第一節
大輔から電話がかかってきたのは、日付が変わって年が明けたばかりの深夜二時頃だった。
僕が電話に出ると、大輔はいきなり本題に入った。
「俺、薊と別れた。」
何を言っているのか分からなかった。
大輔と水野さんは、話を聞くにはもう付き合って2年ほど経っている。
二人は大学を卒業すると同時に結婚をする約束もしていたし、そのために貯金もしていた。
そんな二人が別れるなんて、考えられるはずが無かった。
「何かあった?」
「……ごめんな」
僕は、大輔と水野さんが喧嘩でもしたのかと思い、別れるに至った経緯を聞こうとした。
でも、大輔は僕の問いには答えず、一言だけ謝って電話を切った。
胸騒ぎがした。うまくは言えないが、とにかく嫌な予感がした。
朝になると、僕は加奈に電話をした。
初詣に行こうと思ったのだ。
コール音がなる。一秒、二秒、三秒。
時間だけが過ぎていく。
四秒、五秒、六秒、プツッ。電話は繋がることなく切れた。
加奈は電話に出なかった。
嫌な予感が膨れ上がる。体を蝕む。
加奈から電話が帰ってきたのは夕方になった頃だ。
僕はその頃、部屋で冬休みの課題をやっていた。
大学でも冬休みの課題ぐらいはある。
話を聞くと、加奈が電話に出なかったのは、家族で毎年やっている餅つきに参加していたかららしい。
「明日、初詣に行かない?」
「いいよ」
「加奈の家の近くに小さい神社あったよね。あそこでもいい?」
「あ……」
しばらくの沈黙があった。多分十秒ほどの長い沈黙だった。
それは、あまりにも不自然で、何かに戸惑っているような沈黙。
「……あ、あのね。あの神社、最近放火にあって、もう無くなったんだ」
なるほど。だから言い淀んだような間があったのか。
僕はさっきの不自然な沈黙の理由を理解した。
「そうなんだ。じゃあ、ちょっと遠いけど稲荷に行く?」
「うん。そこでいいよ」
「何時頃からがいい?」
「まかせるよ」
気のせいかもしれない。
本当に気のせいかもしれないが、加奈の反応がそっけない。
「じゃあ、あまり遅い時間だと人が多いから、朝の七時くらいに迎えに行っていい?」
「……はやすぎる」
「だったら、十時とか?」
「うん。それでいいよ」
「わかった。じゃあね。おやすみ」
「うん」
電話を切った。耳の奥に加奈の声が残っている。
やっぱり、いつもと比べて、反応が冷たい気がした。
暖かい部屋に居る筈なのに、寒さを感じた。心の寒さなのだろうか。
結果だけを言えば、加奈の態度が冷たいと感じていたのは、僕の勝手な勘違いだった。
次の日の朝、加奈を家まで迎えに行ったがいつも通りだった。
特に変わった様子もなく、どちらかと言えばいつもよりも楽しげにしていたくらいだ。
加奈の家の近くにある神社の前を通りかかった。
火事で焼けた跡などなく、神社としての役割をごく普通に果たしていた。
人もそこそこの人数がいたし、毎年行われる大規模な焚き火も通常通りに行われていた。
僕は神社のことをわざわざ口に出すことはしなかった。
稲荷神社の出店が目的だということも、あるかもしれないと思ったからだ。
そして、僕の予想通り、加奈は稲荷神社に着くと参道に並ぶ出店を見ていろいろと買い物を始めた。
焼き栗にりんご飴、串カツに寒天、ういろう。
いろんな食べ物を買っていた。家族に頼まれたらしい。
僕と加奈はゆっくり出店を見て回りながら、徐々に奥に進んで行った。
一時間ほど歩いて、ようやく賽銭箱の前にたどり着いた。
僕は財布から十五円を取り出し、賽銭箱に投げる。
二礼二拍手一礼をして、今年一年の抱負を胸に抱く。
今年も一年、幸せになれますように。
そのあとはおみくじを引いた。
加奈は末吉、僕は凶だった。
僕のおみくじには、頑張るほど空回りすると書かれていた。
恋愛の項目だけは良かったから良しとしようか。
稲荷神社を後にし、僕たちは大型ショッピングセンターに福袋を買いに行った。
僕も加奈も、それぞれ好きな服のブランドの福袋を買うことができ、満足することができた。
幸せだった。憧れていた加奈と恋人関係になることができ、こうして何でもない日常を共有できる。
これ以上に幸せなことはないと僕は思っていた。
多分、もっと幸せなこともあるのかもしれない。
でも、僕は最低限、好きな人と日常を共有できるだけで良かった。
それだけで、僕は十分に満たされていた。
初詣から一週間が経ち、僕たちは成人式を迎えた。
僕と加奈と大輔は同じ中学出身だったから、同じ会場だった。
僕と大輔は和装をしたかったのだが、二人とも親に反対されて僕が紺色、大輔が黒色のスーツをそれぞれ身につけていた。
加奈はというと、もちろん和装だった。
多分、成人式を迎える女性のほとんどが和装だろう。
和服というのは、女性をより綺麗に見せることのできる服装だ。
どんな人間でも綺麗に美しくなることができる。
だとしたら、もともと綺麗な加奈は皆の視線を集めるほど美しくなるということだ。
加奈と合流した時、僕は息を飲んだ。
僕の陳腐な語彙力では言い表すことができないほどに、本当に美しかった。
およそ三時間にわたる成人式が終わり、僕は加奈と食事にでも行こうとした。
でも、加奈の姿は見当たらなかった。
席が少し離れていたせいで見失ったのだ。
しばらく会場を探し回っても、加奈は見つからなくて、とりあえず車に戻ってそこで連絡を取ってみようと思った。
駐車場は成人式の会場からほんの少しだけ離れていて、大きな道路を一つ挟んだ向かい側にある。
道路を渡ろうと信号待ちをしていた時、駐車場の中から一台の車が出てきた。
よく見慣れた車だった。クリーム色の軽自動車。
僕の親友の車だ。
車の運転席に座る大輔に対して軽く手を振ろうと右手を挙げる。
だが、その手は途中で止まった。
僕の目の前を走り去っていったその車の助手席に、楽しそうに笑う加奈が座っていたからだ。
僕は認めたくなかった。
加奈が恋人である僕ではなく、大輔と二人でどこかへ行ってしまうなんて考えられなかったから。
この日の夜、僕の元に一本の電話があった。
加奈からの電話だ。電話がかかってきた時点で内容は何となく予想できていた。
こうして、僕は独り身に戻った。
僕が成人式にまつわる噂を聞いたのは、加奈に別れ話をされた次の日だった。
噂はすごく有名な物らしく、成人式での浮気率は実に七割にも昇ると言うものだった。
この話を聞いた時、僕は既に何もできない状態にあった。
だって、もう既に浮気されてしまったのだから。
僕と加奈の関係は終わってしまったのだから。
今更何をしたところでもう遅い。
僕は一晩中泣いた。
親友に裏切られ、恋人を奪われ、悔しかった。
そして、思い出した。
自分にはまだ加奈を奪われないための手段があることを。
しばらく生き物を殺していなかったせいで、僕はすっかり忘れていた。
僕には生き物を殺して過去に遡る力があったのだ。
次の日の朝、僕は迷わなかった。
いつも持ち歩いている包丁を片手に、僕は家を出た。
街を歩き、すれ違った一人目の人間にそのまま包丁を刺した。
通勤中のサラリーマンだった。
早く遡るために何度も刺した。
目を刺し、胸を刺し、首を裂き、腹を裂き、何度も何度もドスドスと包丁を突き立てる。
一分も掛からないうちに眩暈に襲われ、瞬きをする。
閉じた瞼を持ち上げると、二日前に戻っていた。
成人式の日の朝七時。
場所は自宅。
「ハハッ。ちょうどいいや」
自然と言葉が漏れ、僕は笑っていた。
僕はスーツを着込み、小さなカバンに携帯電話と財布、そして包丁を入れて家を後にした。
成人式の会場に着くなり、すぐに加奈を探した。
今のうちから加奈と約束しておけば、加奈は成人式の後に僕とこの場を去ることになると思ったからだ。
探し始めて五分と経たず、加奈は見つかった。
加奈は既に大輔と合流していた。
僕は二人と合流するなり、加奈の手を引いて大輔から離れる。
大輔にはその場で待っているように言った。
大輔が見えなくなったところで加奈の手を離す。
「なに?」
加奈がいきなりのことで驚いていた。
「今日さ、式が終わった後にどこか行こうよ」
「え……あ、いいけど」
加奈は言い淀んだ。
既に遅かったようだ。
僕は失敗だと判断すると、カバンから包丁を取り出してすぐ横を通りすがった人間に突き刺した。
包丁を引き抜くと、ぶちゅっと言う奇怪な音がなり、赤黒い血が飛び散った。
刺さった場所は顔だったらしい。
僕に刺された晴れ着姿の女性は、鼻のあたりを両手で押さえ、悲鳴を挙げた。
うるさい。
場の状況が理解できていた人間は僕だけだったのだろう。
僕が女性を何度も包丁で刺し殺す間。
僕を止める人間は誰もいなかった。
三十秒ほどで激しい眩暈に襲われた。
包丁を放り投げ、顔についた血を腕で拭い取る。
ふと視線を上げると、僕の周りには人だかりができていて、大勢の視線に囲まれながら、僕はゆっくりと噛み締めるようにまばたきをした。
目を開けると、成人式の四日前に遡っていた。
後になって気づいたが、僕がこの時に殺したのは小学校の時に一度だけ同じクラスだった女の子だった。
とりあえず、すぐに電話をかけた。コール音が響き、一秒、二秒、三秒。
そして、電話は切られた。加奈は電話に出なかった。
加奈からの電話が返ってきたのは二時間後だった。
用事があって電話に出られなかったらしい。
僕の焦ったような声を聞いて、加奈は僕のことを心配してくれた。
やっぱり、この時はまだ大丈夫だったんだ。
「あのさ、成人式の後、どこかに行かない?」
安心した僕はすぐに本題に入った。
『 いいよ 』
思いの外、話は簡単に終わってしまった。
僕は成人式までの数日間、加奈に何度か連絡を取り、大輔と合わないように仕向けた。
待ち合わせ場所だとか、移動手段だとか、とにかく僕が加奈の近くに居続けられるように工作をした。
そうして迎えた成人式当日。僕の作戦は成功した。
加奈は大輔に会うことなく式をやり過ごし、式が終了すると直ぐに僕と合流してその場を去った。
これで安心なはずだった。
これで、不安はなくなると思っていた。
成人式から三日後、加奈から一本の電話があった。
電話の内容は予想外のものだった。
本当に申し訳なさそうに、辛そうに発した加奈のその言葉は……
「ごめん、大器……私と、別れて欲しいの」
僕の作戦の失敗を告げるものだった。