第二節
一月一日。
それは、僕が大規模な遡りを行う際に大輔を殺した日の日付だ。
そして今回、加奈と初詣に行く約束をした日でもある。
この日、大輔は朝の七時から八時の間に死ぬことになっていた。
一周目に僕が大輔を殺したのが、早朝のその時間帯だったから。
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その日、僕は携帯電話の騒々しい着信音で目を覚ました。
時刻は朝の八時前。
後になって気づいたことだが、七時過ぎ頃から何度も電話が鳴っていた。
「なんだよ……煩いなぁ」
半ば眠ったような状態でイラつき半分で煩いというものの、そのセリフで着信が止まるような良心的な機能はまだ存在していない。
僕は無理やり両目をこじ開け、眠気に抗いながら携帯電話の画面を見た。
表示された名前は大輔のもの。
僕は少しだけ顔を顰めながら画面に表示された通話開始ボタンを押す。
電話の向こう側から複数人が会話するような騒がしい声が聞こえた。
「もしもし。大輔? どうした?」
『 あ、ようやく出た。ようやく出ました! 』
大輔は僕と電話が繋がったとわかると、僕では無い誰かに報告するように声を上げた。
「うるせぇよ。こんなに朝早くどうしたんだよ」
冬場の寝起きのガサついた声が喉から口を通して吐き出た。
『 どうしたじゃねぇよ! お前今すぐ病院に来い。加奈が通り魔に刺された! 』
先ほどまで起きるのを嫌がっていた僕の脳が一気に覚醒するのを感じた。
ぼやけていた視界はすぐさま明瞭になり、思考にかかっていた霧のような靄は消え去った。
「すぐに向かう!」
それだけ言うと、僕は電話を切って部屋着のまま家を飛び出した。
肌を刺すような冬の寒さなど気にならなず、素足でクロックスを履いて玄関の鍵も閉めずに家を出る。
すぐさま車にキーを挿してエンジンをかける。
元日という日の性質上、皆が初詣や初売りに向かうため、道路はどこも渋滞気味だった。
挙句、僕の前を走る車は鈍間な車が多く、遭遇する信号にも悉く捕まってしまった。
通常ならば家を出て車で二十分ほどで着く病院に四十分近くかけて辿り着いた時、既に加奈は息を引き取っていた。
集中治療室のすぐ隣にある重症患者用の病室。
やけに広く見たことのない機械が無数にある病室の、シーツの白さが目につくベッドに横たわる加奈の死体。
その顔に苦悶の様子はなく、いつものようにほとんど感情を悟らせなかった。
何かの例えとかではなく、本当に寝ているのか死んでいるのかわからないほどだ。
「お前! 遅ぇんだよ!」
大輔が呆然と加奈を見つめる僕の襟元を掴み上げ、怒鳴り声を上げてくる。
いつもなら冗談半分に汚い言葉を吐き捨てて大輔を引き剥がすのだが、今はそんなことできる余裕は無い。
加奈の両親がすすり泣く姿が嫌に瞳に焼き付いてしまう。
医師はこの状況から目を逸らすように、現実から目を逸らすように、静かに部屋の隅を見つめ続けている。
彼ら彼女らの背後に写る乳白色のリノリウムは、まるでグリーンバックに投影した背景のようにどこか浮いて見える。
瞳が、世界を歪めて捉える。
自分が泣いている事を、僕はどうしても認めたくなかった。
「お前がもう少し早く来てたならな! 加奈は助かったかもしれないんだぞ!」
そう言いながら僕を殴ろうとする大輔を加奈の父親が止めた。
「大輔。大器君のせいにしちゃあダメだよ。今回はこの場の誰かが悪いとかじゃあ無いんだ」
そうやって大輔をなだめる加奈の父親は、やりようの無い怒りをどうすれば良いのかと唇を噛んだ。
唇を噛んで怒りを暫く堪えると、加奈の父親は僕には語るべきだろうと、加奈に何があったのかを教えてくれた。
普段は十時頃には床に就く加奈だが、昨日は珍しく夜更かしをしていて、これまた珍しく深夜に近所のコンビニへ出かけたらしい。
その際だった。その際に、加奈は家から出て直ぐの所で通り魔に襲われた。
加奈は通り魔にナイフで刺され、発見されたのはつい数時間前。
何かを盗まれただとか貞操を汚されたとかそう言った物事は一切なかったそうだ。
つまり、加奈は殺すことだけを目的として殺されたことになる。
犯人は一体どのような心情で加奈を殺したのだろうか。
加奈は最後、どのような表情をしていたのだろうか。
加奈は最後何を考えていたのだろうか。
犯人はどうして加奈を殺したのだろうか。
犯人と加奈に対して様々な疑問が浮かんでくる。
今目の前にある事実を受け入れたく無いがために、別の場所に関心を埋めこもうと僕の心が必死になって蠢めく。
僕の頭の中は、加奈を失ったことによる喪失感よりも怒りばかりが湧き上がっていた。
その所為か、僕は運命の時間になっても大輔が死んでいないことに気がつかなかった。
その事実に、全くもって目が向かなかった。
沈む気分に歯止めが効かなくなっている加奈の両親。
怒りの矛先を正体のわからない犯人ではなく僕へと向ける大輔。
自分は悪く無いですよと目をそらし続ける医師。
とにかく、その場にいる全員だった。
その場にいる全員に向け、僕はゆっくりと口を開く。
「……大丈夫」
加奈の両親が僕を見る。
「大丈夫。加奈は俺が救って見せます」
理解できないとでも言わんばかりに首をかしげる加奈の両親。
一方で、大輔は僕の言葉を聞いて両目を見開いた。
大輔は僕の心意に気づいたようだ。
「お前、何言ってんだよ……」
そう言いながら僕を止めようとする大輔を振り払い、僕はポケットに入っているバタフライナイフを取り出す。
そして、部屋の隅で目を逸らし続ける医師の首元へ駆け寄って、僕はナイフを突き立てた。
刃先が骨にあたり、鈍い音と共に重い振動が手のひらへと伝う。
いつか猫を轢いた時よりも、ずっとずっと重く生々しい振動だ。
けど、何故か猫を轢いた時よりもずっと現実味が薄く感じられる。
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!」
後頭部の芯のあたりから、鈍く激しい痛みが込み上がってきた。
その鈍痛と表するが相応しい頭痛を、叫び声を上げる事で誤魔化す。
遡りの際にこんな頭痛に襲われるのは初めての経験だったが、とにかく叫んで紛らわせなければ僕はどうにかなってしまいそうだった。
僕は雄叫びを喉の底から絞り切りながら、いつも通りに突き立てたナイフを捻る。
肉を抉るように。
突き立てた部分に穴を開けるように。
僕はナイフを捻る。
医師の付き添いである看護婦の悲鳴が部屋へと響き渡る。
僕の叫び声と入れ替わりに生まれた甲高い耳障りな声だ。
加奈の両親は一連の出来事を理解できないとでも主張するように、瞬きすらすることなく医師を眺めている。
首から血しぶきを上げ、奇声を伴って地べたへと崩れ落ちる医師のその様を、ただただ眺めている。
医師が喉の傷口と口から漏らす呻き声が次第に弱まっていく。
それと比例するように頭痛は激しくなっていき、反比例するように僕は眩暈に襲われた。
頭痛は初めてだが、眩暈はもう何度も経験した感覚だ。
頭の芯の方がクラクラとして、視界が歪み、次第に吐き気を伴って意識が遠のいていく。
僕はその慣れた感覚に逆らうことなく身を委ね、意識を手放した。