第三節
街は白に染まっていた。
空からは大粒の雪がゆっくりと降り注ぎ、何も考えずにその光景を見ていると、時間の進みが遅くなっている錯覚を覚えた。
寒さのせいか、空を飛ぶ鳥の数は両手の指で数えきれる程度だ。
十二月二十四日。クリスマスイブ。
ダブルデートの前日だ。
僕は加奈さんを車で迎えに行った後、二人で映画を見に行った。
クリスマス当日はダブルデートをすることになってしまったため、二人きりでのデートができなくなってしまったからだ。
一週間ほど前にも来た大型ショッピングモールの映画館に着くと、そこは多くのカップルや家族連れで賑わっていた。
やっぱり、クリスマスは普通の休日なんかよりも客は多いのだろうか。
目を逸らしたくなるほどの行列に並び、三十分をかけて映画のチケットを買った。
選んだのは一日あたりで二回ぐらいしか流れないような、誰も目にとめないようなマイナーな映画だ。
「何を見たい?」と僕が聞いた時に加奈さんが見たいと言ったものだ。
ちょうど僕も見たいと思っていたものだった。
そのあと、映画が始まるまでの長い時間を、物販コーナーを見物して過ごした。
物販コーナーのレジ脇の角の棚に、僕たちの見る映画のグッズは置かれていた。
僕は加奈さんが物欲しそうに見ていたピアスを購入し、加奈さんにプレゼントした。
彼岸花をモチーフにした銀色のピアスだ。
加奈さんは僕からピアスを受け取ると、すぐに付けて「どう?」と聞いてきた。
「綺麗だ」と僕が答えると、加奈さんは「知ってる」と即答した。
あまり表情を表に出さないタイプの彼女だが、この時は分かりやすく微笑んでいた。
映画自体は何とも言えないものだった。
国の政策によって無人島に送られてしまった複数の男女が、それぞれの形で生き延びようと奮闘するという内容の、言ってしまえばありふれた話だった。
特に面白いこともなく、特に感動する場面もなかった。
ただ、映画のラストシーンで出てきた画面いっぱいに広がる彼岸花畑はとても印象的だった。
このシーンの時にふと加奈さんの様子が気になり、隣の席をちらりと見た。
加奈さんは咲き乱れる彼岸花を見て、優しく微笑んでいた。
その様子はとても綺麗で、耳に輝く銀のピアスが、それ単体で見た時よりも美しく見えた。
「ねぇ」と、映画が終わってすぐに、加奈さんが声をかけてきた。
「なに?」
「ご飯食べていこうよ」
「もちろん」
僕が食事に誘おうと思っていたのに、僕が誘う前に加奈さんに誘われてしまった。
僕たちはショッピングモールから出て、車を走らせながら店を探した。
加奈さんが「イタリア料理を食べてみたい」と言ったからだ。
十分ほど走らせると一件のイタリア料理店が見えてきた。
初めて見た店だが、加奈さんが言うにはお手頃価格のイタリア料理店らしい。
2階建ての店の看板には『 Confine 』と書かれていた。
「こんふぃーね?」と僕がたどたどしく読み上げると、「そうだよ」と素っ気なく言って、加奈さんは店の中に入っていった。
加奈さんを追いかけて店に入ると、中には店員とみられる人以外に人の気配はなかった。
店員に三つしかないテーブルの一番奥の席に案内され、席に着いたところで店員が自己紹介をしてきた。
「はじめまして。私、この店を経営しています杏という者です」
杏と名乗る三十代くらいのその男性は、顔に覇気がなく、僕たちではなくなぜか部屋の隅をじっと見ていた。
そして、僕がどのように反応して良いのか困っていると、杏は「本日のご予算はどのくらいでしょうか」と聞いてきた。
飲食店にしては珍しい質問だな、と思っていると、加奈さんが杏の問いに返事をした。
「友人の紹介です。オススメでお願いします」
「かしこまりました」
杏は了解すると、奥の部屋から何かをとってきて加奈さんに手渡した。
真っ先に出てきたのはワインだった。
ラベルの貼られていないそれは、僕があまり好きではない赤ワインだった。
なぜだかわからないが、料理は三品しか出てこず、次から次へと酒が運ばれてきた。
「ねぇ。お酒多くない?」
「そういうもの」
「俺、飲酒運転するの?」
「運転しなければいい」
じゃあ加奈さんが運転するのかと思ったが、彼女も酒を飲んでいる。
どうするつもりだろうか。
食事というよりは呑んだに近かったが、とりあえず僕たちは腹ごしらえをした。
食事を終えると加奈さんが「さて」と言って立ち上がった。
店を出るのかと思い僕も立ち上がったのだが、加奈さんは荷物も上着も持たずに店の奥に入っていった。
僕が状況を飲み込めずに戸惑っていると、加奈さんが杏さんを連れて戻ってきた。
杏さんはやはり僕たちを見ることなく、部屋の隅を見て話し出した。
「はい。私はもう帰るので、この建物に入るのはお二人だけになります。明日は昼までに出ていってもらえれば構いません。自動販売機は店の外にあります。それ以外はだいたい部屋に揃っているので」
杏は話し終えると、そそくさと奥に引っ込んでいってしまった。
「どういうこと?」
「いいから」
僕が話を読めずに加奈さんに状況説明を要求すると、加奈さんは上着と荷物を持って僕の腕を掴んだ。
そして、「行くよ」と言って僕を店の奥へと引っ張っていった。
のれんのようなもので区切られた先は厨房だと思っていたが、八畳程度のごく普通のリビングだった。
僕と加奈さんはリビングに入ってすぐの左手にある階段を登り、二階に向かった。
階段を登った先には二十メートルほどの廊下が伸びており、その左右に扉は付けられていない。
廊下の一番奥に扉が一つあるだけだ。
僕は加奈さんに一番奥まで連れて行かれた。
すると、加奈さんはポケットの中から一つの鍵を取り出し、唯一あった扉の鍵を開けた。
加奈さんは当然のようにスタスタと入っていったので、僕も彼女の後に続いて部屋に入った。
部屋の内装は簡素なビジネスホテルのようになっており、シャワールームやテレビ、冷蔵庫まで付いていた。
「まさか……」
僕が加奈さんの考えに気づき、加奈さんを見る。
「お酒を抜いてから帰れば問題ないでしょ?」
「本当に言ってる?」
「もちろん。今日はここに泊まればいいよ」
加奈さんが衝撃の提案をしてきた。理由は簡単だ。
僕は隣に立つ加奈さんの顔と部屋の中央にあるベッドを交互に見て、「まじか……」と言葉をこぼした。
目の前にはシングルベッドが一つあるだけだった。
僕たちはとりあえず交互にシャワーを浴び、僕はベッド、加奈さんは椅子に座って話をした。
「こんふぃーね?って何語なの?」
「いくつかの国の言葉で同じ発音をする言葉があるけど、ここは一応イタリア料理店だから、イタリア語かな」
「言葉の意味ってわかったりする?」
「もちろん」
さすが加奈さんだと思っていると、加奈さんはゆっくりと口を開き、「境界線」と言った。
「え?」
「境界線だよ。境界でもいいかな。とにかく、何かと何かの境目。そんな意味」
イタリア料理と関係があるのか、僕にはわからなかった。
僕が頑張って関係性を見つけ出そうとしていると、次は加奈さんが話題をふってきた。
「ところでさ。杏さんって、あれ多分偽名だよね」
「え、そうなの?」
「うん。多分、店に合わせて偽名を使っているんだよ」
「どうして杏なの?」
僕はどうしてもイタリア料理店と杏の関係性が見つけられなかった。すると、やはり加奈さんが意味を教えてくれた。
「花言葉」
「花言葉?」
「うん。杏の花言葉は臆病な愛。だからこの店はConfineっていう名前なんだね」
また加奈さんが意味のわからないことを言ってきた。
僕が難しい顔をしながら加奈さんの言ったことの意味を考えていると、加奈さんは椅子から立ち上がって僕に近づいてきた。
「この店はね、イタリア料理店っていうわけじゃないんだ。この店と杏さんは二人揃って意味を為すの。臆病な愛の境界線。この店は、境界線で臆病な愛の背を押す役割を果たしてるの」
加奈さんは僕の前まで来ると、僕をベッドに押し倒してきた。
「つまり、臆病な私たちの後押しをしてくれるってことだよ」
加奈さんは恥ずかしながらそう言い、僕にキスをした。
この夜、僕たちは初めて男女の関係の境界線を超えた。
なんとも情けない事運びで、互いに経験のなかった僕たちは互いに顔を赤くしながら、くすぐったさに笑いそうになりながら、境界線の向こう側へ行った。
陳腐な表現をするなら、僕たちは大人の階段を上ったわけだ。
朝になって目がさめると加奈さんはすでに身支度を終えていて、昨日と同じ椅子に座って缶コーヒーを飲みながら本を読んでいた。
目元を擦りながら、早起きの加奈さんに挨拶をする。
「おはよ」
「……うん」
昨日のことが恥ずかしかったのか、普段から静かな加奈さんがいつも以上に静かだった。
僕が顔を洗うために洗面所に向かうと、加奈さんが僕についてきて肩を叩いてきた。
「どうしたの?」
僕が加奈さんの方に振り向くと、加奈さんは少しだけ背伸びをして僕にキスをした。
そして、すぐにベッドの方へと足早に歩いて行き、こっちを見ずに「昨日の……」と言ってきた。
「どうしたの?」
「昨日の……昨日の! やつ……お酒が入ったとか、場の雰囲気に当てられたとか……そういうの、関係ないから」
言い終えると、加奈さんはすぐにベッドにダイブし、布団をかぶった。
なんだこのかわいい生き物は。
加奈さんが僕をここに連れてきた以上、昨日の出来事が以前から計画されていたであろう事は分かっていた。
そもそも、こんな店は突発的に見つけられるものでもないだろうし。
だから、加奈さんがわざわざ不必要な感情の補足をしたのがおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。
僕もさっさと身支度を済ませて一階に降りると、杏さんがジャージの上からちゃんちゃんこを羽織り、その上から猫の顔がプリントされたエプロンをかけるという奇抜な格好で蜜柑を食べていた。
会計を済ませると、杏さんは蜜柑を二つくれた。
店を出ると雪はすでに止んでいて、5センチほど積もっていた。
太陽の光を反射してキラキラと輝く雪上を歩くと、ギュッという音が鳴り、いい歳なのに少しワクワクした。
僕と加奈さんは一度家に帰って服を着替えることになった。
いくら冬とはいえ、昨日と同じ服を着るのは気がひける。
汗をかいていなくても嫌なものは嫌なのだ。
加奈さんの家は大輔の家の近くの為、僕の家とは真逆だった。
僕は加奈さんを家まで送り、そこから家に帰って服を着替えた。
加奈さんを送る途中、彼女に「名前。どうして呼び捨てで呼んでくれないの?」と言われた。
曰く、恋人同士で一線を超えた仲なのだからさん付けで呼ばれるのは寂しいのだそうだ。
その感覚はわからないが、加奈さんも僕を呼び捨てで呼んでいる。
だから、僕はこの時を境に彼女のことをさん付けでは呼ばなくなった。