第六節
こみ上げる目眩と激しい頭痛から逃れるように、僕はいつものように瞼を下ろした。
目を瞑り、平衡感覚が失われたような錯覚が消え去るのを静かに待つ。
一秒経ち。
二秒経ち。
三秒経つ。
力の弊害と思われるこの感覚は、最初の頃は瞬き一つで解消された。
だが、力を使って何度となく過去へ遡るにつれ、この目眩を解消する際に必要な時間が次第に伸びていった。
……ような気がする。いや、多分勘違いなのかもしれない。
体感で五秒が経過した頃、ようやく酔うような目眩の感覚が消え去った。
今度は、わずかに頭痛が残っている。
けれど、それは遡る前に僕に襲いかかった激しい頭痛とは異なる朧げな鈍痛だ。
きっと力の弊害ではなく、遡る直前の出来事が信じられなくて、こんな記憶は受け入れないぞと脳が拒絶反応を起こしているのではないかと思う。
両の瞼をゆっくりと持ち上げる。
「痛っ」
遡ったのは半日ほど前。
警察に解放してもらえた直後だった。
僕たちは二人でキッチンに並び、料理をしているその最中。
しかも、僕に関しては包丁で年越し蕎麦用のネギを切っている最中であり、遡ってすぐの僕は包丁で指を切ってしまった。
よく磨いてある銀の包丁に、真赤な血液が微量程だが纏わりつく。
傷は思いのほか深いもので、傷口からはどんどん血が溢れてくる。
せっかく切った白ネギに僕の血が降りかかってしまい、真っ白な可食部が朱に染まる。
「……大丈夫?」
加奈が心配そうに僕の顔を覗き込んでくるが、僕は心配させないように「大丈夫」とだけ言ってすぐに傷口を手拭き用の布巾で覆った。
その様子を見てなのか、加奈はより一層不安そうな顔になる。
「ねぇ。疲れてる?」
抑揚の少ない加奈の声が耳に届いてきて、僕の麻痺した感覚神経を刺激する。
だけど、僕の心はもうその程度では動かないほどに痺れきっている。
これまで幾度となく加奈を失い、僕はその度に過去に遡った。
何度もなんども、二度と会うことができないと思っていた人との再会を果たした。
だからこそ、僕は慣れてしまったんだ。
失ってしまった大切な人に再び会うことに、その感動に、僕はすっかり慣れてしまった。
「ねぇってば! 聞いてるの?」
僕が考え事をしてしまっていると、加奈は僕が無視していると思ったのか、いつもより語調を強めて僕を小突いてきた。
「いや、ごめん。聞いてるよ」
「どう? 絆創膏持ってこようか?」
「いや、そこまでは大きな怪我じゃないから大丈夫」
「嘘。大丈夫じゃないから、ちょっと待ってて」
エプロン姿のままキッチンから出て行く加奈の後ろ姿を見て、僕はなぜだか引き留めたくなった。
ほとんど無意識のうちに怪我をしていない方の手を伸ばし、その細い腕を掴む。
「……どうしたの?」
「いや……ちょっと……」
そのまま口籠ってしまった僕を見て、加奈がわかりやすく動揺する。
申し訳ないけれど、僕自身すらどうして加奈の腕を掴んだのかわからない。
本当に咄嗟の行動で、本当に無意識で、僕も困惑している。
だから僕は加奈の不安そうな顔を見ても、「どうしたの?」と問いてくる彼女の言葉に返すべき言葉を返せずにいる。
返すべき言葉を見つけられずにいる。
「……ねぇ。本当に大丈夫?」
その言葉からは先ほどまでの心配の色が失われ、代わりとして、疑いに限りなく近い何かが新たな色として着色されていた。
「……うん。大丈夫だから」
なんとか、僕はそれだけの言葉を絞り出す。
加奈は、懐疑の色をより濃く表情に表した。
「……何か……隠し事とかしてない?」
「そんなこと……」
するハズがないじゃあないか。
大切な恋人である君に隠し事だなんてするハズない。
そんな言葉を言うことは僕にはできなかった。
だって、現に僕は加奈に対して隠し事をしてしまっている。
自分の力のこと。
何度となく人生をやり直していること。
その理由が加奈であること。
それら全てを加奈にバレないよう、僕は隠してしまっている。
だから、僕は加奈の言葉に対して吃ってしまった。
「……まぁ。何もないならそれでいいよ」
気を使ってそう言ってくれたのかは分からないけれど、この時の加奈の顔は一目見ればわかるほどに寂しそうで、僕は選択を誤ってしまったのではないかと、自分を責めた。
そのあと、僕たちはさほど会話をすることなく食事の準備をして、ただ無言でテレビを見ながら蕎麦を食べ、順に風呂に入って眠りについた。
加奈は僕のベッドを使って一人で眠り、僕は地べたに寝転んで座布団を枕代わりにして眠った。
エアコンだけではどうも肌寒かったけれど、だからと言って狭いベッドで二人並んで眠られるような気分でもなかった。




