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幸せのあり方  作者: 人生依存
第6話:希うは幸福な結末
30/50

第七節

 

 深夜。何時頃だったか。

 多分、三時前くらいだ。

 僕は不意に目が覚めた。


 ベッドを見ると加奈が気持ちよさそうに眠っており、僕は安堵の息を漏らした。

 よかった。加奈は救われたんだ。

 そう思い、僕は肩の力を抜くように溜め息をついた。

 どうやら僕の目が覚めたのは尿意を催したことが理由らしく、僕は欲望に逆らうことはせずに素直にトイレへと向かった。


 用を足して手を洗っていた時。

 ガチャン。と、何かが割れるような音がなった。

 音の聞こえた方向から、その音はベランダのあたりが発生源となっているようだった。


 何かあったのだろうか。

 そんな程度の気持ちで手のひらについた水滴をタオルで拭き取り、リビングに向かった。

 見慣れたリビングには”二つの人影”があった。

 一人は加奈。

 もう一人は……知らない男だった。


 その男は僕の預金通帳が入った勉強机などを漁っており、部屋はすでに物色された形跡が僅かながらに生まれていた。

 音の発生源と思われるベランダの方を見ると、カーテンが風に煽られ揺らめいている。

 少しだけ寒い。

 きっと、男は窓ガラスを割って侵入してきたのだ。


「おい……何してんだよ」


 ドスを効かせた声で言うと、男はギョッとしたように目を見開き、後ずさった。

 その足取りは覚束ない。

 それほどまでに男は動揺しているということだ。

 さらに言うと、間抜けなことに男は顔を隠すなどという努力を微塵もしていない。

 30歳前後の面をありのままに曝け出している。

 

 間抜けな男は、腕を緊張で震わせながら身につけていた上下セットの黒ジャージのポケットを弄った。

 そこから取り出したのは簡素な果物ナイフであり、ギリギリ銃刀法違反にならない程度のものだった。

 ちゃんと法律を遵守しているあたり、まだまだ甘い。

 一歩を踏み出す勇気を持てていない。


 男は初めての犯行なのだろう。

 晒したままの表情に浮かぶ緊張の色を微塵も隠せておらず、その瞳には恐怖が滲み出てしまっている。

 そんな男の様子と手に持つ果物ナイフを見た僕が思ったことは、「またなのか」などと言う半ば諦めに使いものだった。

 そして、そんな思考は僕の口から言葉として漏れ出ていたようだ。

 


「お、おい。何がまたなんだよ!」


 僕の言葉に、男が思っていたよりも高めの声を張り上げた。

 だけれど、その質問に僕が答える義理はない。

 それ以前に、質問に答えたところで男は理解することができないだろう。

 また加奈が命を落とすことになるだなんて。

 そんな事を言ったところで、多くの人からしたら突拍子のない話でしかなく、素直に意味を受け取る事など出来ない。


「な、な、なな、なんで黙り込むんだ」


 ろくに頼りにならない滑舌でまともに話す事ができずにいる男は、取り出したナイフをこちらへ向けている。

 その刃先は男の心象を表しているかのよう。

 狙いを定め切る事ができず、あちらこちらへと方向転換を繰り返している。


「別に……黙り込んでなんかない」


「じゃ、じ、じゃあ、なんですぐに質問にこ、答えないんだ」


「答えたところで、言葉の意味を理解出来る人間が俺しかいないだけだから」


 そう答えた僕の顔は鏡で見る事などしなくとも、自分自身でわかってしまうほどに乾ききった表情をしていた……ハズ。

 焦点などろくに合わず、何を見ているのかすら自分でよくわかっていない。

 朧げな世界で霞み始めた何かを求めて、その目的すらもわからずにただ繰り返す。

 僕はこのまま力を使い続けて、本当に幸せを手にすることができるのだろうか。

 そもそも、僕が幸せになれる日なんて来るのだろうか。


 困惑する様子のままこちらにナイフの刃先を向けてくる男。

 一方で、半ば諦めたような調子でその男を見る僕。

 僕たちは互いに距離を置いた状態で向かいあい、そのまましばらくの時間が経っていた。

 どうせお前が加奈を殺すのだろう。

 どうせ、加奈はまた命を落とすのだろう。

 そう思うと、僕は男に対して”もうやることをさっさとやってくれ”としか思えなくて、動く気力も湧かなかった。


 そうして三十分ほど互いに動かない、何も起こらない時間が続き、時計がとうとう疲れて長い針を下へ降ろした頃。


「んっ……」


 眠そうに目元を手の甲でこすりながら、重めの掛け布団を押しのけて加奈が起き上がった。

 というか、ガラスが割れるだなんていう大きな音が鳴ったにもかかわらず、今まで起きなかった事の方が不思議だ。


 そして、加奈が起き上がった事で男は過剰なほどに驚いて動揺してしまっている。

 膝が震え出し、僕に向いていた刃先がフラフラと迷いだし、結果として加奈を捉えた。

 瞬間、男は加奈を人質にとればいいのだと、その思考にようやくたどり着いた。

 その様子を見た僕は、「やっぱりまたなのか」と、誰に訴えかけるわけでもなく零す。

 とはいえ、もう心のどこかで覚悟していたことだから、動揺もできない。


 寝起き眼で不明瞭な世界を彷徨う加奈は、そのボケた視界でなんとか二人の男がいる事を確認し、かすれた声を絞り出した。


「……あれ、大器。大輔を呼んだの?」


 自分の存在を正確に把握していない事を吉と見たのか、男はナイフを下ろしてすぐさま加奈に近づいた。

 そして、「どうしたの?」と半ば惚けるように問いた加奈を後ろから抱きつく形で拘束し、ナイフをその真白な首元にあてがった。


「う、うご、動くな! 少しでも動いたらこいつの首を切るぞ」


 声の震えを抑えられない男はそのまま加奈を連れて後ずさる。

 ようやく頭が起動した加奈は、目の前にいる僕の表情があまり良いものではない事と、首元に伝う冷たい感覚が鋭利な何かのものであると気づいたことで、顔を青ざめさせた。


「なにこれ……嫌」


 冷たく鋭いその感覚が命のぬくもりを吸いかねない物である事など、簡単に悟る事ができる。

 ナイフ自体を見る事などしなくとも、肌に触れたその感覚だけで本能的に悟ってしまうのだ。

 これは、命を奪う代物であると。

 現に加奈は自らへ命の危機が迫っている事を悟っているようで、今まで見た事ない程に動揺している。


 動揺する加奈に、さらに動揺する男。

 そのナイフを握る手はどこか不安定で、ふとした瞬間に”うっかり”なんて馬鹿馬鹿しいキッカケで加奈を刺してしまいそう。

 加奈は加奈で、自らがそんなに危ない状況にいる事を把握できていないようだ。

 なんとか男を振り払おうと、自身に後ろから抱きつく形になっている男の腕をなんとか退かそうと、せわしなく動く。


 果たして、「こ、このっ! 動くな!」と男が焦るように言葉を発した次の瞬間には……


「あっ」


 加奈の首元から血しぶきが上がっていた。

 よりにもよって太い血管を切られたようだ。

 困惑と驚愕の混ざったような声が部屋に木霊した。

 だけれど、その声が誰のものだったのかはわからない。

 加奈のものかもしれないし男のものかもしれない。

 もしかしたら僕のものだったのかも。

 その声の主が誰なのかを探る事ができるほど、部屋の中にいる僕たちはまともに、正確に物事を把握することなどできていなかった。


「ち、違う! おれは悪くない!」


 目を見開き、首から溢れ出る血を身の内に止めようと傷口を両手で押さえる加奈。

 男は必死に傷口を押さえる加奈を突き飛ばし、部屋から出ようと風の入り込む割れた窓へと、相変わらず覚束ない足取りで寄ってゆく。


 フラフラと左右に歩がブレるせいで、さっさと部屋から出て行く事のできないい男。

 その男の背中を見ていると、なんとも言えない惨めな気持ちに見舞われた。


 本来ならば救急車と警察を呼び、床に倒れこんで荒呼吸を繰り返す加奈に歩み寄って安心させる言葉の一つや二つをかけるべきなのだろうが、僕はその選択肢を選ばなかった。


 いつも通りベルトのバックルに手を伸ばしてバタフライナイフを取り出すと、ようやくの事で割れた窓をくぐった男に駆け寄った。

 狭い部屋の中を駆けるだなんて表現していいのかは微妙なところだが、それでも僕は彼に駆け寄った。


 買い物袋を蹴飛ばし、携帯電話を蹴飛ばし。

 そして、窓を勢いよく開け放つ。


 男は、ベランダの柵に手をかけて乗り越えようと試みていた。

 その背中に、僕は思いっきりナイフを突き立てる。

 殺意を持って、深く深く突き刺す。

 刃が全て男の体に埋まりきったところで、刃で肉を抉るように手首をひねる。


「ああああアアアアアア!!!! 痛い! 痛い痛い痛い!」


 肉を抉られた痛みが神経を通して、男の脳を熱く焼き切ろうと牙を剥く。

 まぁ、僕はそんな感覚を味わったことが無いわけで、実際のところはどうなのか分からない。

 けれど、そんな事はどうでもいい。


「なんで! なんでなんでなんで! !どうして俺がぁあぁああ痛い!」


 先ほどまでの動揺に痛みが合わさり、男は何を言っているのかわからない雄叫びをあげる。

 本当に近所迷惑な男だ。


 どこからともなく犬の吠える声が聞こえる。

 きっと、犬もこの男のせいで静かな夜を過ごす事ができないのだ。

 だから早く静かにしてあげよう。

 この男を黙らせて、この周の世界を静かなものにして、僕は次の周の世界に向かう。

 僕はそうやって幸せになる。

 僕にはそれが許されているんだ。

 行く先で幸せが待ってくれているかは定かでは無い。

 けれど、待っていない確証も無い。


 咆える男の背からナイフを抜き、その頬に力いっぱい突き刺す。

 次は首元。

 その次は目。

 胸元。

 腹。

 腹。

 腹。


 冬の寒さなど、男から飛び散った熱い血をかぶったせいで気にならない。

 肌は冬のチクリとした空気の感覚と血のぬらりとした気持ち悪い感覚をまばらに感じており、僕の感情的ではない、実像的な感覚も麻痺してしまいそうだった。


 しばらくして男が静かになると、それを待っていたかのようにいつもの目眩が頭痛を伴いながら姿を現した。

 僕はその存在をしっかりと認識し、今回の世界を切り捨てた。


実像的な感覚というのは、一言で言うとただの触覚です。

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