第一節
「ようやく目立った怪我が全て癒えましたね」
ギプスを外し、すっかりとやせ細ってしまった僕の手足を見て初老の男性医は感慨深く声を漏らした。
かれこれ入院から三ヶ月ほどが経っている。
季節は春。
新生活の代名詞である四月だ。
「骨折って治るのにこんなに時間がかかるものなんですか?」
「確かに本来必要としている以上の時間はかかったけれど、たぶん君自身が疲れきっていて、体が修復を少しだけサボってしまっていたんじゃないかな?」
カルテを書きながら、医師は何てこと無い様子で言う。
多分、よくある事例なのだと思う。
「はぁ……。そういうものなんですか」
「案外そういうものだよ」
そう言いながら、医師は小難しい事の書かれた用紙を手渡してくる。
僕は用紙に必要事項を記入し、医師に返す。
「はい。じゃあ一応だけれど退院日は明日にしておくね。治ったから今日帰れなんて言っても難しい話でしょ?」
「あ、ありがとうございます」
いいんだよと微笑む医師を背に、患者から送られた雑貨で溢れかえった、もの寂しくも騒がしい診察室を後にした。
このまま病室に戻ったところで暇になるだけで、そんな虚無を思わせる暇から逃げるように、それから目をそらすように、僕は売店でちょっとしたお菓子と暖かいミルクティーを買って屋上へと向かった。
屋上へと続く階段には院内を統一して照らしている黄色がかった照明がつけられておらず、まだ日中であるというのに薄暗い。
そんな淀んだ空間に不気味に伸びる階段を一段ずつ踏みしめて行き、最後に硬いノブを捻ってサビの目立つ扉を開けた。
「うっ……寒っ」
春先の風は日中といえどまだまだ冷たく、それは扉を開けた先からすぐに僕の体を冷やそうと襲いかかってきた。
けれど、その寒さも耐えられないほどキツイものではなく、日中の日差しがあることでむしろ心地よい寒さに感じることができる。
僕は入り口と向かい合うように置かれているたった一つのベンチへと座った。
屋上には自動販売機が扉の脇に置かれていて、それらと向かい合うようにベンチが一つ置かれているだけと、ずいぶんと寂しいディスプレイがされていて、当然のように人の気配などなかった。
地面のコンクリートは無数のヒビが走っていて、ベンチは足の部分が錆びてしまっている。
自動販売機に陳列された商品達はいつのものかのかわからないほど古い商品ばかりで、プラスチックで作られた見本は何本も倒れてしまっていた。
まるで病院の中でこの場所だけが要らないと放置されてしまっているようだった。
本当のところがどうなのかはわからないが、少なくとも僕にはこの場所が、病院で働く人々やここでの暮らしを余儀なくされている人々から必要とされず、切り離されてしまっているように感じられた。
とても悲しいことだが、人間というものはそういう生き物だ。
必要としている時はチヤホヤと群がり散々に活用する。
そして、必要がなくなった途端に自分とは関係がないのだと切り離し、視界の隅にも置かせない。
物に限ったことではなく、人間は同じ人間に対してもこのスタンスでいるのだ。
なんてアンニュイな気持ちに浸っていると、僕の背で屋上の重い扉が開かれる音がした。
振り向くとどこか見覚えのある一人の男性が「あれ?」と首をかしげながら立っていた。
男性はスーツを身につけており、サラリーマンなら皆が持っているような黒の革製のカバンを手に持っていた。
男性は気まずそうな顔をしつつも「隣、座っていいですか?」と不器用にぎこちなく微笑みかけてきた。
「あ、どうぞ」
「ありがとう」
てくてくと歩いてきて僕の隣に腰を下ろすと、男性はカバンから書店でつけてもらえる紙製のカバーをかけた文庫本を開き、読み始めた。
僕はその隣で、ただただ日の光と風を浴びながら見慣れた町並みを眺め続けた。
隣から聞こえるページをめくる音に耳を澄ませながら病院前の大通りを通り過ぎるバイクの数を数えていると、男性は本を読む手を止めて「君さ……」と声をかけてきた。
「君……僕と会ったことあったっけ?」
「……人違いじゃないですか?」
そう答えはしたものの、見覚えのある男性の姿をどこで見た事があるのか。
僕はそれを思い出した。
彼はいつかの修学旅行の際、駅のホームで加奈にぶつかった桜花という名前の少女と共にいたあの少年だ。
「人違い……かな。五年くらい前だと思うけど、たぶん東京のどこかの駅であったと思うんだ」
「……」
不安そうに首をかしげ、「人違いかな?」と男性はつぶやくが、僕は別にその言葉を拾おうとはしない。
どうやら、この男性も前の周の記憶を引き継いでいるようだ。
僕は彼の言葉をしばらく無言でやり過ごすと、男性は「まぁいいや」と僕の返答は求めていないことを告げてくる。
そして、
「あの時の男の子が君じゃあ無かったら無視してくれて構わないよ。ねぇ、あの時一緒にいた女の子は元気にしてるかい?」
と、なんとも残酷で僕の心を的確に抉る質問を投げかけてきた。
僕はその質問に答えずにいたが、僕の表情はわかりやすく歪んでいたようで、男性は「やっぱり君はあの時の……」とだけ言い、口を噤んだ。
なんとも言えない気まずい時間が続き、僕はその沈黙が居心地悪くて何か言葉をかけるべきなのか迷った。
そして、僕の口から出た言葉は「あなたと一緒にいた女の子はまだ元気ですか?」なんて、男性が僕にしてきた質問をそっくりそのまま返すものだった。
男性は僕の質問を聞くと、柔和な笑みをその顔に浮かべ、「死んだよ」と笑みを崩すことなく言い放った。
「あの子はもう死んだんだ。君たちと偶然駅でぶつかった年だか翌年だか」
その顔に悲しみの色などは滲んでおらず、ただ大切な人を想う優しい笑みだけが張り付き続けていた。




