第一節
「ほらほら〜感謝しろよ。俺のおかげでお前ら二人はバスの席が隣どうしになれたんだぞ?」
恩着せがましく僕の肩を揺する大輔の頭頂部にゲンコツを落とし、僕は帰ると言った。
「おい。今日ウチに来いよ。今日は映画を観るぞ」
僕は自分の意識と関係なく口角が自然に上がるのを感じた。
大輔はそれに気づかない。
「その映画、バタフライエフェクトってタイトルか?」
「お! よく分かったな! 親父の部屋で昨日みつけてよ。面白そうだから観ようぜ」
大輔は感心したとでも言うように目を見開いて驚く。
加奈どうするのかと思い、視線で問いかけるように彼女を見つめる。
「……大器はどうする?」
どうやら彼女も僕の返答でどうするかを決めるらしい。
僕がいるなら来るのか。
僕がいるなら来ないのか。
彼女の決断によっては僕は再び心を抉り取られることになる。
僕は慎重に考え、笑顔を作った。
「いや、俺もうその映画見たことあるから遠慮しとくよ」
それだけ言うと、「マジかよー」と残念がる大輔に視線を向けないまま、加奈がどうするかの決断を下す前に僕はそそくさとその場を後にした。
教室の立て付けの悪いスライド扉を開く時、背後から聞こえた「じゃあ私もやめておく」という言葉が僕の幻聴なのか否なのかは知らない。
そもそも、幻聴ではなかったとしても大輔と加奈が会話をする中で発せられた言葉ではなく、別の人たちの会話の中で漏れ出た言葉なのかもしれない。
それでも僕はなんだか満足したような気分になり、いつもより弾む調子で自宅への道を歩いた。
__________
「コイツさ、小五の時に俺に告白してきたんだぜ!」
ガハハと笑いながら大輔が加奈を指差したのはいつかの修学旅行で加奈が死んだことのある駅のホーム内。
僕たちが桜花と呼ばれていた少女とその連れの少年と遭遇したことがある場所だ。
僕たちは今、あの時と同じ駅のホームで電車を待っている。
最前列の特等席だからもしかしてと思って周りを見回してみるが、”それらしき人影”はない。
「どうした。何か落としたのか?」
キョロキョロと辺りを見回す僕を心配して大輔が声をかけてくる。
「いや、大丈夫。なんでもねぇよ。それよりなんだって? 小学校五年生の時に大輔が加奈に告白しただって?」
「逆だよ! 逆! こいつが俺に告白したの!」
「へぇー」
身振り手振りで大げさに訴えかけてくる大輔に、僕は生返事を返す。
もう何度も何度も聞いた話だったから。
それと、あまりいい気分になる話ではなかったから。
「そ。で、俺はそれをフったわけ」
「へぇー」
「あ、信じてねぇな!」
本当なんだと大輔は軽く地団駄を踏んだ。
地団駄って子供とか可愛い子がやるから可愛らしいだけであって、コイツみたいな体格のいい中学生がやると普通に気持ち悪いんだな。と、僕は少しだけ失礼なことを考えてしまった。
「……今そんなこと言わなくてもいいじゃん」
加奈は大輔に昔の思い出を勝手に語られてほんのり頰が赤くなっている。
多分、いま彼女は恥ずかしがっている。
それにしても、大輔の言っていた話は本当だったのか。
いや、まぁ知っていたのだけれど。
「大輔、別に今そんな話をする必要ないだろ」
加奈を擁護するだけでなく、若干だけど自分の心に浮かんできた靄を払いのけるために大輔を軽く避難する。
けれど、大輔は余計に得意げな顔になり、
「お?なんだ?悔しいのか?」
と変に煽ってくる。
その後ろでもう直ぐ電車がやってくるというアナウンスが聞こえてきた。
本当、駅のホームからお前を突き飛ばしてやりたいよ。
幸いと言っていいのかわからないけれど、この駅には他の駅にあるような安全用の柵のようなものがない。
きっと、いくら東京といえど都心部ではない部分までそのような安全の配慮などしていられないのだ。
資金的な問題で。
そんな風にあまりよろしくはない考え事をしていると、後ろに並ぶ人が無理に列を横切ろうとした誰かに押されたようで、バランスを崩して僕にもたれかかってきた。
当然、僕はまだ中学生の体で、大人にもたれかかられて耐えられるほど頑丈な体は持ってない。
そのまま押されるような形になって僕は前方に転んでしまった。
僕の上半身は黄色い線を大きく飛び越え、顔がホームからギリギリ飛び出ない位置にうつ伏せの形になってしまう。
何事かと僕が顔を上げた時、僕の目の前を……文字通り目と鼻の先を電車が通った。
鼻先を掠っていてもおかしくない位置をだ。
いつもよりも強く、電車が通過する際の独特の風を身に浴びる。
加奈と大輔はもちろん、僕にのしかかる形になってしまったサラリーマンを含め、周囲にいる人々が息を飲むのがわかった。
それほどまで、僕は今ギリギリの位置にいたのだ。
あと数ミリでも線路の側に僕の体が乗り出していれば、僕はそのまま…………
不意に恐怖がこみ上げてきて、額に冷や汗が滲み、体が震える。
もし、あと数ミリでも僕が線路の側に出てしまっていたら、僕はどうなっていたか。
そんなの、考えるまでも無い。
「おい! 大丈夫か! 加奈、とりあえず先生を呼んできてくれ」
「……あ、わかった」
「すんません。ちょっと退いてください。大丈夫か!」
一番近くで見ていた大輔が僕の上にのしかかっていたサラリーマンを退け、跪いて僕の安否を確認してくる。
なんていうか、こういう時はやっぱり頼りになるんだよな。
しっかりしていて。人を気遣うことができて。
どうして…………。
どうして、僕はこいつを殺したんだろうな。
加奈がこいつと浮気をしたなんて確信はなかったのに。
僕が得られたわずかな情報だけで都合よく解釈して。
それで憎いからって殺そうとして間違えて加奈を殺してしまって。
「本当……俺は何してたんだろな」
その言葉は決して独り言ではなかった。
けれど、誰か特定の人物へと向けたものでもなかった。
誰でもいいから僕を助けてほしい。
そんな救難信号にも似た吐露だ。
僕は今まで何度となく人を殺してきた。
相手のことなど微塵も考えず。
死を目前にした人がどんな感情になるのかも想像することなく。
ただ、自分が幸せにさえ慣れればそれでいいのだと、僕自身の幸せのあり方すら知らずに殺し続けてきた。
けれど、僕は今わずかにだけれど死と触れ合った。
鼻先数ミリの位置の死と。
死ぬのがこんなにも怖い事だとは、僕は考えもしなかった。
指先から冷えた感覚がせり上がってきて、体に力が入らなくなって、呼吸も忘れて頭から全ての感情が霧散する。
そんな感覚を、僕はこれまで想像すらしなかった。
きっと、今まで僕に殺された人々は、同じような恐怖をより色濃く実感しながら死んでいったのだ。
それこそ加奈も……。
嗚呼。死ぬのは怖い。
そして、死ぬ人間が恐怖をするのだと身をもって知ってしまった以上、殺すことすらも怖くて怖くてたまらない。
だから僕は本当に残り二回しか人を殺さない。
それもなるべく早く目的を果たして、僕は僕の力を放棄したい。
自分の体が壊れるかもしれないという恐怖を、人を殺すことの恐怖を放棄したい。
僕は口元をキュッと結び、今一度だけ自分の意思を確認する。
僕は幸せになりたいのだと。
そのために残り二回だけ力を使うのだと。
人を殺すのだと……。
僕は声に出さず、胸の奥でしっかりと僕の目的を確認する。
「……よし」
もう決意した。
怖いけど、怖いからこそ、僕は今ここで力を使う。
だって、嫌な事はさっさと終わらせてしまった方が人生楽だろう?
いつも通りベルトのバックルに手を伸ばしてバタフライナイフを取り出すと、透かさず開き、僕を心配して声をかけてくれている大輔の首筋に勢い良く突き立てた。
いつものように捻って抉るような事はしない。
そこまで思考は回らなかった。
僕はただ、何度も突き刺した。
首だけではなく心臓があるのだろうと思われる左胸部にも何度も突き刺し、腹に刺して縦に裂いたりもした。
噎せ返るような鉄にも似た血の香りが周りに充満する。
初夏の風よりもわずかに暖かい血が周りに飛び散る。
目の前で起きている光景を周囲の人々はポケーっと口を開けて間抜けな顔で眺めている。
飛び散る血液が自分の顔にかかっているにも関わらず、大切な営業用のシャツを赤く染めているにも関わらず。
誰も眼前の光景から目を離すことなく、その光景を理解できずにいる。
これが、僕が力を使うと決めた二回のうちの片方だ。
僕の思い描く幸せに”やっぱり大輔は邪魔でしかない”。
そもそも、すべての始まりは大輔だった。
大輔さえいなければ加奈が浮気したのだと勝手に思い込んでしまう事もなかったし、何度も何度も過去に溯ろうなんて思考に至るワケがなかった。
だからコイツは早めに殺しておいたほうがいい。
早めに障害が消え去ったほうが僕もより早い段階で安心することができる。
早めに殺しておいたほうが僕は怖い思いをしないで済む。
だから僕は、まず一回目。
ここで大輔を殺した。




