、しっかりと掴んで、一歩ずつ、木の根元へ近づいていく。重力に逆らうことの行動はちぐはぐだったが、もうどうだってよかった。声が風の音と混ざって、大きくなってくる。髪が振り乱され、普通なら声が聞こえないほどの暴風の中、白く細い手で、足で、枝を押し、風に逆らって根本近くまで来た。
早く、ほら、手を…!
先程よりも大きく聞こえた声と同時に、雲海と木との境界面から手が伸びてきた。恐らく若い女性の手だろう。ふるふると震え、とても力を入れて伸ばしているのがわかる。
「…うぅぅっ!!」
暴風に負けじと堪えた時に、90年ぶりに、自分の肉声を自分の耳から聞いた。いくら叫んでも聞こえない自分の声はこんな声だったのだと、懐かしさと、思い出とが蘇り、両の眼から涙が溢れる。ガシッと両腕で自分の腕を掴まれたみすゞは雲海から引きずり出された。
ミンミンと蝉が鳴く。我こそが正義と言わんばかりの声量で現世を包み込んでいる。とんでもない音の洪水が、みすゞの耳を襲った。太陽の光と、湿った暑い空気と、どんなに願っても叶わなかったこの感覚が素晴らしいものだと、みすゞは思った。みすゞは自分の手を掴んでくれている少女を見た。目の前にいるのはみすゞよりも随分若いだろう、髪が茶髪でいかにも洋風な出で立ちの、恐らく女学生位の少女がいた。身長はみすゞより随分と高く、ハァハァという息遣いで、大変に苦労をかけたようだった。みすゞは少女に両腕をかなりの力で掴まれている。少女の顔は焦りと、興奮と、怒りとが混ざったようなおかしな顔をしていた。あの雲海の檻から脱出した興奮と世界をまた感じることのできた感激で、みすゞは少女から怒られるよりも先に、笑顔と一筋の涙を流しながら言った。
「ありがとう」
みすゞが死んでから90年後の世界はあからさまな変化を遂げていた。車が町を跋扈し、平屋ばかりだった町はビルが立ち並ぶ街へと変化しており、街行く人の出で立ちや雰囲気が変化している。かなりお金持ちの豪邸以外には大きな建物はあまりなかったはずなのに、大きくて見たことのない建物が数多く建造されている。ただ、眼前に広がる海は空は変わらず雄大だった。遠く見える青は広く、自分を苦しめていた長門の土地がこんなにも懐かしく、面白い匂いでいっぱいだとは、生きている時には思いもよらなかった。あのクズ亭主さえいなければ、私は幸せに暮らしていたのかもしれない。もう少し強ければ、ただあの人から逃げ、普通の生活ができたのかもしれない…いや、それだとしても、娘を置いていった自分が何も言う権利はない、と思い直した。あの日真剣な気持ちで書いた詩を私自身で体現できていないのは弱さ。死という逃げ道を選ぶのは狡猾さ。この世への未練をすべて断ち切りたいと思った罪人の成れの果てがあの牢獄だったのだとしたら、なんと恐ろしい罰なのか。それでも、現し世に足を踏み戻したというのは少しは贖罪ができたということなのだろうか。それとも、ただの神の気まぐれなのだろうか。神様でも、化け物でも妖怪でもいい。あの虚空な牢獄から抜け出せた事に感謝しなければ。本当にありがとうございます、とみすゞは空を仰いだ。
「何で死のうと思ったん?」
「え?」
「え?やなくて!あんな高い木登って遠く見て泣いとったら、死のうとしてるって誰でも分かるやろ!」
訛りがあるが、山口弁ではないようだ。自分よりも若いのだろうが、大人びて見えるのは化粧が濃いからだろうか。キラキラとした紅をつけて、目の周りもキラキラとしている。髪は茶髪で、外国人のような長身。端正な顔立ちで、みすゞは海外からの血が混ざった女性なのだと勘ぐった。
「いえ、あの、登ったというより、死んだあとにあそこに居たというか」
「やっぱり死のうとしてたんやん!もーー!ウチが死のう思てた所やったのに、何でこんなことになるかなぁ」
不穏な言葉が聞こえた。死のうとしていた?その言葉にみすゞは過剰なまでの反応をする。
「だめです!死ぬと最悪な目にあいます!絶対だめです!」
その言葉に少女はカチンと来て語気を荒げる。
「今死のうと思うてた人がよぉそんなこと言うわ!」
「違います!私は死んでたんです!ずっと、何年も何年も…!多分!」
「…はぁ?何言うてんの?!こんなに立派な着物着て、足も手も五体満足でおんのに!」
「五体満足なわけ…!…五体満足…」
みすゞはふと、今の状況を見直した。生前の家事を一心に行っていた少しだけ火傷の痕がある細く白い手、目の前の女の子とは違うチンチクリンの足、生前によく着ていた他所行きの着物まで来ているではないか。暑いことこの上ない夏という気候が通気性の悪い着物に悪さをし、汗がジクジクとしみる。詩家として、死後の世界を想像した事は何度もあるが、こんなにも生々しい状態で現世に戻れる事があるのだろうか。風の音も、手に伝わる気温も、色鮮やかな緑と青も、よく言われる怪談に出てくる幽霊の状況とは違うような気がする。私は確かに死んだはず、とみすゞは回顧した。確かに服毒自殺を選んだから、外傷が無いのは頷ける。しかし、死んだ時と服装も違うし、何故こんなにキレイに蘇ったのだろうか?
「…あー、もう、ええわ。ウチも今日はやーめた」
反応のないみすゞに、少女は興味を失った。
「あ…すみません、助けて頂いて、お手伝いできず」
「え?何、死ぬ手伝いしてくれんの?」
少女がぶっきらぼうな表情に悲しさを浮かべた。しかし、口元だけは強がりなのか、ニヤけるように上げられている。
「しませんけど」
「ハッ、まぁええわ。早く帰ってもう忘れたら?」
少し怒ったような口調で、スタスタと足早にその場を離れようと少女はみすゞに背を向けて歩き出す。帰る、という言葉でみすゞは途端に思い出す。
「あの!今何年何月何日ですか?」
焦るように言うみすゞの言葉に、少女は歩みを止めて、振り返らずに言った。
「2020年7月1日~」
ヒラヒラと手を振った少女はそのまま歩いて去っていく。その後ろ姿を、みすゞは見ていられなかった。
「あ、の!帰る所ないんです!」
その言葉は本当の意味として使われたのだろう。みすゞは奥ゆかしい性格で、大きな声で人に助けを求めるような本性を持ち合わせてはいなかった。ただ、不思議と周りには誰もおらず、そよ風のみが心地よいその体温が高揚させたのか、自分が興奮状態だったからなのかは分からない。ただ、間違いないことが一つある。少女を慮ってのことだった。死ぬという言葉を平気で使っていた若さと、悲しさ。見た目はまるで違うし、年齢も恐らく一回りは違うであろう少女を、自分と重ねてしまったのだ。みすゞは、あぁ、そうか、私は周りからこの様に思われてしまっていたのかもしれない。ふと、自分が生きていた頃の町を思い出すと、眼前に広がる景色と差異はあれど、同じく不幸な事も幸せな事も表裏一体な、ただの現実が続いているのだということが推し量れた。おそらく少女は不幸で、辛くて、死にたくなる程の現実が襲っているのだろう。少女はクルッと振り返りみすゞを見た。カツカツという音で近付いてくる少女からは、また怒るぞ!という気迫を感じた。
「帰る所ないとかそんなことどうでもええねん。おかんが事故で昔死んで、おとんの実家があるこっちに引っ越してきてからおとんも病気で死んで、実家のジジイ、ババアは金の事ばっかで孫のウチが嫌いで追い出されたから、おとんが持ってる家に彼氏呼んで一緒に暮らしてたけど、その彼氏にも浮気されて、出てけとか言われて、ウチはどういう風に生きてったらええの?帰る家なんか無いのはウチも一緒や。帰ったらずっとあーだこーだ言われるんやで?同級生にはヤリマンだの不潔だの言われて、どこに居場所なんてあるん?あんたはまだ大人なんやから、自分で自分の始末つけられるんやからまだマシやん。何でウチだけこんな不幸なん?不公平ちゃうん?ずっとずっと不幸で、死んだ方が楽やとおもって来たのに先客がおって、水刺されて、果ては帰る所がないとか身の上話聞かされて!ウチはそんなんに構ってるほど普通の人間やないねん!不幸で!不幸で!不幸でさぁ!」
最後の方は涙ながらだったが、とても理路整然と話してくれたおかげで生い立ちが分かった。少女にはあるまじき、酷い人生だ。そして、不幸のレベルは人によって感じ方が違う。みすゞはみすゞでひどい思いを抱えてきた。やはり、自分と似ていると思った。
「それは辛かったですねぇ…」
本心からそう思った。まくし立てられ呆気に取られたが、とても辛い人生だったのだ。辛い人には辛いと言ってあげるのがいい。自分がそうだったように。
「なん…何なんよ…」
心底辛そうなみすゞの顔を見た少女は、遥か昔の記憶にある大人からの慈しみと重ねる。母親が幼い自分へ柔らかな物腰で好きだったあんぱんを千切って食べさせてくれた、柔らかい時間と、膝に乗って見上げた母の表情に似ていた。
「ホント…何で人生って上手くいかないんでしょうねぇ。人と違うものを持っていると、どっかの誰かからつっつかれる。ほんと、世の中って嫌なことばっかですよねぇ」
親身な声がしている。目の前の大人は少しだけ他の大人より優しかった。
「あなたはとても綺麗で美しいんですから、それだけで生きる価値、あると思うんです。少しだけでいいから、あなたの話を聞かせて下さい」
ただ、それだけで少女はせき止めていた感情をあふれさせた。
「うぅ…うっ…うぁあああー」
涙を堪らえようとしたが無駄だった。みすゞは久々に自分の娘を見たような気がして、自分よりもずっと高い身長の少女の肩に手を軽く置く。
彼女の名前は伊藤明日という美しい名前だった。まだ17歳のれっきとした少女だ。目のところに付けていた化粧が取れて隈取のようになっている。ハンカチを持っていなかったので着物で拭こうとしたら、手を払って断られた。少女は恥ずかしがり屋で、目上への反抗心でいっぱいの、でもとても良い子だった。
詳しく聞くと、少女は今付き合っている男性がいるが、どうやらみすゞの生前の夫と同じく間男なようで、その話を聞く内にみすゞにも殺意が湧いた。みすゞはその昔、義理の父に「浮気は若い男の病気みたいなもんじゃけぇ気にするな」と言われて放っておいたことがある。それがあの男を調子に乗らせたのだと理解している。そして、長い空の監獄に閉じ込められたみすゞは、自分がいかに弱かったのか、いかに勇気が無かったのかを省みて、反省した。その怒りは現世に蘇り力となる。みすゞは死んでから強制されていた『暇』という鎖から開放され、何でも出来る気になっていた。死後90年経過した世界では、幼児とさほど変わらない知識量だ。それでも、26年生きてきた力を、自分を引き戻してくれた少女の為に使うことに、何の抵抗も無かった。みすゞは心からの感謝を明日に伝えたい。素直に伝えてもこの手の少女は受け取らないだろうと考えたみすゞは、明日の思考に寄り添う事にした。
「明日ちゃん、今からその男をぶん殴って追い出しましょう。その家は明日ちゃんの家なんですから、別の人間が居座ってるなんておかしいんですよ」
「…無理やって。4つも年上やし、めっちゃ恐いねん」
堤防に座って海を眺めながらする会話ではないが、みすゞは楽しかった。一度死んだ身としては、誰かと話すだけで頭の中に電気が走り、次々と言葉を紡ぎたくなってくる。青い海と、照りつく日差しが汗をかかせる。着物の中では薄着な方ではあるが、こんなに暑いとみすゞも少女も汗だくになっていた。
「あら、私は28(数え年で)よ?そんな若い男、怖くも何ともないですよ」
手巾がなく、キレイな着物で気にせず汗を拭くみすゞを豪快だと明日は思った。先程崩れた化粧を拭こうと、自分の顔へ着物の裾を近付けてきた彼女の手を払った意味とは…。
「何、そいつ、殺してくれるん?」
明日は無理難題をみすゞへ伝えた。少し人の良い女性でも、生々しい言葉が出れば、逃げるだろうと思っていた。しかし、みすゞはそんなことで引くほど弱くはない。
「殺してもいいと思うんですけど、そうですねー、んんー、そしたら、半殺し位にしておきます?」
みすゞは笑顔で言っていた。明日の方が逆に引いた。
「いや…そんな笑顔で言われても」
「間男にはそれ相応の罰が必要なんですよ。まずは右目をえぐって…爪を全部はいで…」
「いや、そこまでせんでも」
「あはは、冗談です。でも、追い出すのに脅しは効きますよ。それにね、邏卒(警察)に言えばそういったのって相談に乗ってくれますよ」
「らそつ?」
「あら、今は違うのかしら…。まぁ、まずは家に行きましょ」
「いや、アカンて!あの人、物とか普通に投げてくるんやで?」
「そしたら私も投げ返しますよ。女性に乱暴する男は、絶対に許しません」
私怨のこもった強い意志は、明日に少しの勇気を抱かせた。
「…ハァ。まぁ、そやね。どうせ死ぬつもりやけど、その前に思いっきりぶん殴ってからの方が気持ちええやろし」
明日の言葉から、まだ死ぬ事を諦めていない事が分かったみすゞは少し複雑だった。自分もそうであったが、死ぬ気というのはやる気よりも強く、重く、他人に止めることは中々難しい。何とかして止められないものか。
そうこうしていると、明日の家の前まで来た。海から離れ、少し内地に戻る形で坂を登ってきた。暑い最中、着物のみすゞは人の目を引く。逆にみすゞの目は色々な人や町、店、張り巡らされた電柱や家屋に引っ張られていた。明日に何度も、早く、こっち!と言われて後ろ髪惹かれる思いで歩き出したことか。見るもの全てが珍しく、心は踊り、気持ちは浮かれていた。ただ、浮かれてばかりもいられない。今から明日の敵、いや、悪魔と戦わなければならないのだ。自分が住んでいた家屋よりも広く、大きい3階建ての灰色な建物の前に来て明日は足を止めた。
「ここの203号室」
どうも長屋のような集合住宅なのだと察した。小さい土地にここぞとばかりに家が詰め込まれて、かなり窮屈そうに店や建物、家屋が並んでいるのを見ると、広々としていた90年の月日は面影をあまり残してはいなかった。木造の家が少なくなったこの時代は少し、冷たいような印象も受ける。このマンションと呼ばれる建物の203号室に敵はいる。
「今もいるんですかね?」
「多分…」
「じゃぁ、行きましょうか」
「あ、いや、ちょっと待って」
明日は少し調子が悪そうだった。無理もない、死にたくなる程のトラウマを植え付ける男と再度対面しようと言うのだ。化粧落としペーパーで拭い取った(その様子を見てみすゞは文明が進んでいるのね!と内心喜んでいた)明日は、スッピンの綺麗な肌色に少し青見がさしている。今までずっと死んでいたみすゞの顔の血色の方が良いくらいだった。
「明日ちゃん、今日はやめとこっか?」
大丈夫?と言わない、気遣い屋のみすゞの言葉にも明日は怯まなかった。
「ええわ。ここまで来たんなら死ぬ気や」
ずっと闇寄りの言葉が紡がれる事だけが悲しかったが、みすゞは明日に頼られていると分かるのが嬉しかった。明日は気付いていなかったが、明日の右手がみすゞの着物の端を掴んでいた。まるで稚児が自分を求めてくるかのような可愛らしさと、強くあれという世界の卑屈さを少女に求める因果のおかげで、みすゞにより強い慈愛を刻み込んでいく。
「そんなら、行くで」
明日は鞄の中から鍵を取り出し、203と金色のプレートで、可愛らしい字体の数字が埋め込まれた扉の鍵をカチャリと開ける。二人がそっと中を覗くと、誰もいなかった。6畳が3部屋分の間仕切りがしてある家で、風呂も厠も別。台所も広く取っている。中々の集合住宅だった。中に入って部屋を順繰り見ていったが留守のようだ。ただ、誰かがいた形跡は多数あり、男物の服が所かしこに散見される。
「これは僥倖」
「え?何て?」
ニヤリとするみすゞだったが、あまり勉強をしてこなかった明日はぎょうこうというのが何か理解できなかった。
「ふふ、ほら、手伝って」
そう言って、みすゞはまず着物の裾を捲し上げた。
それから6時間後、やっと街灯が灯り、夜を迎える準備をしていた。みすゞが生きていた当時、こんな田舎では、ランプやカンテラに明かりを灯し、幻想的な小さな光を多く見たものだ。さほど多くの街灯はなく、もう少し暗い印象があったが、窓の外を見ればそこに街灯が照らされている。更には、明日の家の中は電気だらけだった。クーラーという部屋を涼しくする魔法の機械と、特にテレビという箱の中に人や物が流れていく機械には大層驚いた。今や娯楽は視覚も聴覚も牛耳ってしまっているのだ。なんと音の良い、なんと色鮮やかな絵なのだろうか。みすゞはやることをすべて終えた2時間前からずっとテレビを独り占めしている。明日はずっと驚いているみすゞに、タイムスリップした漫画の主人公を重ねて、少し苦笑していた。と、そこへカチャリ、という音が鳴り響いた。
「あぁ?明日、帰ってんの?何?あの玄関横にある俺の荷物」
気怠げな声が聞こえてきた。男は狭い玄関の中で靴を脱ごうとしていた。すぐさま、みすゞと明日は計画を実行する。
「ケンちゃん…お帰り」
その声に顔を上げた明日は、手に包丁を2つ持っていた。逆手で今にもケンちゃんを刺そうとする雰囲気がある。
「ちょっ、な、何をしちょる?!」
「何て、分かってるんやろ?ここ、ウチの家やのにケンちゃんから追い出されたんやで?そら、殺そうと思うやろ?」
ブンッと鳴った包丁はケンちゃんの鼻をかすり、玄関の壁にドンっと鈍い音をさせて突き立てられた。
「いや、待て、待て待て!すまん!別にそんなつもりやのぅて!」
「そんなつもりやなかったのに、あんなにウチを殴ったんか?!あぁ?!」
ブンブンと包丁をケンちゃんの眼の前で振る。ケンちゃんは慌てすぎて、玄関のノブを回すことが出来ずにいた。
「今から玄関のノブに触っても殺す。喋ったら殺す。少しでも動いたら指をまず落とす」
そう言われてからのケンちゃんは握りこぶしを作ったまま何もできなかった。鬼の形相の明日を見たのは初めてなのだろう。ガチガチと歯を鳴らして恐れ慄いている。
「あなたがケンちゃんね」
ケンちゃんは顔を上げようとしたが、明日が包丁が眼に突き刺さりそうな距離に突き出した為、ヒィッという情けない声を出してまた顔を下に向けた。
「私は明日の姉のテルという者です。どうもねぇ、聞いたらかわいい私の妹によぅ手ぇ出してくれたね?」
明日の後ろからニョキッと手を出して、お玉で頭をコンコンと叩く。
「ヒィッ!」
そして恐怖を煽る為に、壁に突き刺さった包丁を明日が抜く。ドンッという音にまたケンちゃんは恐怖が植え付けられる。
「いい?もしこの子から手を引かんかったら、あんたの眼ほじくって、あんたの両親も両目ほじくって、一族全員眼無しにしてやる。分かったら一回だけウンと頷きなさい」
ケンちゃんは何回も頷いてしまう。
「一回でええと言っちょるでしょうが!」
お玉の柄で強めにケンちゃんの頭をゴンッと叩く。
「すんません!すんません!」
「勝手に喋んな!」
明日が、ケンちゃんにドカッ!と本気目の蹴りを入れながら言う。話し合いでは、明日は男には手を出さないと言っていたが、明日が思いの外気持ちよくなってしまっているようだったので、みすゞは焦って次の話を進めた。
「もう二度と、この子に近付くな。あんたの住所も、実家の住所も調べたし、私とこの子に何かあったら私の旦那と部下があんたと家族を殺しに行く。そう言うたら私の仕事、どんな仕事か分かるよね?」
ケンちゃんの頭の中ではヤのつく強めの方々が自分の家を取り囲んでいる映像が浮かんだ。
「お姉ちゃん、ウチ無理。コイツ今ここで殺したい」
「だーめ。殺るなら海でやらんと、血の処理大変でしょ」
リアルな処理までご存知との事で、ケンちゃんはより震え上がって、ハッハッハッと細かく息を上げてしまう。みすゞはここぞとばかりに近寄り、こう囁いた。
「今すぐここから消え」
みすゞは玄関のノブを回して一気に扉を開けた。ケンちゃんはずっと玄関扉に体重を預けていたようで、そのまま仰け反り返って、受け身も取れずに廊下へ倒れ込んだ。ケンちゃんはみすゞと明日を振り返る事もなく、自分の荷物も忘れて全速力で逃げていった。その速さは韋駄天のようで、ケンちゃんは煙のように姿を消した。そして、それを見て3秒程してから、みすゞと明日は2人で顔を見合わせ、大笑いした。その日から、明日の家でみすゞは一緒に暮らす事になった。
「働かないと!」
みすゞは、明日に当然の事を申し立てた。ケンちゃん追い出し事件から1週間が経っていた。主婦歴が長いみすゞは、ポンポンと何でも買っている明日を不思議に思ってお金の出所を聞いた所、親の遺産だという。遺産と言っても、父が貯金していた明日の大学費用らしいのだが、それをふんだんに使って豪遊とまではいかないまでも、結構な暮らしをしていたのだ。ケンちゃんにもその話をしていたものだから、かなり遊びで使用してしまい、今や半分位しか残っていないらしい。
「うん、そやね」
明日はパリパリとポテトチップスを食べながら言う。何とも危機感が無かった。学校には行っていないので、毎日が夏休みだとのたまっていた。
「私、90年も空にいたんですよ?仕事って何ができるんですかね?」
「いや、ウチに聞かれてもなぁ…。死ぬ前は何してたん?」
「えっと、主婦しながら、詩を書いてました」
「詩?え…スゴ、吟遊詩人やん」
「いや、旅とかはしないんですけど」
みすゞは少しだけツッコミを覚えた。
「せやったら、小説家…はちょっと違うんか。新聞記者とかええんちゃう?あ、でもパソコンとか分かる?」
「パソコン?」
「うわー、そんなんも分からへんの?おっくれってるー」
「そりゃ90年も死んでたんですから遅れて当然です」
みすゞは明日へ、自分が90年間死んでいた事を話すと、割とすんなり受け入れられた。何でも『漫画とかアニメとかでそういうの結構多いで』とのこと。テレビから流れてくる、動く絵巻をアニメというらしく、大層不思議な技術が現世には生まれていた。そのおかげで明日に信じてもらえたのだから、時代の移り変わりというのは不思議なものだ、とみすゞは思った。
「パソコンっていうのが無いと働けないんですかね?」
「んにゃ、ウチもパソコンとかさっぱりやし、多分スーパーとかでアルバイトとか簡単になれると思うで。テルさん料理できるんやから、スーパーの惣菜とか作れそうやわ」
「スーパーって、あのでっかいお店ですよね?アルバイト?」
「話進みにくいわー。テルさん、さすがオーパーツ」
「??」
明日の知識は父の影響で漫画やゲームから仕入れたものが多く、みすゞと噛み合わない所が多かったが、みすゞは家事全般が得意で、汚かった明日の家がみるみる綺麗になっていくのに驚いた。みすゞはルンバと呼ばれそうになったが、何となく馬鹿にされてる響きがあったので、本名のテルと呼んでもらうようになった。
「まぁー、そやね。死ぬ前に贅沢できるんやったらその方が楽やし、ウチのおとんの金も少なくなってきてたし、稼ぎ手になってもらわんとね」
まだ死ぬ、という言葉が頻出している事に、みすゞは悲しかったが、そういうのはだめだと押し付けると、明日という女の子は反抗してくるだろうと分かっていた。なので、そこに触れないようにする。
「もちろん、明日ちゃんは私が育てます」
「いや、もうウチ、テルさんより育ってるから」
確かにみすゞよりも明日は身長も、容姿も勝っている。とても綺麗な女の子だった。
「私も生前は美人、かわいいと持て囃されたんですけど明日ちゃんには敵わないかなぁ」
「あはは、確かに丸顔でアンパ○ンマンみたいでかわいいで」
「私はアン○ンマンに似ていると。よく分かりませんけど…今日のおかずは一品減らしましょう」
「いやん、いけず」
そんな取るに足らない話をしてる場合ではなかった。
「はっ!だめだめ!働く所見つけないと!どうしたらいいでしょう」
「んー、そうやね。そやったら、町歩いたら募集の張り紙とか求人誌あるし、行ってみる?」
「ぜひ!」
7月8日、夏。明日は自分のTシャツと夏用の薄紫色のスカートをみすゞに履かせ、町へ歩き出す。生前は和服が多く、初めて外に出る時も服を貸していたが、こんなに涼しくて動きやすい服は着た事が無いと、とても嬉しそうなみすゞの反応が明日には新鮮で面白かった。靴のサイズだけは全然違った(みすゞは21.5cm、明日は23.5cm)ので、少しブカブカだがサンダルを貸している。
「私の時代でもこんなに紫色のスカートが履けたら、とてもお洒落だったでしょうねー」
みすゞは並んで歩く身長の高い明日を少し見上げながら言う。
「スカートって昔は無かったん?」
「あったんですけど、私にはちょっと派手だなぁと思って履かなかったんです」
「えー、そんな事ないのに。めっちゃ似合ってるで」
「そうですか?ふふ、嬉しいなぁ。でも、借りるのも悪いので、早く稼いで自分で買わないとですね」
明日は結構な数の服を持っているので、着なくなった物も多く、別に貸すのは問題ないのだがサイズが違うので合うものが少ない。そう言った意味においては服を買うのは賛成である。しかし、着せ替え人形のように自分のお古を着せまくったのは楽しかった。最後にはみすゞがそろそろ休憩をしたいとの事でファッショショーは中断されたので、それはそれでまたやろうと考えていた。
「そやねー、あ、パン屋が募集してるやん。時給安いけど」
「パン!珍しい!」
みすゞは目を輝かせる。
「え、珍しいの?」
「えぇ、パンって私の時代だとあんまり食べられなくて、あっても食パンだったんですけど、あんぱんを東京の知り合いから頂いた事があって、それはもう美味しくて美味しくて」
「へー、昔ってパンもあんま無かったんや。じゃぁ、パン屋で働こうよ。廃棄のやつ貰えるかもしれんし」
「パンなんて、作り方の検討もつかないんですけど」
「テルさんは作らんのちゃう?多分やるとしても売り子やろ?いや、知らんけど」
「売り子ならできそう…!」
「そんなら入って話聞こう?」
明日は自動ドアを開いて入る。みすゞは緊張した面持ちで、ウルト○マンがよくするバトルポーズのような姿勢になっている、と明日は思った。
「いや、テルさんさ、一昨日挟まれたのはタイミング悪かっただけやから」
明日は苦笑しながらみすゞに言う。店の人が変な顔で見ているのだ。
「いえ、この機械仕掛けの扉は信用ならないんです」
実は一昨日、買い出しで近所のスーパーへ出かけた際、自動ドアが閉まるタイミングで通り抜けようとして、みすゞは体を自動ドアに挟まれたのだった。そんなに痛いはずも無いのだが、大きな音がして周りの人々がこちらを一斉に注目したことと、その恥ずかしさで自動ドア恐怖症を患っていた。
「いいから、ほら」
明日はみすゞの手を引いて店の中に入れた。パン屋の中は芳醇な香りが充満していて、甘い匂いがみすゞと明日を襲う。
「いらっしゃいませー」
という、若い女性の声がする。パン屋らしく白い帽子を被り、エプロンをし、笑顔で接客に応じる可愛らしい女の子だった。みすゞよりは若く、明日よりは年上といった所か。
「あのー、すんません、この人がバイト募集の貼り紙見て働きたいって言うんで来たんですけど」
「あ、分かりました。店長呼んできますね」
女の子は店の奥に入っていった。少し小さめの店内には所狭しとパンが並べられており、今は他に誰もお客がいないので、沢山のパンを自由に眺められる。みすゞは初めて見る形のパンを1つずつ記憶するように見ていく。その中にアン○ンマン型のパンがあり、そっくりだと言っていた明日に文句を言ってる所で、店長らしき細身の50代位の男性が現れた。
「おー、君?バイト募集見て来たの」
明らかに年齢が若い明日の方を男性は見るが、明日は愛想笑いをしながらみすゞの方を見る。
「あぁ、すんません、バイトするのはこの人です」
「テルと申します」
「あぁ、そちらの方。はいはい、そしたら中で話聞きましょうか。お連れの方はどうします?」
「ウチは近くで待ってるんで」
ヒラヒラと明日は手を振っている。1週間2人で過ごして分かった事がある。明日は少しぶっきらぼうなのだ。子供らしく、ワガママで、ただ見た目が育っただけの幼児に近い。と言っては失礼だが、精神的には幼いのだと思う。自分が正義で、気に入らない事があると癇癪を起こす。外に出ると誰かを傷付けるから、あまり人と関わり合いにならないのだろう。そんな明日を、いや、そんな明日だからこそ、みすゞは明日の為に生きると決めた。手間のかかる子だが、自分の実の子を育てていた時はこんなものではなかった。毎夜の夜泣きと便の世話、洗濯、家事、全てが光のように過ぎ去って、自分の力は全て我が子へ渡すかのようだった。あの育児という魔物の時に働くなんてとんでもない。あぁ、作詩は別物だったが…あれに比べれば屁でもない。みすゞは奥に連れられて事務所のような所へ来た。
「えー、お名前は」
「金子テルです」
「おぉ、お父さんとお母さんは金子みすゞのファンかね?」
「え?」
「金子みすゞって知らんのかい?」
「あ、いえ、知ってます」
自分です、と大声で言いたかった。
「金子テルって、その金子みすゞの本名よ。僕もあんま詳しく知らないけどね」
「金子みすゞって、有名なん…ですかね?」
「え?そらぁ有名でしょ。テレビの童話とかで流れたりしちょるよ。そういえば、あんた金子みすゞに似とるねぇ」
「…!そうですか!」
その情報だけで、ここに来た意味があるというものだ。生前は詩家としてはまだまだだったが、有名になったと聞くと嬉しさが込み上げてくる。あのクズ旦那に止められず、奔放に詩を書いていけたなら、死ぬ事もなかったのかと思う。いや、それはどうだろうか。自分の事はよく理解しているが、何があっても腹いせに死んでいただろう。耐え忍ぶ限度を超えた時には、爆発する。…そうだ。明日と自分はよく似ているのだ、と思った。
その後パン屋の店長から住所や連絡先等を聞かれたので、予め明日に言われてメモしておいた紙を渡した。明日から、普通は履歴書を渡すものと言われつつ、でも田舎町のパン屋にそんな立派なものはいらない、と言われた。のだが、後日履歴書は持って来てくれと言われた。ただ、その場で面接に合格したのもそれはそれで田舎の面接らしくてよかった。兎にも角にも、まずは実入りが少ないながらも働き口が見つかってよかった。見慣れない機械が多数あって不安だが、何とかして覚えなければ、と戦々恐々としているみすゞは、パン屋の店内に戻って、パンの物色をひたすらしていた明日に受かった旨を伝え、明日から日中は仕事に出ることを伝えた。明日は手を上げてハイタッチを要求するも、意味がわからなかったみすゞはその手を握りしめ、これから同僚になるパン屋の店員の女の子に笑われてしまった。恥ずかしそうに出ようとすると、店長からほんの差し入れと、余りのパンを3つ貰った。帰りしな、みすゞと明日はそのパンを分けて食べる。
「あんなすんなり決まるもん?面接って」
「私も、もう少しかかると思ってましたけど、なんか一瞬で終わりましたね。はむっ…んんっ?!」
「どうしたん?」
喉につっかえでもしたのか、明日は心配したのだが全く必要はなかった。
「こ、この芋虫揚げシナモンパン…美味しいっっ!!」
「な、何や驚くわぁ…。まぁ、見た目が最悪やから10点満点でマイナス2点やな」
「いや、見た目は最悪ですけど、すごーく甘くて美味しいので、2点です!」
「はははっ!そんなん評価変わらんって」
「あははは」
二人は夏の強い陽射しを浴びながら、姉妹のようにわいわいと帰っていく。みすゞは仲の良い弟がいたが、不貞の夫に呆れ、家を出たあの日の事が目に浮かぶ。そして、あの時よりも楽しく、美しく、世界を感じられる今がとても大切で、みすゞは嬉しさで時々、涙が流れてしまう。それを明日は見て見ぬ振りをしてくれている。もしそこに触れてしまうと、みすゞは露と消えるように明日は思えたからだ。みすゞが普通の人間でない事を2人ともがよく理解していたが、そんなことはどうでもよかった。人となりが2人は合っていた。依存とも取れるようなその仲の良さは、姉妹とも友達とも呼べない、なにか特別な温もりを感じるのだった。
9月1日。蝉の鳴き声は少しずつ弱まってはいるが、まだまだ残暑の残る日の早朝。明日は鏡に映る自分の姿を見ていた。
「あー、何か恥ずかしいね…」
「何を言うの。とんでもなく可愛いわ!」
明日は久々に学校へ行こうと考えていたという。ちょうど夏休みが終わった始業式がある今日、制服を来た明日をみすゞが褒め称えていた。みすゞが日中はパン屋へ出勤するので、暇で暇で仕方ないというのもあるのだが、外へ遊びに行っても、みすゞの〇〇はいけません、××はタメにならないの!という正義感のこもった熱い諭しも鬱陶しいし、正直遊んでいるだけの今が空虚で面白くないというのもあった。ニートというのは逆に大変なのではないか、と思う程だ。それならば、むしろ今の状況から学校へ通うというのは刺激になるのではないかと明日は考えたのだ。高校2年の5月頃から学校へは行かなかった。その頃にケンちゃんと出会い、町をうろついている所から、変な噂が学校で立ち始めたので学校へ行くのをやめたのだ。ある夜、テレビで映画を放送していて、大変につまらない映画だった(みすゞはワクワクしていたが)もので、不意に、みすゞはどうして自殺したのかを明日が聞いてしまった。みすゞは何も臆せず、隠し事もせずに全てを答えた。酷い旦那と一緒になって、それでも養父の言うことに従って許していたら、ある時仕事にしていた詩の仕事さえも辞めさせられてしまった。それは自分の意思や気持ちを踏み付けられ、何よりも辛く、許せないことだった。そこで3歳になる子供を実家の母親に預けて、毒を飲んで自殺をしてしまった。あの子には何の罪も無く、ただ酷い父親と…酷い母親に生まれただけだったというのに。という、重い話を、ただ面白くない映画を見ていたから、という理由で明日は聞いてしまった。ただの興味本位から聞いてしまった明日は、バツが悪そうに自分の身の上話も始めた。祖父母のこと、父のこと、母のこと。最近の話だと、学校へ行かなくなったのが4ヶ月も前だと。正直勉強についていけるわけもないし、もう辞めようかとも考えている、とみすゞに言うと『明日ちゃんは頭良いから勉強なんてしてればすぐにできるわ。それよりも、友達を作れるかが重要』と、軽々しくそんな話をされた。みすゞは明日を調子に乗らせるのが非常に上手で、明日はものの見事に社会復帰をすることになった。
「うん、素晴らしい出来。いいわー」
明日はかなり濃い化粧をよくしていたが、今日ばかりは自分にやらせて欲しいと懇願され、みすゞにやらせてみた所、とても薄化粧で、可憐な見た目の自分が出来上がっていた。
「なんか、自分やないみたいや」
「何をいってるの。元々の顔が良いんだから、これ位当然よ」
少し猫っ毛の明日の髪の毛をヘアーアイロンで綺麗にストレートにし、付けまつげを取り、アイシャドウも薄くし、いわゆるギャルから年相応の女の子というメイクに落ち着くと、明日は美少女なのだ。スッピンは見せられないがな!と強くみすゞに言っておどけてはいたが、この新たな自分にどんな反応を学校の連中がするか、楽しみなのである。ワクワクして学校へ向かった明日を見送り、みすゞはいつもの職場へ向かった。その時、チクッと胸の奥に小さく痛みがはしったのだった。
夕方、少しだけ陽の陰りが早くなった時節、みすゞはパン屋のタイムカードの退勤ボタンを押していた。最初はレジもタイムカードもパン焼き機も、意味不明な物ばかりだったが、慣れとは恐ろしいもので今やみすゞが一番レジ打ちのスピードが速い。クリエイターであったはずのみすゞだが、そもそも色々な能力が高く、吸収率がとても早い。有能なみすゞはたちまち店で一番長い時間を働き、一番仕事ができる売り子になっていた。だが、今日は働き始めた時と同じようなミスを二度もしてしまった。少しだけ、胸にチクりとした痛みを感じて、それがみすゞの体にも影響したのだ。ただ、そのニ度だけ。それ以外は完璧にこなす。誰でも人は失敗するものだ。取るに足りないこと。そう言い聞かせられる程、現世では強くなったみすゞは、自分のことが誇らしかった。空の世界に幽閉されたのも合わせると120年近くは生きているのだから、成長というのか、図太くなったというのか、今の自分をみすゞは少しだけ好きになれるほど、成長していた。
「あ、テルさん、これ持って帰りな」
明日の呼び名がうつった店長は、みすゞのことをテルさんと呼んでいた。店長いわく、テルさんと話してると、良い人すぎて恐縮してしまうのだそうだ。そんな店長は帰りしな、いつもかなりの量の廃棄パンをくれる。コンビニやスーパーでは廃棄の弁当や総菜は店員に配ってはいけないという決まりがあるというのを偶然テレビで見かけたみすゞは、いつも恐縮な面持ちである。昔は商店でダメになった物は知り合いづてで配ってくれてたりしたものだが、世間としてそれは許されないらしい。難しい世の中には違いないが、田舎の店長にそんな世間様のルールは通用しないのだ、と何も気にせず毎度みすゞや、その他の店員さん達に渡してくれるのだ。今やみすゞは週に5回、朝から夕方まで働いている。今では店長に習ってかなり本格的なパン作りまで始め、この店を継ぐのはみすゞさんだとよく店長に言われている。パン屋で働いて、帰ったら明日とくだらない話をして、そんな人生がいいなぁ、とみすゞは思っていた。
「店長、今日は随分沢山…。こんなにいいんですか?」
みすゞはお店で一番大きなビニール袋に入るか入らないか位の大量のパンを店長から手渡された。
「いや、それ新作を作っちょって、形が上手くいかんよった失敗作じゃけぇ、持って帰って明日嬢ちゃんと食ってよ、それで感想ほしいんよ」
店長はいつも通り人の好さそうな顔でニカッと笑ってみすゞに言う。いつも親指を立ててグッとこっちに向けてくるのが癖で、田舎のお父さん、というような人だった。
「あ、それで紀子ちゃんもあんなにもらってたんですね」
紀子ちゃんは最初、みすゞと明日が面接に来た際にいた女の子である。
「いや~はっはっ、他の子にも沢山持って帰らせちょるよ。甘めのパンじゃけど、この土地にはピッタリよ。帰ったら見てみ」
「ありがとうございます。じゃぁ、明日もよろしくお願いします~」
「はいよ、気を付けて帰りな」
みすゞは今日の楽しみがまた1つ増えたので、ウキウキで家に帰った。
「ただいま」
みすゞが職場から戻って来た。明日は既に帰ってきており、どんな表情をしているか、みすゞは気になって気になって仕方がなかった。見ると、いつものスッピン状態でゲームをしている。
「お帰りー」
いつも通りのやり取りだ。ただ、ゲームをしている明日は集中してしまって話ができない。なので、パンを入れたビニールをそのままテーブルの上に置いておき、夕飯を作りながら明日が話してくれるのを待つことにした。はずなのだが…
チラッ
チラッ
チラッ
チラッ
チラッチラッチラッ
チラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッチラッ
ジーーーーーッ
「だぁっ!恐いわ!」
強硬手段(みすゞはそうは思ってないが)に明日は降参した。ゲーム画面を一旦停止し、みすゞが入れた麦茶を飲みながら話し始める。
「いや、何か、もっと変な感じで言われたり見られたりするんかと思ってたんやけど、正直な~んにもなかった」
「え、そうなの?」
「いや、まぁ、少しは見られたりヒソヒソされたりはしてたけど、想像してたんと違ってなんか普通やったわ。でも、勉強はぜーんぜん分からへんかった。数学ⅡとかBとか、あれもう意味分からんわ。まだ国語とか社会とか地学とか、覚える系の方が楽」
「へー!明日ちゃんは文系なのね!それで、ご飯とかはどうしたの?お弁当いらないって言ってたけど」
「前話してた学食に行ってみたんやけど、もうめっちゃ混んでてさ。とりあえず月見うどん頼んで食べてたら、隣に知らん女子が座ってさー」
「知らん女子が」
「ウチ覚えてへんかったけど、1学期の頃に少し仲良くしてた子らしくて、その子と話しながら食べたわ…って何で目頭押さえてんの?」
みすゞは感極まって泣きそうだった。
「いやもう、明日ちゃんが普通の女の子になっていって…もう…嬉しくて…」
「…大げさちゃう?ウチ今までも普通の女の子やったで」
明日は恥ずかしくなって、麦茶をすすりながらみすゞが感極まっているのを見て、苦笑して言う。
「あ、うん、そうよねぇ。何かね、私の幸せは自分が認められることより、明日ちゃんが認められる方が上なのかなぁと思ってね」
「もうお母さんやな」
あはは、と笑った明日に、みすゞも笑い返した。
「ねぇ、そんなに年も離れてないのにねぇ」
「いや、離れてるし」
「もう、いけずぅ」
二人だけの家では、毎夜喧嘩も起こらず、ただただ暖かな日々だった。最近は明日が死にたいと言うことがなくなり、みすゞの真似をしてか、掃除や料理も手伝ってくれたりしている。本当の姉妹でもこう仲良くはいれないだろう。親子のような、親友のような、ただただ暖かい時間が続いていた。
「んで、あの机の上に置いてある大量の穀物は何なん?」
「あぁ、店長さんが新作を作ってて、その失敗したパンが沢山あるんですって。形が悪いだけで、食べるのは問題ないみたいよ」
みすゞは目元をハンカチで拭きながら、テーブルの上に置いてあるパンの所へ向かう。
「あのおっちゃん、よぉけ新作作ってるね。小さいパン屋やのに頑張ってるなぁ。どんなパン?」
ガサガサとビニールの中を覗くみすゞは固まった。それを見た明日は不思議に思った。芋虫型のパンを気持ち悪いと言いながらもパクパクと食べるみすゞが固まるパンというのはいかなる物かと。明日は立ち上がりテーブルに広がったパンを見る。そこには、『金子みすゞ』なる題名をチョコレートでデコレーティングしてあり、ビスケットに近いような食パン生地にみすゞの詩が、ひん曲がった書体となってチョコレートで描かれていた。
『鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい』
久々に見た自分の詩だった。雑誌に数百と寄稿し、掲載されたもの。どんなに時が経っても、忘れる事は無い、自分自身を認めてもらえた証。その固まったみすゞの様子を見て、明日はみすゞへ声をかけた。
「これ…テルさんの詩だよね?」
「…えぇ、そうね」
「いい詩やね」
「…ありがとう」
みすゞは心の底からそう思った。嬉しい気持ちと、恥ずかしい気持ちと、やってやったという気持ちと。田舎のパン屋の店長が自分の詩を使ってパンを焼いてくれた。もしかすると、自分の詩は有名になっているのかもしれない。どこまで広まっているんだろう?そんな気持ちが溢れてくるが、蓋をする。どうしても、自分がこの世界に戻ってきたのはそれが目的では無いような気がしてならないのだ。
「今、俗っぽい事聞いてもいい?」
「ふふ、何でもどうぞ」
「自分が作ったもので、死んでから何年も経って皆が知ってくれて、使ってくれるっての知った時ってどんな気持ちになるん?」
「ん~、そうね…。良い気持ち。泳げるなら泳ぐし、飛べるなら飛ぶし、認められたんだ~って背中がぞくぞくしてるのに、心はポカポカしてる」
「あはは、詩の先生っぽいわ」
「ね。あぁ~、こんな嬉しいことってあるのねぇ」
「…ねぇ、娘さんに会いたいとか、ある?」
明日は金子みすゞのことが気になり、インターネットで調べていた。みすゞは服毒自殺をしたが、娘を実家の母へ預けたのだと出てきたのだ。娘のことだけは聞かないようにしていた。まるで明日を娘の代わりのようにしていて、明日もまた娘のように愛情を受けいれていた。それが鬱陶しかったわけでも、変えてほしいわけでもない。ただ、みすゞがどうしたいのかを知りたかった。今まで自分のわがままをよしとして、ほとんどのことを受け入れてくれる。自分がよくなる方向へ優しく誘導してくれる。そんなみすゞのことをますます大事に思うようになった明日は、みすゞのやりたいことを、欲しいものを知りたい。そして、自分がそれをしてあげられたなら、自分も嬉しいのだ、と考えた。実の家族の温もりが必要なのではないか、と明日は考えた。金子みすゞは有名人で、娘も健在だと知った明日は、居ても立っても居られず、学校へ行くという大事業を成し遂げた強い自分で、みすゞへぶつかってみようと画策したのだ。しかし、その思いは緩やかにみすゞに止められた。
「娘には…会いたくないの。凄く勝手よね、3歳の娘を置いて死んでしまった母親がどんな顔をして会えばいいのやら。正直、恐いの。私は絶対に良い母親じゃなかったし、何なら辛く当たっていたような気さえするし。それに、今娘が生きてたらおばあさんでしょ?若い私が行ったってね、混乱させてしまうしね。なんか、ほら、罵倒されたら、なんて思うとね」
「ごめん、ちょっと踏み込みすぎた」
明日は優しかった。明日のトラウマがあるように、みすゞにもトラウマがあり、それを思い出させてしまったのだと、明日は後悔した。
「ううん、明日ちゃんこそ、私のこと調べてくれたんでしょ。なんかね、書店とかに行って調べようとも…思ったんだけどね。また今度でいいや、って思って、行けないの。近くにみすゞ公園てあるでしょ?あそこもな~んか行けなくて、記念館とかもあるらしいけど、気になるのに足が向かなくて。ず~っとそんな感じ。母のこととか、弟のこととか、娘のこととか、知りたいのに、すごく恐くてね」
「うん、分かる。ウチだって、もうジジイやババアの所にはもう帰りたくないし」
「そっか。…ごめんね、湿っぽくしちゃって」
「いや、ウチが聞いたんやから謝るのはこっちよ。ごめん。…でもな、もし、金子みすゞについて知りたくなったら、ウチに言ってくれへん?一緒に調べるから」
「ふふ、ありがとう。私、明日ちゃんと出会えてよかったわ」
「はは、それこそこっちがありがとうやわ。ウチ死のうとしてたし」
「それ言うなら私死んでましたけど」
あははは、と笑いあう二人は、重さも共有し、かけがえのない存在へと変わっていく。所々の衝突はこの後あれど、二人はどんどんとお互いを認め合い、寄り添いあい、力強い絆でお互いの弱い所と、強い所を支えあっていった。
2年後
明日はアルバイトをしていた。みすゞからパン屋を紹介しようか、と言われたが、さすがに同居人と一緒に同じ職場で、ずっと一緒にいるというのは噂になりそうだし、恥ずかしいから別の所で働く、という事で、近くのコンビニで働いていた。高校の学費はどうやら死んだ明日の父が抜け目なく自動的にとある口座から引き落とされるようになっていたらしく、今祖父母が使っている父親の口座から勝手に引き落としになっていたのだろう。登校拒否をしていた際の足りない出席日数が心配だったが、高校は問題なく、無事卒業できた。現在は祖父母との繋がりは何もないので、金がどうのこうの、という話は無いまま、そっと卒業できたので安心してみすゞと二人暮らしを続けている。みすゞは働いたお金のほとんどを明日の為だといって使わず、明日が無理やりみすゞと遊びに出かけた際に服を買ったり、化粧道具を買ったりしている際に、みすゞ用の物も一緒に買わせていた位で、本当にみすゞは自分の為にお金を使うことが無かった。時折、日記をつける為だということでノートと筆ペンを買っていたが、正直気遣いは留まることを知らず、大学の費用まで支払うとみすゞが豪語したことがあった。仕事を掛け持ちして支払うから何の心配もすることはない、と言われた時には、明日も呆れ、自分の将来は自分で決める、と言った時に、少しの口論になった。その際はみすゞが折れる形で何とかなった。ただ、それも愛情のなせる業。もちろん明日はみすゞのことを信頼し、みすゞもまた、明日がどんどん大人になっていく姿を見て嬉しかったのだ。ただ、最近、みすゞは明日がバイトに行ってから帰ると、先に帰っていることがある。今は、パン屋での勤務時間が昼から夜にかけて働いているので、明日の方が先に帰ってくるはずなのだ。そのことを聞くと、最近夜はお客がいないことが多く、早く帰らせてもらえるだけだ、とは言っていたが、何となく様子がおかしいのは分かっていた。料理を作っていた時も、今までにはなかったような凡ミスをすることが増えた。その時は年だわ~、やだわ~、とみすゞは誤魔化していた。不思議に思った明日は、コンビニのバイト後、パン屋へ寄ってみることにした。都合良くみすゞはいないようだったので、店長に話を聞きに行った。奥へと案内された明日は紅茶と、小さいアマンドを出されて、ぱくついた。他愛もない話でアイドリングをした後、明日は本題を店長へ振った。
「最近、テルさん早く帰ってくることがあるんですけど、何かありました?」
「あぁ、やっぱ話してないのか。今日とかはホントにお客さんが少ないし、早く帰りと言って早く帰らせたんじゃけど。最近ね、毎日とかではないんじゃけど、夜になると、テルさん、最近胸の所押さえちょることがあってね。病気なんかと聞いても、なんも無いです、とか言うちょってホントのこと言いよらん。心配じゃけぇ、病院行き、と言ってみたっちゃけど、行っとる様子もないし…」
「ホンマですか?ウチ、そんな所見たこと無いんですけど…」
「ほら、あの子無制限にええ子…っていうか、気ぃ遣いじゃろ。多分、明日ちゃんに余計な心配かけたくないんよ」
「……そう、ですかね。でも、一緒に住んでる私にくらいは甘えてくれてもいいと思うんやけど」
「はは、あの子がそんな素直やったら、この店もう継がせてるわ。あ、明日ちゃん、もうちょっと待ってくれたら廃棄のパンあげられるけど、どうする?」
「やめときます。今日ここに来たのテルさんに内緒にしてるんで」
「そっか。うん、そうね。テルさんに無理せんよう、明日ちゃんも気を付けて見ててあげて」
「はい、ですね。無理するの好きですもんね、あの人」
「間違いないっちゃね」
明日と店長は二人、苦笑した。明日は店を出ると、足早に家に帰った。暗い帰り道のその道中、空はとても賑やかで、明日は自分を応援してくれているような気がした。よし、頑張ろう、と明日は意気込む。みすゞに何かあった時、治療費や入院するお金が必要だと考え、明日は、就職しよう、と考えていた。
家に帰ると、みすゞはいつもと変わらず元気そうに鍋を振るっていた。明日はその姿を見ると、不思議に何にも問題無いのではないかと錯覚に陥る。
「あ、お帰り~」
「ただいま。今日何作ってるん?」
「ふふん、明日ちゃんの大好物、に・く・じゃ・が」
確かに、砂糖と醤油があいまった良い匂いが部屋に充満している。手を洗いに洗面所へ入り、洗面台の上にある鏡を見ると、明日は自分の顔が強張っていることに気づいた。普段の顔を思い出し、平静を装い、部屋に戻る。テーブルの上に、今まさに出来立ての肉じゃがとサラダ、ホウレンソウのおひたしと冷ややっこという、新妻か、と言いたくなるような最高の料理が置かれていた。
「新妻か」
思ったことを明日はそのまま口にした。
「いいえ、バツイチです」
と上手い返しが帰ってくる。どうやらお笑いバラエティ番組の見過ぎのようだ。稀代の童謡作詩家はすっかり現代文化に染まってしまっていた。
「もう食べてええのん?」
明日はテーブルについて、既に箸を持っている。
「ご飯だけついでおいて。テレビの音量下げるから」
「あいあい」
こんなやり取りももう2年近くになる。単なる日常なのだが、それがとても心地よい。明日は、あの日死のうと思っていたあの気持ちが、みすゞにどんどん吸われて、むしろどんどん生きたいという気持ちを逆に与えられているような、そんな感じがしていた。この家を守りたい。このままの暮らしをずっと続けていきたい。そんな気持ちがどんどん強くなっていた明日は、みすゞのことがどんどん心配になっていった。ただ、みすゞのことだから、体調が悪くなっても隠すだろうと明日は分かっていた。いつも笑顔を絶やさず、明るく振る舞うみすゞに余計なことは言わないようにしようと決めていた明日は、何事もなかったかのように、ご飯をついでテーブルに並べた。豆腐のお味噌汁も並び、更にお漬物も各種そろい踏み。さすが分かっていらっしゃると、みすゞの料理上手にはいつも舌を巻く。毎度のことながら、とても感謝した。
「さぁさ、いただきま~す」
みすゞと明日は同時に椅子に座って、手を合わせる。2年前では絶対に行わなかった古い習慣が、みすゞを通して明日にも受け継がれていた。お米には神様が7人住んでいるとか、3月3日には小さいひな壇とお雛様を飾ったりとか、秋には満月を眺めてお団子を食べるだとか、現代の同年代女子ではあまりやらない風習を忘れずに行った。カレンダーには、生前みすゞがよくしていたという時節イベントの日に赤い丸印がついている。勉強はやった方が将来楽になると言われたから登校拒否後、卒業できるまでは勉強もした。化粧は薄い方がいいと言われたからその通りにしたら、男子・女子共にモテだした(とりわけ3年時は女子から人気があった)。こうしたら素敵よ、という言葉で上手く操られているのは明日も分かってはいるのだが、実際その効果は凄まじく、色々なことが分かって、できるようになっていた。洗濯物だけは面倒でやりたくないのは変わらないが、みすゞに料理も習ったし、掃除をすると気分がいいということも教わった。数える程だが喧嘩もした。大抵先にみすゞから謝られ、ほどなく明日も謝る。まだ、みすゞにはもっともっと習いたいことがある。一緒にいたいという気持ちが強くなればなるほど、もっとみすゞに迷惑がかからないようにしっかりしなければ、という強い意志が明日に芽生え、恥ずかしさは残るが、みすゞに相談を開始する。
「ねぇ、テルさん、ウチさぁ、就職しようと思うねんけど」
みすゞは1口目の漬物をコリコリとさせる音を一時停止し、5秒程止まってから箸を茶碗の上に置いた。そして、ぐわっと箸を持つ明日の手を両手で握り、みすゞは目をキラキラさせながら言う。
「すごい!えらい!かわいい!すごい!えらい!いい子!かわいい!」
「あぁぁ、うん、いや、あの、あぁ、ご、ごめん、何かごめん」
明日は思いのよらぬみすゞの勢いに完全に引いてしまったが、照れ隠しなのを分かっていたみすゞは続ける。
「とてもいいことよ!明日ちゃんがちゃんと自分の将来について考えてくれるなんて、こんな良い日はないわ!お赤飯炊かなくちゃ!今すぐ!」
「もう白米さんが4合炊かれてるんやから、いらんやろ」
「それ位の嬉しい気持ちってことなの。もうね、私もパン屋だけだとお金ちょっと心許ないかなぁと思って、求人情報誌とか色々見たりしたの。でも、なんか取り越し苦労というか、あぁ、もう天にも昇る気持ちだわ。これで明日ちゃんは大人の女へまっしぐらね」
キラキラした目でもうご飯を食べるのを完全に忘れてしまっていたみすゞは、感極まって明日の手を離さないでいた。
「ははは、ありがとう。ご飯冷めるから、食べながらにしようや」
「うんうん、で、どんな仕事にするの?」
明日の言葉は無視された。まだ手を握っている。
「うん、商社の事務やろうかな~って。高校の時の彩未おるやん?あの子パソコン得意で、もう就職してて、事務やってるんやけど外で働いたりせんから、大分楽らしいねん」
彩未は高校2年時に、登校拒否から復活を遂げた日の学食で出会った女の子で、あまり女子グループの輪の中に入るタイプではなく、オタク趣味を持つ女の子だった。ゲームの話で明日と盛り上がり仲良くなったのだ。そこから、明日の家に何度も遊びに来るようになり、みすゞとも何度も顔を合わせている。パン屋にも家族でちょくちょく来るので、みすゞも仲良くしていたのだった。しかし、みすゞが先ほどの明日の言葉に注意したのは、彩未のことではなかった。
「パソコン…」
みすゞが唯一、現代において触らないテクノロジーだ。パン屋での仕事で、帳簿をつけるというのも店長から教わる際、どこをどうしたのか帳簿を削除してしまい、とんでもない迷惑をかけたことがあった。結局、パソコンに詳しい他の店員に助けてもらったので事なきを得たのだが、みすゞにとってパソコンは見るのも、話しを聞くのも恐ろしい悪魔と化してしまった。スマホは何故か使いこなすことができるのだが、パソコンと聞くと今は頭痛がするらしい。そこで手を掴む力が緩んだので明日はサッと手をひっこめた。
「ほんでな、パソコン買おうと思うねん。今コンビニのバイト週6でやってるし、結構お金貯まってきたから、先行投資しよっかなぁと思って」
「なるほど、それで練習するのね!私が買ってあ…」
「いや、今回はウチの金で買うことにしてん。さすがにそこまで寄生せぇへんよ」
みすゞはフンフンと鼻息が荒くなってきたので、諫める意味も込めてはっきりと、食い気味で明日は言う。そして、明日は角煮を自分の取り皿に取っている。
「……」
みすゞから何の反応もなかった。テレビを見る関係上、テーブルに直角に座っている為、どうしたのかとみすゞを見ると、みすゞは顔が見えないほどに下を向いて、胸に握り拳を作り、少し震えるように押さえていた。明日はパン屋の店長から胸の所を押さえていることがあると言っていたのを思い出して、明日の胸に不安がこみ上げた。
「…テルさん、もしかしてどっか悪…」
「いい子ッッ!」
ガクッ
みすゞが過去最大に大きな声を出すので、明日は不安とのギャップも大きく、少し椅子からズレ落ちそうになった。
「ちょっと、ビックリするやんー」
「あぁ、ごめんなさい。感極まっちゃって、思わずプルプルしちゃった。あぁ、明日ちゃんが成長しているわって感動してね。でも、そしたらパソコンどこに置くか決めないと」
「ノート型のパソコンやから、小さいし、普通にテーブルに置いておいてええやつにするわ。欲しい型番とかあるから、サプライズプレゼントとかしたら、ぜ!った!い!あかんで」
みすゞは今までに誕生日以外にも、クリスマスやお正月のお年玉、果てはハロウィーンまで何かをプレゼントしてきたのだ。お返しももちろん明日からはするのだが、『明日ちゃんのお金は何かある時の為に取っておくの』とかなり強く言われてしまった関係で、誕生日プレゼントしか受け取ってくれないのだ。しかも、お金が余っているからと、光熱費も食費もすべて負担してくれていた。さすがに甘えすぎだということで光熱費は明日が出すようになったが、その交渉時、みすゞはもっと甘えてくれていいのに、とぷんすか怒っていた。もっとお金を私に出させて!という喧嘩はかなりヘンテコだったが、割と真剣なほどに喧嘩が発展したこともある。そう決めた翌月も、勝手にみすゞが光熱費を払ってしまっていたから余計に喧嘩は過熱したのだ。かなりの明日の怒りように、やはり最初はみすゞから謝ってきた。そんなみすゞだからこそ、翌日、仕事から帰ってきた時にかなり値の張るパソコンが豪勢なリボンをつけて家に置いてあっても不思議ではないので、予め釘をさしておくのは正解だ。
「あぁ、明日ちゃんのいけず…」
そう言った後、あはは、と笑うみすゞに明日は安心した。みすゞはいつもよりはしゃいでいた。明日が自分自身へ、しかも将来を見据えての決断が相当に嬉しかったのだろう。その日はご飯もお味噌汁も冷めてしまうほど、話が盛り上がって2人でよく笑った。その楽しい夜が続く中で、みすゞは確信していたことがあったが、明日にはそれを言わなかった。
1年後
ミンミンと鳴いていた蝉は深夜にかけて存在感を薄めていた。今日の昼は特に暑かったのだが、空には満点の星空が覆い尽くしている。道行く地元の人間は慣れ親しんだ星空で、誰も空を見上げる人はいない。しかし、何故か寝付けないでいる明日は窓際に座り、窓を閉じたままで半透明な自分が少し映っている、綺麗な星空をじーっと、ぼーっと眺めていた。そういえばみすゞは満点の星空を恐いと表現していた。90年の間、空の牢獄に閉じ込められたみすゞにとっては、満点の星空はその頃を思い出してしまうようで苦手なのだと言っていた。だが、秋の夜長に満月を見上げて団子を食べるのは?と聞くと、あま~い団子があれば別腹よ、なのだとか。都合の良い恐怖があったものだと明日は思った。こんな感じで空を見上げるのは明日自身、とても久し振りのことで、そこにある素敵なものというのは、意外と気づきにくいものだと明日は思った。みすゞと出会ってから、面白くて、刺激があって、でも落ち着いていて、普通の家族でも毎日こんな風ではいられないのだから、空を見上げる余裕というのか、暇というのか、そんな時間は全然無かっただけなのだろう。深夜1時半。翌日の仕事に差し障る時間帯だ。だがまだ眠くならない。すーすーと寝息を立てて寝るみすゞを起こさないよう、手持無沙汰でぬるい缶ビールを口に持っていく。今日は3缶も飲んでいるのに、こんなに目が冴えるなんて今までになかった。
みすゞと出会ってから3度目の夏。明日は小さな会社の事務職員として、唯一パソコンの資料作成ができる存在として重宝されて働いている。周りは50代ばかりで、小さい会社故に薄給ではあるが、しっかりとした職を見つけた。基本的に娘ほども年が離れているせいか、明日に優しく、人間的にもとても安定した方々ばかりで、明日は満足していた。就職が決まった時は1月の冬で、すぐにでも働いてほしいと言われ、慌ただしくスーツをみすゞに見立ててもらったのがもう半年前のことである。彩未にかなりスパルタでパソコンを習ったかいがあったというものだ。仕事自体はかなりのボリュームがあり大変だが、残業代も出るし、みすゞが家事をしてくれているし、2馬力でお金が貯まっていくので生活は楽になる一方だ。ただ、みすゞはパン屋で働くのを週3日に抑えていた。抑えさせたというべきか。どうやら体調が良い日と良くない日があったようで、大事をとっている。みすゞからパン屋は絶対辞めたくない、続けたい、と強く言われてしまった手前、明日の一存で辞めさせる訳にもいかなかった。少しでもみすゞが楽をできるように、明日は頑張って働いた。みすゞは相変わらず明日の前では何も問題無さそうに振る舞う為、正直パン屋からの情報が疑わしい位でもあったのだが、一度就職が決まった時、嬉しさのせいか、はたまた大泣きをし過ぎたせいか、胸を苦しそう掴んで倒れてしまったことがあった。タクシーで緊急対応をしてくれる病院へ連れ込み、診察を行ってもらった。その時は考えがおよばなかったが、みすゞは普通の人間ではないので、病院で見た時に何か変なことを言われないかと不安になったのだが、杞憂だった。みすゞはしっかり診察を終え、疲れだろうということで、休み休み仕事をするように言われた他は特に問題は無いとの診断だった。ただ、それだけだ。確かに、その通り、みすゞはずっと元気だ。家にいるとおどけてくれて、スマートなツッコミをしてくれて、普通に、一緒にいた。明日の中で、どんどん大切な存在として、みすゞが自分の中で膨らんでいる気がした。だが、そんな幸せな日々の中で、今日に限って、明日の胸に何故かふわふわとした不安が残っていた。その原因は、昨日の夕食時の会話なのかもしれない。
「ねぇ、明日ちゃんは将来どんな人になってたい?」
「むむぅ、それはまた難しい事言うなぁ。どんな人って漠然としてへん?」
「そうねぇ。ん~と、例えば旦那さんはどんな感じで、家はどこに建てて、子供は何人いて、どんな生活してる~、とか」
「そやねぇ…。夫はね、強面やねん」
「あぁ、エグ〇イル系の顔?」
「そそ。でねぇ、めっちゃ背ぇ高くて~、筋肉マッチョマン」
「うんうん」
みすゞは興味津々に明日を見ていた。いつにも増して良い笑顔で見てくるし、明日は缶ビールを2缶飲んでいたこともあって饒舌になっていた。
「家はねぇ、やっぱ庭付きの一軒家やなぁ。百坪位の」
「大豪邸ねぇ」
クスクスとみすゞは笑う。
「そう、めっちゃ大豪邸で、旦那がゼネコンの社長やってるから、自分で図面引いて、めっちゃ良い家建てるんよ。2階建てで、庭がめっちゃ広い感じで。ほんで、ゴールデンレトリバー飼うねん。で、ゴールデンレトリバーが2歳位になった頃に、男の子が1人生まれて、赤ちゃんをワンちゃんが面倒みんねん」
「わぁ…素敵…」
みすゞは目を瞑って想像してくれているようだ。明日もそれに倣って目を瞑ってみる。
「そやろ?ほんでウチは出産した後、もう子育てで、えらいてんてこ舞いやねんけど、そこにみすゞさんが来てくれて、めっちゃ子育て手伝ってくれんねん」
「うん…」
「むしろ、ウチが子育て下手やから、テルさんに哺乳瓶の飲ませ方はこうして、オシメはこうして、って指導してもらって、テルさんに教えてもらうねん」
「うんうん…」
「でも、多分ウチ結構子供叱るから、3歳位になってきたら子供はテルさんに懐いていくねん」
「えぇ、私に?」
「そう、でな、旦那がテルさん、ちょっと甘やかしすぎですよ、とか言うねんけど、逆にウチが旦那に、アンタはテルさんに余計なこと言わんと、仕事だけしとったらええねん!って怒るねん」
「あははは、旦那さん立つ瀬ないのね」
「そらそうよ。テルさんがウチ一家の中心人物やねんから」
「私、そんなにお邪魔していいの?」
「あったり前やん。テルさんを中心にウチ一家はまわるんやで。テルさんおらんかったらウチは絶対死んでたもんな~。神様みたいな人なんやで。むしろもうね、一緒に住んでてさぁ~…」
「………」
みすゞからの相槌が無いので、話を続けた。
「ほんで、テルさんはパン屋開くねん。うちの庭で。そこで、金子テルお手製の新作パンを売って、儲けまくって、そのお金で旦那だけ置いて海外旅行しまくんねん」
「う…うぅ……」
そこで、みすゞの様子がおかしいことに気付いた明日は目を開けた。みすゞは両手を顔に当て、テーブルにいくつもの涙をボトボトと落として泣いていた。
「ちょ、ど、どうしたん?」
「うぅ、うあぁ~…そんな、幸せな、所に、私を入れてくれて…嬉しくって…」
明日はみすゞの涙を見て混乱してしまった。
「そ、そんな、泣かんといてよぉ」
「うぅ、うん、ごめんなさい……。ぐずっ、ごめんなさ…うぅ……ありがと…。ありがとう……」
「い、いいよぉ、そんなの…」
みすゞがあまりにも泣いてしまうから、明日も貰い泣きをしてしまう。
「っはは、ただの想像でそんな泣かれても困るわ。まだまだ先の話やねんから」
「ぐすっ…うぅ、ふふ、そうね、ごめんね、急に泣き出して」
明日は、心が温かかった。幸せな将来を語っただけで、感極まって泣いてくれる程、自分を好きでいてくれる。愛されているなぁ、と感じた。『これだけでこの人を感動させられるなら、この人を幸せにする為に、もっと頑張らないと』明日は、そう思った。それからお風呂に入って、二人で少し談笑して、お休みを言ってから眠気が来ない。何でだろう。
明日は翌日、ちゃんと布団に入って寝ていたのだろう。その辺りの記憶がないのだが、みすゞがいつも通り先に起きていて、朝ごはんを作ってくれている音で起きた。いつも通り優しい朝だ。
「明日ちゃん、おはよ」
「ん、おはよぉ……はふ…ねむ…」
「昨日結構飲んでたもんね。はい、コーヒー」
「はふぁ…。あんがと~」
明日はコーヒーを飲むと頭が覚醒していくのを感じた。何故か、昨日の夜の事はすっかりどうでもよくなって、いつも通りまったりとした朝を楽しんでいた。テーブルには食パンとマーガリンと、目玉焼きとミニトマトとレタス。幸せだ。と明日は感じていた。
「今日は何時位に帰れそう?」
「金曜やから、多分早めかなぁ」
「そっか。OK~。ご飯、何がいい?」
「えぇ~、朝ごはん中に夕飯気にする?」
「ふふ、多分ね、明日ちゃんがお嫁さんになったら絶対気持ちわかるよ」
「…それは否定せぇへんけどね。ん~と、そしたら、ハンバーグ」
「いいね!ハンバーグ、作っておくね~」
「サーンキュ」
良い朝だった。眠かった気持ちもすっかり吹き飛び、カジュアルスーツに身を包んで鏡を見ると、キリッとした顔をしていて、明日は気が引き締まった。用意ができたので、靴を履いている所で、今日はみすゞが仕事の日だったはずだと思い出し、明日は玄関先からみすゞに声をかける。
「あ、テルさん。今日仕事でしょ?暑いから絶対帽子被って出てね」
そう言ってる間に、みすゞが台所から顔をヒョコッと出した。
「は~い。明日ちゃんも車に気を付けてね~。愛してるわ~」
昨日の夕飯の事を思い出したのか、まだテンションを引きずっているようだ。くすりと笑って、明日は玄関ドアを開けた。暑い空気が押し寄せてくる中みすゞへ応える。
「は~い、ウチもやで~。行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
それをちゃんと聞いてから、玄関ドアを閉じた。明日から週末だし、久々にみすゞを誘ってデパートに遠出でもしようかと明日は考えた。気合を入れて、仕事場へ向かう。いつもの毎日が始まった。
トゥルルルルル
「はい、お世話になっております、立石商事です」
事務所の電話が鳴って、もう一人の営業事務担当が先に受話器を取った。明日は昨日残していった、今日期限の請求書をパソコンでまとめていたので、若干電話に出るのに出遅れたのだ。最初は電話を取るだけでも緊張したものだったが、人はすぐに変わることができる。実証したのは2年程前なので、明日にとっては当然の帰結だった。
「あ、伊藤さん、ユメヤベーカリーって所から電話よ。内線2020ね」
ユメヤベーカリーはみすゞの働いているパン屋だ。明日は嫌な予感がして、慌てて内線電話を取る。
「はい、伊藤です」
『あ、明日ちゃん?』
声の主はやはり、みすゞが働いているパン屋の店長だった。
『テルさんまだ来てないのよ。携帯に電話しても出ないし、何か聞いちょる?』
「え…?」
明日の体に寒気が走った。朝、何も変わらない日常を過ごして、少しばかり忙しい仕事に精を出していたこの日常を、何か恐ろしいものがよぎった。
『明日ちゃん?聞こえてる?』
明日は気づいた時には走っていた。
パン屋の店長からのスマホを無意識で切っていた明日は外に出て、そこで初めて空が異様なことに気付く。時計を見ると11時35分、真昼間だ。なのに、空は朝焼けと夕焼けと満点の星空がグラデーションで丸い円を描いていた。綺麗すぎるその空は同時に、明日の心をかき乱す。
「何、これ」
そう言うのが限界だった。だが、周りの人は空を気にも留めない。これが見えているのは明日だけのようだった。不思議という言葉が、不安を絵に描いて襲ってきたようだ。それでも、外は暑く、外に出た時特有のむわっとした湿気が明日に冷や汗とも区別のつかない、汗を滲ませる。
「テルさん…」
ふと、アニメや映画の世界に一番近い人物で、不思議な人物で、でも、一番身近にいる大切な人の名前を口走った。それで、明日のやるべきことは決まった。すぐさま近くにいたタクシーをひろう。自動で開くドアの遅さにやきもきしながらも、明日は素早く乗り込んで、即座に運転手へと投げかける。
「運転手さん、すぐ出して!できるだけ飛ばして!人の命がかかってんの!」
「お?お、おぉ!分かった!」
年季の入ったタクシードライバーは、明日の悲痛で焦った表情が只事ではないということを察知した。田舎の人々は皆とても人情深く、警察に捕まるリスクも承知の上で、一般道を普通では出さない速度で飛ばしてくれた。道案内をする前面の窓ガラスの先に映っている空は、やはり幻想的で綺麗で、恐ろしかった。
家の前に着いた。タクシードライバーに、待っててもらうように伝え、すぐに玄関扉を開けようとする。しかし、明日の手は震えていて、中々鍵を開けられない。
『何やねん!ウチは、何をしとんねん!』
ガチャッ
焦りと苛立ちで上手く動かない手を必死に操作し、勢いよく玄関扉を開ける。家の中は薄暗く、奥の方に見えるリビングのカーテンがちゃんと閉められているのが分かる。中に急いで入り、みすゞが寝るベッドルームへ行くが、みすゞはいなかった。トイレ、お風呂、納戸まで探したが、いない。
『まさか、外で倒れてたり…』
最悪な想像が明日を襲い、軽くパニックになっていた明日は、ふとテーブルの上に違和感があるのを感じた。そこには、厚みのある封筒と、綺麗に折り畳まれた手紙が3枚重なって存在していた。明日は、震える手で恐る恐る手紙を開くと、丁寧に、でも可愛い味のある字で、詩人の頃のみすゞよりも、多分、その人生の中で一番力を込めたであろう、手紙を読み始めた。
伊藤 明日ちゃんへ
突然のお手紙でごめんなさい。これから書く内容は、
私が明日ちゃんに覚えていてほしいという我がままを書きます。
明日ちゃんにとっては、少し重荷になってしまうのかもしれません。
それでも、私がここにいた証を、どうしても残したかったんです。
本当は面と向かって話して、お別れを言いたかったのですが、
こわくて、逃げてしまいました。ごめんね。
一年位前から、あの木が私を呼ぶ夢を見ていたの。
寝てたり、仕事から帰ってぼーっとしてると、
気づいたら外にいて、あの木へ近づいているの。それがとても恐かった。
最初はね、ひと月に一回位だったのが、ここ半年位、毎日夢を見てた。
そしたらね、最近になって、寝た後、
気づいたらあの木の近くに、寝たままの姿で立っていたの。
ここ一週間位でどんどん近づいていってね。昨日、木の根元に立ってたの。
見上げるとね、あの雲海の檻の中で、何年も見ていた朝と夜が混ざった空があったの。
とても、とてもこわかった。
もう、私は今日でお終いなんだって気づいたの。
だから、今、明日ちゃんからプレゼントしてもらった万年筆で最初で最後の手紙を書いています。
万年筆で詩を書いてみたらええやん、って言ってくれた時に、大泣きしてごめんね。
全然詩を書かなくてごめんね。
私、もう詩を書けなくて。あんなに好きだったのに、
絶対書けると思ってたのに、いざ書こうと思うと、何も浮かばないの。
何でかなって、ずっと考えていたのだけど。分からなくて。
でも、この万年筆、明日ちゃんに伝えたい気持ちを書こうと思うと、すらすら書けるのよ。
いつも私を笑わせてくれてありがとう。
弱い私をいたわってくれてありがとう。
どんな時でも私に優しくしてくれてありがとう。
私の意見を尊重してくれてありがとう。
好きな映画を何回も一緒に見てくれてありがとう。
ほらね、気持ちがどんどんあふれ出てきて、手が止まらないの。明日ちゃんって不思議ね。
最初、少しおしゃまな世間知らずの女の子だったけど、
努力して、何でもできるようになって、自分のやりたいこと全部叶えちゃって。
私とは大違いだなぁ。尊敬してます。
本当のことを言うと、ちょっと、しっとしてたんじゃないかな、と思うの。ちょっとだけね。
もし私が明日ちゃんみたいに、かわいくて、面白くて、何にでも頑張れて、
誰からも好かれる女の子だったら、自殺なんてしてなかったんじゃないかな。って。
私は弱いから、叶わないお願い。願わくば、来世では明日ちゃんみたいな女の子になりたい。
昨日お話してくれた、将来どんな人になりたいってお話の時に、私を近くに置いてくれて、ありがとう。
私、多分また死んじゃうって分かってたのに、あんなに当然のように、
私が明日ちゃんの近くで幸せそうにしてる話をしてくれたんだもの。
もうね、それだけで十分幸せでした。
ありがとう。
本当に、ありがとう。
ハンバーグ、冷蔵庫の中に入ってるよ。食べてね。約束したものね。
あと最後に、包みの中に、お金が入ってます。そのお金で、少しでも生活の足しにしてくれたら嬉しいです。
じゃあね。さようなら。明日ちゃん、大好きよ。
金子 テル
明日の涙がぼたぼたと、手紙に落ちて濡れていく。明日は足の力が抜けそうになるほど、泣いていた。
「そんなん…いらん…わあぁぁ…あほぉぉ…」
お金の入った封筒を、明日は掴んで力なく床へ投げた。封筒はかなりの厚みで重く、どしんという音を立てて床に落ちて、口から数枚の万札が飛び出した。
「テルさ…テルさあぁぁん!…うあぁぁぁぁ…」
パッパーー!!
タクシーのクラクションが鳴り響く。涙で顔がぐしゃぐしゃに濡れた明日は、その音で現実に引き戻された。
「…木。…木や」
明日は自分の口から発せられたその言葉が、最適解であることに気付いた。バッと立ち上がり、涙を右手でぬぐい、タクシーの中へ駆け込む。運転手は泣いている明日を見て驚いたが、先ほどと変わらない、血相を変えた明日を見て何とか質問をする。
「おぉ、お客さん、病人はいたかい?!」
「いなかったんですけど、多分海の方に行ってます!すんません、これで早く行ってもらっていいですか!」
明日は床に落ちていた数枚の万札を運転手に渡した。
「こ、こんなにいらんよ」
「ええから早く!!!」
「わ、分かった!」
タクシーは、みすゞと明日が初めて出会った場所へ向かう。
キキイィィ!
かなりの速度を出していたのだろう。車は強いブレーキ音と衝撃で止まった。タクシーのドアが開くとすぐに、明日は車から飛び出した。そこにあったのは、頂上が見えない程高く大きな木だ。幹は太くないのに、ずっと空の向こうまで伸びている。その途中に、見覚えのある着物を着た女性が木の枝にしがみついているのが見えた。まだ遠く、一刻の猶予も無い状態だ。考える間もなく、全速力で走り出した。少し高めのヒール靴を脱ぎ捨て、カバンを投げ捨て、もてる力の全てをもって、明日は木の根元まで走る。
『前も、ウチが引きずり出したんや。今回もまたできる!』
しかし、木の根元に辿り着いた途端、あの日、3年前と同じ、突風が明日へ向かい吹き下ろされた。突風などという生易しいものではなく、それは立つことも許されない程の悪風。繋がりを分かとうと、何かが邪魔をしているのが明日には理解できた。
「ぐ、うぅ、テルさあぁぁーーん!!!!」
明日は、この喉が潰れてもいいと思って大きな声を出す。すると、木の枝にしがみついて、天地逆さまになっている着物の女性が顔を上げた。
「あ…明日、ちゃん?」
みすゞは、最後、もう会うことはないと思っていた明日が、遠く、自分の為に叫んでくれているのを見て、嬉しさと、幸せとが一挙に押し寄せて、叫んだ。
「あ、明日ちゃあぁぁぁぁん!!」
遠くその声が微かに聞こえた明日は、みすゞはまだこちらの世界にいたいのだと確信した。
「待ってて!今そっちに行くから!」
明日は3年前と同じく、枝の多い枯れ木を登っていく。一本一本は折れそうな程細いのに、手で掴むと、とてつもない強固な力をもって明日の体重を受け止める。しかし、上空から吹き下ろす風は声を割くほど強く、押し戻そうとしてくる。明日は一歩ずつ登っていく。だが、明日の足は何度も踏み外し、危うく落ちそうになる。
「明日ちゃん!危ない!!」
「うるさい!ええから、そこでしがみ付いて、目ぇつぶっといて!!」
明日の声がする。嬉しい。みすゞは言われた通り、木の枝に腕を巻き、ぎゅっと胸に締め付け、ぐっと目をつむった。そのみすゞの必死な様子を見た明日は、こんな非常時ながらも嬉しかった。まだ生きたい。まだ自分と共に生きようとしてくれている。決して逃げたりしていない。何か強い因果に邪魔されているだけなんだと、明日は思った。その気づきだけで明日のやる気に火がついた。吹き下ろす邪魔な風は負けん気の強い明日の体を揺さぶり、みすゞに近づくたびにどんどん強くなっていく。ゴウゴウという耳元で鳴る音が恐い。明日へ向かって強風で飛んできた小枝や小石が体に当たり、肌にどんどん傷がついていく。
「く…そ…があああぁぁぁぁ!!」
それでも、地上から12mは登って来ただろうか、とても高い所に明日はいた。手の平は傷だらけで、足の裏もヒリヒリとしている。ただ、そんな痛みにかまっていられない。みすゞさえ戻れば、自分の体はどうなってもいいと思っていた。みすゞは、近くまで来た明日を感じて、目を開いた。あと2m程の所に、明日はいた。
「ぐうぅぅ…テルさん、こっちへ…!!」
「うん!うん!!」
明日は、これ以上登れなかった。もう、木の枝を強く掴んでいないと、風に阻まれ振り落とされそうなのだ。明日に言われ、みすゞは固定していた、腕を解き、明日の方へと近づいていく。みすゞは思った。何故こんな時に着物を着ているのだろうと。こんなに大きな風が吹き荒れる中、着物は邪魔以外の何物でもなかった。袖を捲る程の余裕も無く、ただひたすらに強い力で枝を掴み、足で枝を押し、明日へ近づいていく。残るはあと1m。
「テ、テルさん、手を!!」
「うぅっ…!」
明日も、みすゞも、全身全霊で手を伸ばし、2人の指が触れた。その時、瞬間、明日を現世へ繋ぎ止める為の吹き下ろす風は止み、みすゞを襲う、死への吹き上げる風は暴風となり、勢いを増した。その風に耐えられず宙に浮くみすゞの身体を、明日は跳んで両の腕でキャッチした。
「絶対!!もう!離さん!!」
みすゞに言うでもなく、誰に言うでもなく、ただ、2人を分かつ世界への敵対心をむき出しに、明日は渾身の力でみすゞと自分を繋ぎ止める。風に持ち上げられ、どんどん枝から離れていく。みすゞは、自分の右手を掴む明日の顔や腕、足にある怪我を見た。恐らく先ほどまで泣いていたのであろう、腫れて赤くなった目を見た。そして、あぁ、これが私の罪なんだ、と確信した。そして、もうみすゞは明日に向けて、いつもの優しい微笑みを投げかけていた。
「明日ちゃん、多分、このまま一緒にお空に行くと、死んじゃうよ?ここでお別れしないと…」
ゴウゴウと風が鳴り響いているのに、そのみすゞの声は明瞭に明日の耳に届いた。
「何でそんなこと言うの!?ウチは、テルさんがいないと無理や!生きられへん!」
「そんなことないよ。明日ちゃん強いもん」
「つよない!絶対弱い!」
「ふふ、そんなこと言って、出会った頃とは雲泥の差よ?」
「嫌や!テルさんいなくなるなら、ウチも死ぬ!」
「もう、私はものすごく嬉しいけど、多分それはダメなの」
「何でそんなこと言うの…」
「もう明日ちゃんに会えないの嫌だなぁって思って、最後に弱虫根性出ちゃって、しがみついてたら本当に明日ちゃん来てくれちゃうから、もう嬉しくてまた戻れるかも、って思ったけど、でも、多分ダメなの」
「何で…」
「私がこの時代に蘇ったのは、明日ちゃんを生きさせるためなんだと思うの」
「え?」
「出会った頃、明日ちゃんは死のうとしてたけど、私と出会って生きてくれたでしょ?私が明日ちゃんを死から救う抑止力になったんじゃないかって」
「…」
「2年前位から、明日ちゃん、どんどん自分でこうしたい、あぁしなきゃって自分の意思で、人生を強く生きようとしていたじゃない?その頃から私、胸がどんどん苦しくなっていったの」
「そんな…」
「それでね、私、そうなんじゃないかって思って…。出来るだけ私に甘えてほしくて、プレゼントしたり、良いお姉さんぶったりして。こうあって欲しいって明日ちゃんと何回か喧嘩しちゃったけど、明日ちゃんがどんどんお姉さんになっていって」
「あぁ…そんな…」
「そんな自分のことしか考えていない私が嫌で、どんどん嫌いになっていってね。逆に、明日ちゃんのことはどんどん好きになっていくの。あ~、この子が私の家族だったらなぁって、ずっと思ってた」
「ううぅ…ぐずっ…」
「私、悪い子で、弱虫で、いつでも逃げる愚か者だけど、明日ちゃんを連れていくなんて死神みたいなことしたくないの」
「うあ˝あ˝あぁぁぁん」
「ふふ、もう、私より泣いちゃうなんて、珍しい」
「嫌や、嫌やあぁぁぁ」
「私も、明日ちゃんと別れるのすっごく嫌よ。でも、娘を置いて自殺した私が明日ちゃんを独り立ちさせることが達成できたんだったら、素敵じゃない?」
「そんなん…うぅ、ぐずっ…知らんわあぁぁ……」
「あぁ、もう、ほら、そんなに泣いちゃ美人が台無しよ」
みすゞは左手で着物の裾を持ち、明日の顔を拭う。すると、明日がぎゅっと握りしめていたみすゞの身体の感触が無くなった。
「あ、あかん!いや、待って!」
「…明日ちゃん、私ってどんなだった…?」
みすゞは明日の頭を撫でてくれている。何も感触はなく、でも何故か嬉しくて、離れたくなかった。ただ綺麗な空に包まれているだけで、みすゞの身体を触る事はできない。でも、何度も何度も、触ろうとしている明日の事を、みすゞは優しく微笑みながら見続けてくれた。
「さ…」
明日は悟った。もうみすゞは自分の前からいなくなるのだと。そして、最後に思いつく言葉としてはとてもチープで、泣きながら、絞り出す答えとして合っているのか分からなかったが、涙でいっぱいの、精一杯の、出来る限りの笑顔をして、言った。
「最高の家族やったよ」
みすゞはその言葉を聞けて満足し、笑顔と涙と、最初に明日へ伝えたお礼の言葉を最後とした。
「ありがとう」
瞬間、みすゞは高い、とても高い満点の星空へ溶けるように、高く、高く飛んでいった。ずっと、笑顔で、明日を思いながら。
明日は空を見上げていた。大声で泣き叫びながら、人目もはばからず泣いていた。多分、これ以上泣くことは、この人生でないだろう。みすゞがいた木は跡形もなく消え失せていて、もう繋ぐものは何もないのだと明日は分かった。ただ、悲しさと悔しさだけが募る。あぁしてやればよかった、こうしてやればよかった。こんなにしんどい思いをしているのに、それでも、生きようと。絶対にみすゞの生を無駄にはしないと、誓った。ずっと忘れはしないだろう。明日には深く、みすゞが刻まれている。それでも、今日は。今日だけは、変わらず目の前の海と、空は美しく色づいて、明日の泣き声を受け入れていた。
完
本作品はフィクションです。
a last summerはYoutubeに上げる楽曲の原作として、頭にあるものを文字で起こしました。
金子みすゞは自殺をした事で、何かの存在から罰を与えられていたのでしょうが、金子みすゞ自体はとても幸せに役目を終えられました。
明日は既に十分に色づいて、みすゞがいなくても問題なく生きていけるでしょう。
金子みすゞさんの詩はとても元気になれるものが多いので、皆さんもぜひ図書館やWEB検索でもいいので、見てみると、人生の豊かな進み方のヒントが得られるかもしれません。
関係ない話ですが、Music Videoの冒頭に目が開くような動画がありますね。何でしょうね。