第三節
両目を開くと、景色は自室へと移り変わっていた。
勉強机。安物のテレビ。ノートパソコン。
スミノフとレッドブルだけが入った冷蔵庫。
遡って最初に見た光景は、そんな見慣れた光景だった。
着ていたスウェットのポケットから携帯電話を取り出し、日付を確認する。
十二月二十七日。
時間は夜の十一時頃。
おおよそで四日半ほど遡ったことになる。
部屋の端に寄せてあるシングルベットに腰をかけ、どうしようかと考える。
腕を組み、考えているような仕草をしてみるものの、この行為自体には意味などない。
ただ考えているような錯覚に自信を陥れているだけだ。
遡る前の、医者を殺した時の感覚がまだ手の平に残っている。
死を間際にした医者の表情がまだ両の瞳に焼き付いている。
心臓が止まり、体重が生前に比べ二十一グラムほど軽くなった加奈。
その姿がまだ両の瞳に焼き付いている。
心が消滅してしまい、死体として成り立ってしまった加奈の姿がまだ……。
吐きそうになって、ハッとした。
こうやって時間を無為に食いつぶしている暇はないのだと遅れ馳せながら気がついた。
遡る前に僕へ襲いかかっていた激しい頭痛は、すっかりとなりを潜めている。
あれはいったい何だったのだろうか。
気にする程の物ではないかと思い直し、携帯電話の電話帳から加奈の名前を探し出す。
幸い、僕の電話帳には探すのに手間がかかるほどの人数が登録されておらず、加奈の登録名はすぐに見つかった。
通話ボタンを押し、携帯電話を耳に押し当てる。
プルルルという呼び出し音が一度二度と鳴り、三度目に差し掛かろうとしたところで『 もしもし 』と静かな女性の声が僕の耳に届いた。
もう何度となく聞いてきた声。
愛おしい加奈の声だ。
加奈の声はどことなく眠そうで元気がない。
恐らくすでに布団に潜っていたのだろう。
少しだけ申し訳ない。
けれど、今はそんな感情に構ってはいられない。
数日後に訪れるかもしれない、最悪の結末を変えないといけない。
「もしもし。もう寝てた?」
『 うん 』
眠たげに、加奈は電話の向こう側で頷く。
羽毛布団の布擦れの音が少し大きくて、加奈の小さな声を僅かに掻き消す。
「起こしちゃってごめんね」
『 いいよ別に。それで、どうしたの? 』
「今年の大晦日だけどさ、二人で年を越してそのまま日付変わったらすぐに初詣に行かない?」
電話口から『 えー 』と、加奈の渋るような声が聞こえて来る。
そりゃあそうだろう。元来、加奈は朝だけでなく夜も弱いタイプの人間なのだ。
つまり、もともと早寝遅起きの睡眠大好き人間なのだ。
けれど、数日後は違う。
加奈は偶然夜中まで起きていて、偶然外出し、偶然通り魔に殺される。
その結末を既に知っている僕は、加奈を説得しなければならない。
渋ってなかなか返事をしようとしない加奈に対し、僕も退かない。
この可憐な花を散らすことなど、僕は絶対にさせない。許さない。
「大丈夫。最悪、眠くて初詣に行けないならそれでもいい。ただ、今年は二人で一緒に年を越そうよ」
『 んー。そんなに言うならまぁ 』
思っていたよりも、ずっと簡単に加奈は承諾した。
なんだか予想外で、僕は間の抜けたような声でつい聞き返してしまう。
「え、ほ、本当?」
『 こんな事で嘘ついてどうするの? 』
電話の向こう側で加奈がクスクスと笑うのが聞こえる。
本当に僕の誘いを受けてくれたようだ。
つまり、これで僕は大晦日から元日にかけて加奈を警護することができるという訳だ。
つまり、これで加奈が通り魔に襲われる未来を回避することができるという訳だ。
なんというか、拍子抜けだ。
こうも容易く不足の事態が回避できて大丈夫なのだろうか。
「そうだよな。こんなことで嘘はつかないよな」
『 うん。でも、大晦日の日、私が耐えられずに寝ちゃっても怒らないでね? 』
念の為にと、加奈は眠そうな声で言う。
そのあまりにも平和なお願い事に、僕は笑いながら返した。
「大丈夫。そんな事じゃあ怒らないから」
『 本当? 』
「本当だって。こんなことで嘘ついてどうするのさ」
再び電話口から加奈がクスクスと笑う声が聞こえて来る。
その笑い声を聞いて、僕はしみじみと思った。
僕はやっぱり加奈とこうして話をしている時間が幸せだ。
これがきっと僕の幸せなんだ。
と、本当に素直にそう思った。
僕は胸に込み上げた何とも言いえない綺麗な感情を噛み締め、加奈に「おやすみ」と電話を切る挨拶をした。
加奈が『 うん。おやすみ 』と言うのを聞き、僕は携帯電話を耳から話す。
果たして、部屋には静寂が満ちた。
だが、その静寂は完全に無音という訳でもなく、冷蔵庫やエアコン、換気扇などの機械類が発する駆動音のようなものがわずかにだが溶け込んでいる。
独り身だった時はこの静寂に身を置くと虚しさに押し潰されそうだった。
寂しさで吐き気を催した。
惨めさで前向きなことなんて考えられなかった。
けれど、今はもう違う。
僕には加奈がいる。大切な女性だ。
僕を支えてくれる僕の太陽。
いや、彼女はもの静かだから、どちらかといえば僕を照らす月だろう。
さらに言うのであれば、一週目と違って邪魔者である大輔にはすでに時限爆弾をプレゼントしてある。
ある特定の日時に確実に死んでしまうという、実に強力な時限爆弾を。
だから……。
だからきっと…………。
きっと、今度こそ僕は幸せになれるんだ。