第十節
普段、人間を殺せば少なくとも数日単位で遡るものだった。
どれだけ遠い他人であろうと、最低でも数日は遡るものだった。
だが、今回に男を殺して遡った際、僕はほんの二時間ほどしか遡らなかった。
僕の中の前提条件が、崩れる音が聞こえ始めた。
遡った僕がまず行った事は先生への相談だ。
安藤先生を見つけ、不審者を見かけた事。
その不審者が追いかけている事。
そして、その不審者の狙いが加奈である事を告げる。
この程度でどうこうできるとは思っていないが、前回殺したのは問題の男だ。
時間さえ稼げれば、前の周と同じ時間で命を落とす。
その時間さえ過ぎればもう安心だ。
電車を待ち始めてから少し経ち、駅構内にはアナウンスが鳴り響いた。
次いで、僕たちの背後に電車が止まる。
「先生、来ますよ。大輔は加奈さんから目を離さないで」
「任せろ」
「本当に不審者なんて来るんですか?」
安藤先生が不審がって僕に問いてくるが、その答えはすぐに分かる事となった。
僕たちは一周目に並んでいた列と同じ列に待機しているのだが、停車した電車の僕たちの正面にやってきた扉が開いたとき、男はやはりそこにいた。
「先生あいつです」
「はぁ」
先生は未だに信じていない様子で、疑わしそうに男を見る。
男は少しの間ホーム内を見回した後、首をかしげた。
きっと、加奈を探して見つからなかったからだろう。
何せ、加奈は僕と先生が横並びで並んでいる後ろ側に隠れているのだ。
つまりは列に於いて僕と先生の一つ前に並んでいるのだ。
男から見れば加奈を認識する事は出来ない。
だが、これはあくまでも小中学生が考えるような浅はかな手段でしか無い。
何せ、守るものを気休め程度に視認され辛くしているだけなのだ。
とはいえ、こんなものが時間稼ぎになれば万々歳である。
再び駅構内にアナウンスが響き、僕たちの待っていた側の電車が見え始めた。
すると、アナウンスを聞いて立ちあがった男はゆらゆらと僕に向かって歩き始めた。
電車が止まり、腑抜けた音を出しながら扉を開く。
人々の意識が電車へと集まる。
もちろん先生も。
「お前、さっきも見たぞ」
それは、男のガサついた汚い声だった。
次の瞬間、男が右手を大きく振り上げた。
高く高く突き上げられた右手のひらは何かを握っている。
よく見ると、錆の目立つ歯切れの悪そうな包丁だった。
男が右手を振り下ろす。
僕の視界は徐々にズームになっていく包丁の映像を、まるで他人事であるかのように冷静に捉えていた。
「あ、やばい」
そう思い、僅かながらに口にしたものの、僕の感覚は見当はずれだった。
振り下ろされた包丁は、僕へと向かってくると見せかけて男自身へと向かっていった。
ドスッと言う鈍い音を耳が拾い、次いで男の低い呻き声を拾う。
そして自らの体から包丁を抜き、男は何度もなんども自身の体に突きつけた。
僕は恐る恐る腕時計で時間を確認する。
その時間は、前回の周で僕が目の前の男を殺した時間になっていた。
今回は特に何もやっていないが、どうやら危機を乗り越える事ができたらしい。
冷静な思考を取り戻す事ができたとき、僕の目の前には自害した男が赤く染まりながら力なく横たわっていた。
男自身の発する垢などが溜まった事による強烈な匂いと血の放つ鉄のような香りが混ざり合い、なんとも言えない異臭となって僕の鼻を刺激する。
その光景を前に、僕は少しだけ気分が悪くなった。
せっかくの修学旅行をどうしてこのような無意味な出来事に汚されなければならないのだろう。
そう思いながら、僕は駅構内から少しだけ見る事のできる空を気休めに見つめた。
「天気がいいなぁ……」
空を見上げ、ニヒルを装って呟く僕をよそに、既に先生や加奈、大輔が乗っている電車は腑抜けた音を出しながら扉を閉めてしまった。
いくら加奈を眼前で息絶えている男から遠ざける為とはいえ、流石に僕を置き去りは冷たいんじゃあないかなとは思ったが、そうするように頼んだのは僕自身だ。
これから警察がやってきてホームレスと思われる男の自殺について、僕は少しの間だけ事情聴取を受ける事になるだろう。
きっと、僕が解放されるのはみんなが地元にたどり着いた頃だ。
当然のようにお金もあるわけがなく、僕はどうやって住処のある街まで戻ろうかと考える。
「おい大器。何してんだよ。早く行くぞ」
その声に振り返ると、そこには大輔と加奈が立っていた。
「……は? いや、何してんだよ!」
「何って、お前一人だと寂しいだろうからって思って俺たちも残ってやったんだよ」
「……私にも責任はあるから」
「いやいやいや。二人とも今残ったらどうやって帰るつもりなんだよ。他のみんなは先に帰っちゃうんだぞ」
「そこは大丈夫。先生に新幹線の代金を借りてきた。もちろん、帰ってから返さないといけないけどな」
大輔は、なんてことない調子で言った。
「そもそも、事情聴取とかがあっていつ帰れるかもわからないぞ」
「じゃあ事情聴取なんて受けなければいい」
そう言うと、大輔は太陽のような眩しい笑顔で「行くぞ」と僕の背中を手のひらで強く叩いた。
駅員などの目撃者によって警察に通報が行き、警察が駅にたどり着くよりも早く次の電車が僕たちの目の前に止まった。
僕たちはそれに乗り込んでその場を離れた。
加奈が二度死んでしまったその場を。
今回の分岐点となったその場所を。
僕たちは大輔に急かされ、逃げるように離れた。
この後、先に帰路についていた安藤先生や他の先生、生徒たちと無事に合流をする事ができたのだが、勝手な行動をとったとして数日後に校長室へと呼び出され、一時間に及ぶ説教を受けた話をする必要はあるまい。