秘匿呼称『StahlBirdman』
西暦1939年1月4日、航空省からメッサーシュミット社にジェット戦闘機の仕様が提示された。
すでに、連合王国においてジェット戦闘機の開発が進んでいることを諜報員の報告により知り得た国防軍最高司令部が、航空省に新世代の戦闘機の設計を要請したことで帝国空軍のジェット戦闘機の開発が始まった。
その仕様は単発機で戦闘を想定する高度で30分の滞空時間を持つ戦闘機を要求しており、メッサーシュミット社の技術陣は単発機でレシプロ戦闘機を大きく上回る性能を得るには推力650kgのエンジンが必要だという研究結果を出した。
しかしそれでは機体重量が増してしまい結果的には燃料の消費が増えてしまい滞空時間の減少につながってしまう。
単発機にするよりは、推力315kg程度のエンジンを2基装備した双発機の機体の方が重量が軽くなると分析し、1939年6月7日、メッサーシュミット社は双発機仕様のP1065の設計案を航空省に提出した。
me-262の型式番号を与えられた本機は、当時メッサーシュミット社が最も注力した機体ではあったが、目標の推力を得るエンジンの開発に難航し、予定よりも八か月遅れての初飛行となった。
しかし、初飛行でエンジンの圧縮機のブレードが破損しエンジンが停止。
再設計が必要と判断されたため、計画はさらに遅れる結果となった。
1942年12月に、より保守的な設計で1941年8月に推力600kgまで記録したユモ004エンジンを代替として使用することが決まり、Me262の原型3号機であるMe262V3にユモ004A-0が装備され1942年7月には、トラブルなく初飛行に成功。
1943年には、帝国空軍首脳陣に公開され高評価を得た本機は同年秋より少数の生産が始まった。
1943年7月、帝国陸軍がツィタデル作戦で敗北を喫する。
ジェット戦闘機me-262にかかりきりだったメッサーシュミット社に、東部戦線を管轄する陸軍総司令部 Oberkommando des Heeres 略称okh から一つの依頼が持ち込まれた。
それは、対戦車攻撃を行える人型兵器というものだった。
人型兵器といっても人型の機械ではなく人間が操縦するというものでメッサーシュミット社はエンジンを担当したユンカース社と開発チームを結成し、ジェットエンジンの試作として制作した小型ジェットエンジンの流用を考案。
性能は、最高時速328k/h 巡航速度240k/h 上昇可能高度6500m 滞空時間は、me-262同様の一時間。
これを受けた藁にもすがる思いの陸軍総司令部は即座に了承を下す。
鋼鉄の鳥人を意味する秘匿呼称、StahlBirdmanとして1943年8月からユンカース社とメッサーシュミット社の技術者陣による開発始まり、もともとme-262の開発でジェットエンジンやジェット機の開発に対して経験値を積んでいた両社の開発の進捗は好調で、エンジンの更なる小型化にも成功し要求の性能を満たした。
ジェットエンジンを取り付ける胴体部分、言わば鎧の部分を開発するメッサーシュミット社は、軽さ、防御性能、機動性を満たすべく注力した。
当初、ジェット機特有の旋回性能の低さに悩まされたがエンジンをカットすることで急旋回、急降下をする方向に設計思想を転換、エンジンをカットするギミックを搭載。
1944年1月―――試作タイプの試験飛行を開始。
試験では、データをとるため実力のある者が選ばれるのだがStahlBirdmanは、陸軍兵士が空中勤務を行うということから人選が難点だった。
空中勤務をするのは空軍の仕事。
しかし、相手にするのは陸上の敵であり陸軍の目標物、依頼は陸軍のものなのだ。
そこで選ばれたのが、国防軍所属レーベレヒト・エルンハルト大尉だった。
彼の軍歴は、18歳で帝国空軍に入隊し翌年のブリテン島上空の制空権を巡るバトル・オブ・ブリテンに参加。
連日繰り広げられる熾烈な航空戦を延期が決定されるまで戦い続け、その後陸軍へ転属し西部戦線に送り込まれていた。
彼の要望を踏まえ、さらに改良されたStahlBirdmanは春の終わりごろには少数生産が始まった。
最初の生産数が補用を含めた60機。
広く装備するには、まだ実績のないStahlBirdmanは試験的に部隊を編成しその実績如何で本格的な生産に移行する方針がokhで定まると直ちに部隊が組織され習熟訓練が始まった。
701試験戦闘団だ。